婚約破棄。つきましては、こちらに残業代と慰謝料の請求書を

ちゅんりー

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夜会から帰宅する馬車の中、アムリーは死んだ魚のような目をしていた。

ガタゴトと揺れる振動が、疲れた脳みそに響く。

「……解せぬ」

ぽつりと呟いた言葉は、虚空に消えた。

つい数時間前まで、彼女は自由の翼を手に入れたはずだった。

ブラックな王妃教育からの解放。

慰謝料という名の退職金。

これからは毎朝十時まで寝て、趣味の編み物(ストレス解消用のわら人形作り)に没頭するはずだったのだ。

なのに。

「なんで……なんで借金が五億もあるんですか……!」

アムリーは手元の羊皮紙を握りつぶした。

ギルバートから渡された債務明細書。

そこには、父親の署名と、吐き気を催すような数字が並んでいる。

馬車がベルンシュタイン公爵邸の前に止まった。

アムリーは扉が開くのも待たずに飛び出し、屋敷の玄関ホールを風のように駆け抜けた。

「お父様! お父様はいらっしゃいますか!?」

深夜の屋敷に、アムリーの怒号が響き渡る。

パジャマ姿の使用人たちが驚いて顔を出す中、階段の上からのんきな声が降ってきた。

「やあ、おかえりアムリー。今日の夜会はどうだった? カイル殿下とは仲良く……」

「正座してください」

「え?」

「いいから、そこで正座をしてください」

アムリーの剣幕に押され、ベルンシュタイン公爵――アムリーの父であるロベルトは、廊下の真ん中で素直に膝を折った。

この父親、人はいいのだが、致命的に危機管理能力が欠如している。

アムリーは仁王立ちで、しわくちゃになった明細書を突きつけた。

「これは何ですか」

ロベルトは紙を覗き込み、「あー」と間の抜けた声を上げた。

「ライオット公爵から渡されたのかい? 仕事が早いねえ、彼は」

「感心している場合ですか! 連帯保証人!? しかも事業投資詐欺!? この『永久機関開発プロジェクト』って何ですか! 熱力学第二法則をご存知ないんですか!?」

「いやあ、友人の男爵がね、どうしても資金が足りないって泣きついてきて……。夢がある話じゃないか」

「夢でお腹は膨れません! で、その男爵は?」

「先週から連絡が取れないんだ。きっと研究に没頭しているんだろう」

「夜逃げです! それは夜逃げと言うんです!」

アムリーは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

終わった。

完全に終わった。

公爵家の資産を洗いざらい売却しても、この額には届かない。

「アムリー、怒らないでおくれよ。なんとかなるさ」

「なりません。明日から私たちは路頭に迷うんです。屋敷は差し押さえ、お父様はタコ部屋行き、私は……」

アムリーの脳裏に、あの冷徹な男の顔が浮かんだ。

『私の元で働かないか?』

甘い誘惑のように聞こえるが、その実態は「借金をカタに取った強制労働」だ。

王妃教育以上のブラック職場が待っているに違いない。

「……いや、待てよ」

アムリーはむくりと顔を上げた。

瞳に、計算高い光が戻ってくる。

「相手はあのギルバート・フォン・ライオット……。合理主義の塊のような男」

「アムリーちゃん?」

「彼が私を欲しがった理由は『有能な手駒』としての能力と、『防波堤』としての役割。つまり、私には五億の借金をチャラにするだけの市場価値があるということ」

アムリーはぶつぶつと独り言を呟きながら、指先で空中に計算式を描き始めた。

ロベルトがおっかなびっくり声をかける。

「あ、あの、アムリー? ひょっとして、ライオット公爵と結婚するのかい?」

「結婚ではありません。業務提携です」

アムリーはきっぱりと言い放った。

「いいですか、お父様。この借金がある以上、私に選択肢はありません。しかし、ただ言いなりになるつもりもありません」

彼女は立ち上がり、自室へと向かう。

「今から契約書の草案を作成します。明日の朝までに、あの冷徹公爵からふんだくれるだけの労働条件を叩き出しますから!」

「ひえっ、あのアムリーが本気モードだ……」

「お父様は反省文を原稿用紙五十枚書いておいてください! テーマは『美味しい話には裏がある』です!」

バタン! と扉が閉まる音が屋敷に響いた。

          ◇

翌朝。

王城にある宰相執務室の前には、異様な空気が漂っていた。

衛兵たちが緊張した面持ちで直立不動の姿勢を取っている。

その理由は、部屋の中にいる主(あるじ)ではなく、今まさに廊下を歩いてくる一人の令嬢にあった。

カツ、カツ、カツ。

規則正しいヒールの音が近づいてくる。

アムリー・ベルンシュタイン。

昨夜の「婚約破棄騒動」の主役であり、一夜にして「王城で最も敵に回してはいけない女」として名を上げた人物である。

彼女の目の下には、うっすらとクマができていた。

だが、その瞳は爛々と輝き、殺気すら帯びている。

「失礼いたします。ベルンシュタインでございます」

アムリーは衛兵に会釈すらせず、重厚な扉をノックした。

「入れ」

中から短い応答がある。

アムリーは深呼吸を一つし、気合を入れて扉を開けた。

「おはようございます、ライオット公爵閣下」

「早いな。約束の時間より十分早い」

執務机の奥で、ギルバートが書類から顔を上げた。

朝の光を浴びたその姿は、絵画のように美しい。

だが、アムリーにとってそれは「敵将」の姿でしかなかった。

「時間は金(カネ)なり、ですので」

アムリーは許可も待たずにソファへ向かい、持参した鞄から分厚い書類の束を取り出した。

ドサッ。

重たい音がテーブルにする。

ギルバートが眉をひそめた。

「……それは?」

「私からの『逆提案書』です」

アムリーは不敵に笑んだ。

「閣下、昨夜のお話、謹んでお受けいたします。ただし、労働条件に関してこちらの要望をすべて飲んでいただけるならば、ですが」

「ほう」

ギルバートは面白そうに口角を上げた。

彼は立ち上がり、ゆったりとした足取りでソファの対面へと座る。

「借金を肩代わりしてもらう立場で、条件をつけると?」

「借金を肩代わり『させる』だけの価値が私にあると、閣下が判断されたのでは?」

「……口が減らないな」

「お褒めに預かり光栄です。では、第一項から説明させていただきます」

アムリーは指示棒(どこから出したのか)を取り出し、書類を叩いた。

「まず、勤務時間について。基本は九時から十七時。いかなる場合も残業は認めません。もし緊急事態で残業が発生した場合、基本給の五割増しでの支給を求めます」

「五割? 法廷基準は二割五分だ」

「私のストレス対価が含まれております」

「……続けて」

「次に休日。土日祝日は完全休養。さらに、月に三日の『生理休暇』および『メンタルケア休暇』の取得を権利として明記してください」

「王城の文官ですら、そこまで休んでいないぞ」

「彼らが働きすぎなのです。生産性を上げるには休養が不可欠。閣下もご存知でしょう?」

ギルバートは苦笑した。

「いいだろう。他には?」

「ここからが重要です」

アムリーは身を乗り出した。

「業務内容は『宰相補佐』および『婚約者のふり』に限定します。それ以外の、たとえば『夜のお相手』や『後継者作り』といった業務は、契約外事項として一切拒否させていただきます」

執務室の空気が、ピクリと震えた。

ギルバートのアイスブルーの瞳が、すっと細められる。

「……それは、私との結婚生活において、白い結婚を望むということか?」

「ビジネスパートナーですから当然です。愛のない行為は時間の無駄。非生産的です」

アムリーは真顔で言い切った。

ギルバートはしばらくアムリーの顔をじっと見つめ――。

突然、肩を震わせて笑い出した。

「く、くく……! ははははは!」

「……何がおかしいのですか」

「いや、失礼。ここまで清々しい女性は初めてだ」

ギルバートは目尻の涙を指で拭った。

その表情は、先ほどまでの冷徹な仮面が外れ、年相応の青年のように見えた。

「気に入った。その条件、すべて飲もう」

「本当ですか!?」

「ああ。ただし、私からも一つだけ条件がある」

ギルバートはテーブルの上に肘をつき、アムリーの顔を覗き込んだ。

肉食獣のような瞳が、獲物を射抜く。

「契約期間は『終身』とする。……逃がさないよ、アムリー」

アムリーはその言葉の意味を吟味し――。

(終身雇用!? つまり定年まで安泰!?)

「喜んで!」

即答だった。

アムリーは満面の笑みで右手を差し出した。

「契約成立ですね、閣下! いや、旦那様(ボス)!」

「ああ、成立だ。……私の妻(部下)」

二人はガッチリと握手を交わした。

その握手の意味が、互いに微妙に食い違っていることに、まだ誰も気づいていなかった。

          ◇

一方その頃、王太子の執務室では。

「ふん、アムリーのやつ、きっと今頃泣いて詫び状を書いているに違いない」

カイル王太子は、書類の山(アムリーがいなくなったせいで処理されていない)を前に現実逃避をしていた。

隣にいるミナが、おっとりと首を傾げる。

「そうですわねぇ。きっと強がっていただけですわ。だって、カイル様ほど素敵な殿方を振るなんて、ありえませんもの」

「だろう? まあ、三日もすれば泣いて戻ってくるさ。『無給でいいから働かせてください』とな!」

「さすがカイル様! 慈悲深いですぅ!」

二人は高笑いをした。

その足元で、崩れた書類の山が静かに音を立てて雪崩を起こしていたことを、彼らはまだ知らない。
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