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婚約破棄と、新たな婚約者
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春の終わり。花々が咲き誇る王都の庭園で、リディア・グレイス侯爵令嬢は、静かに唇を引き結んでいた。
目の前には、王太子アレクセイ・グランツ。その隣には、平民出身の令嬢、ミラ・クロフォード。アレクセイの手は、ミラの腰にしっかりと添えられている。
まるで何かの劇を見せられているかのようだった。
「リディア・グレイス。君との婚約は、今日をもって破棄する」
それが、王太子の第一声だった。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
声は震えていなかった。だが、内心では血の気が引いていくのを感じる。
婚約破棄など、貴族の娘にとっては死刑宣告に等しい。
「君は完璧すぎる。礼儀正しく、聡明で、決して他人に弱みを見せない。それが……どうしても、愛せないんだ」
そう語る王太子の隣で、ミラが小さくくすりと笑う。その笑みには、勝ち誇ったような色が滲んでいた。
「私のことを心から想ってくれるアレクセイ様を、どうかお許しください。彼は本当に……真実の愛に気づいてしまったのです」
誰も彼女の発言を咎めない。それどころか、周囲に控える貴族たちは、すでに用意されていたかのようにうなずいている。
この場は、初めから出来レースだったのだ。
「ご理解いただけると信じています。君のような聡明な令嬢なら、ね?」
王太子の言葉は、突き放すようで、どこか上から目線だった。
――ああ、この人は最初から私を“人”として見ていなかったのだ。
リディアは静かに一礼した。
「ご決定、承りました。婚約の解消をお受けいたします。今後、陛下及び王室にご迷惑をおかけしないよう、速やかに準備を進めます」
「……君は、本当に最後まで完璧なんだな」
皮肉のような、賞賛のようなその言葉に、リディアは答えなかった。
心の奥で、何かが静かに崩れていく音がした。
***
その夜、リディアは屋敷の書斎で一人、これまでの書簡を整理していた。
父母はすでに事情を知り、深く悲しんでいる。だが、リディアは泣かなかった。いや、泣けなかったのだ。
「……私は、何が悪かったのかしら」
誰に問うでもなく呟く。
あれほど努力してきた。礼儀作法も、歴史も、外交知識も、未来の王妃に相応しくあるために。
けれど――報われなかった。
「それが人生、かしらね」
皮肉めいた笑みを浮かべた瞬間、部屋の扉がノックされた。
「リディア嬢。公爵閣下がお見えです」
「……公爵閣下?」
思わず眉をひそめる。こんな時間に、しかもあのレオンハルト・アイゼンベルク公爵が?
彼は若くして北の領地を束ねる冷徹な軍人であり、王国屈指の名家出身。だが、その表情の硬さと無愛想さで“氷の公爵”と呼ばれている。
どうして彼が、私の元へ?
「……通して」
リディアは背筋を伸ばし、少し口紅を塗り直した。
どんな客人であれ、貴族の娘として失礼のない態度を取るのが務めだ。
やがて現れたその男は、噂通りの存在感だった。
冷たい灰色の瞳。漆黒の髪。整った容姿でありながら、まるで感情を殺しているような無機質な空気を纏っている。
「ご足労いただき、恐れ入ります。リディア・グレイスでございます」
「……話がある」
レオンハルトは、挨拶もそこそこに切り出した。
「君との婚約を、王太子殿下が破棄したことは知っている」
「……そうですか」
「だからこそ、私は君に申し入れたい。私と、婚約してほしい」
一瞬、時が止まった。
「――は?」
「言葉の通りだ。私は君を、妻として迎えたい」
「……あの、突然すぎます。理由をお伺いしても?」
レオンハルトは少しだけ表情を崩した。
「……君の強さが、好きだ」
「……強さ?」
「王太子殿下に婚約を破棄されたあの場で、君は一滴も涙を流さなかった。誰にも媚びず、堂々としていた。あの瞬間、私は確信した。君は、私の隣に相応しい女性だと」
鼓動が、少し早くなった。
「私には、感情を上手に表に出せない欠点がある。だが、それでも構わないと言ってくれるなら……私は、君を生涯かけて大切にする」
その瞳に、偽りはなかった。
冷たいはずの公爵の目が、静かに熱を帯びているのを、リディアは見逃さなかった。
まさか、公爵様が――この私に、婚約を申し込んでくるなんて。
状況が飲み込めずに黙り込んでいると、レオンハルト公爵は言葉を続けた。
「明日にでも、陛下に許可を得てくるつもりだ。もちろん、君が了承すればの話だが」
「……わたくしを、哀れんでいるのですか?」
「哀れんでいるのなら、ここには来ない。君は哀れなどではなく、強く、美しい女性だ」
その言葉に、胸の奥が微かに熱くなった。
これまで“完璧な令嬢”と称されてきたけれど、それはいつも“冷たい”“可愛げがない”という皮肉の裏返しだった。
けれどこの人は、私の“強さ”を美徳だと言ってくれる。
それが――たまらなく嬉しいと思ってしまった。
「お返事は……少し、お時間をいただけますか?」
「ああ、焦らない。君が納得してからで構わない」
そう言って彼は、軽く頭を下げ、扉へと向かう。
「ちなみに――今夜眠れなくなったら、北の星を見上げるといい。私の領地からも、同じ星が見える」
その背中に、リディアは思わず笑ってしまった。
「ずいぶん、甘いことをおっしゃるのですね。冷酷と噂される公爵様が」
レオンハルトは一瞬だけ振り返り、かすかに唇の端を上げた。
「噂は、あてにならない」
そして静かに去っていった。
***
それから三日後。
王宮での許可が正式に下り、リディアとレオンハルトの「仮の婚約」が発表された。
正式な婚姻までは猶予を設けるものの、社交界では実質的に「婚約者」として見なされる状態だ。
公爵邸で暮らすことも決まり、リディアはわずかばかりの荷物を持って、北の館へと足を運ぶ。
噂では無愛想な氷の館――そう呼ばれていたが、実際に訪れてみると意外にも暖かい空気があった。
「ようこそ、公爵邸へ。リディア様」
控える使用人たちはみな、礼儀正しく、よそよそしさのない眼差しでリディアを迎えてくれた。
そしてその中心で待っていたのは、当然のように、レオンハルト公爵本人だった。
「部屋は西棟の二階。君の好みに合わせて整えてある」
「私の……好みに?」
「花が好きだったな。特に藤の香りが好きだと、聞いたことがある」
言われて、胸が詰まりそうになった。
そんな些細なこと、どうして覚えているの――?
「君は、誰も見ていない場所でしか笑わない。だから、私はそれを誰よりも見たいと思った」
なんて不器用な人だろう。
でもその不器用な言葉の端々から、リディアへの想いが滲み出ていた。
彼の溺愛は、決して言葉だけじゃない。行動の一つひとつが、温かい。
***
夕刻。
引っ越しの荷解きが終わり、リディアは渡された部屋を訪れる。
そこには本当に、藤の花の香りがふんわりと漂っていた。
カーテンの色は淡い紫で統一され、家具もどこか優しい木目のぬくもりに溢れている。
「……まるで、夢みたい」
リディアはベッドの端に腰掛け、小さく息をついた。
あの日、王太子に婚約を破棄されたときは、もう一生誰かを信じることはできないと思っていた。
でも今は――胸が静かに、あたたかい。
その夜。星が瞬く空を見上げながら、リディアはそっと呟いた。
「公爵様は、ずるい方ですね……」
この心を、こんなに優しく包んでしまうなんて。
それから数日間、リディアは公爵邸で静かな日々を過ごしていた。
必要以上の干渉はなく、それでいて、孤独を感じる暇もなかった。
朝は丁寧な紅茶で始まり、昼はレオンハルトが自ら案内してくれる庭園を散歩する。
「この花は、北国でしか育たない“銀霜草”だ。寒さに強くて、凍えるほどの環境でも咲き続ける」
「……まるで、公爵様のようですね」
「俺が花に例えられたのは初めてだな。悪くない」
そんなふうに、少しずつ言葉を交わす時間が増えていった。
相変わらず無口ではあるが、レオンハルトの態度はどこか穏やかで、時折不器用な優しさが見え隠れする。
その日も、夕方の庭園で二人きりだった。
「……君は、泣いたことがあるか?」
「え?」
「婚約破棄のあと、夜中に一人で泣いたり、怒ったり……」
唐突な問いに、リディアは目を見開いた。
「……いいえ。泣いたところで、何も変わりませんもの」
そう答えると、レオンハルトは少しだけ目を伏せた。
「それでも、人は涙を流さなければ、心が乾いてしまう」
その言葉に、リディアの胸が少し締めつけられる。
この人は、誰よりも不器用で、誰よりも優しいのかもしれない。
ふと、彼の手が彼女の手に触れた。
指先が重なるだけの、慎ましい接触。
「……冷たいですね」
「北の男だからな。だが、君の手は温かい」
その声が、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。
***
それから数日後の夜。
リディアは、何気なく公爵の書斎を訪れた。
「公爵様、今お時間よろしいでしょうか?」
「リディアか。入れ」
書類を読む彼の姿は、まさに“氷の公爵”そのものだった。
だが、リディアの姿を確認した途端、その表情がわずかに和らぐ。
「どうかしたか?」
「いえ……少しだけ、お話ししたくて」
公爵は書類を脇に寄せ、彼女の方を向いた。
「なら、こちらへ」
促されて近づくと、彼はソファにリディアを座らせ、向かいに腰を下ろす。
「……あのとき。婚約破棄をされたとき、私、本当は泣きたかったんです」
「……そうか」
「でも、泣けなかった。泣いたら、負けてしまう気がして」
「君は、誰よりも強い」
「……でも、公爵様の前では、少しだけ弱くてもいいですか?」
その言葉に、レオンハルトの瞳が揺れた。
そして、そっと彼女の頬に手を添える。
「弱さを見せてくれるのは、信頼している証だ。俺は……君に信じてほしいと思っていた」
触れる指先が、驚くほど優しかった。
「……リディア」
初めて、名前で呼ばれた。
その響きが、胸の奥に甘く沈む。
「俺は君を、本気で妻に迎えたいと思っている。仮の婚約などではなく、正式な……永遠の約束として」
唇が、ほんの少しだけ近づく。
けれど触れはしない。
ただ、彼の熱が、間近に感じられた。
リディアは瞳を伏せ、そっと微笑む。
「……それは、もう少しだけ先に取っておいてもいいですか?」
「もちろんだ」
レオンハルトは微笑み返し、彼女の手を握った。
「焦らない。君が心から望むとき、その時が俺の答えだ」
***
その夜。
部屋へ戻ったリディアは、ひとり、月明かりの差し込む窓辺に立った。
ふと、レオンハルトの言葉を思い出す。
――眠れない夜は、北の星を見上げるといい。
窓の向こうには、凛と輝く星があった。
その輝きを見つめながら、リディアは心の中で小さく呟く。
「この人となら……もう一度、誰かを信じてもいいかもしれない」
胸の奥に灯った小さな炎が、じんわりと温かさを広げていく。
それはまるで、冬の終わりに訪れる、春の兆しのようだった。
目の前には、王太子アレクセイ・グランツ。その隣には、平民出身の令嬢、ミラ・クロフォード。アレクセイの手は、ミラの腰にしっかりと添えられている。
まるで何かの劇を見せられているかのようだった。
「リディア・グレイス。君との婚約は、今日をもって破棄する」
それが、王太子の第一声だった。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
声は震えていなかった。だが、内心では血の気が引いていくのを感じる。
婚約破棄など、貴族の娘にとっては死刑宣告に等しい。
「君は完璧すぎる。礼儀正しく、聡明で、決して他人に弱みを見せない。それが……どうしても、愛せないんだ」
そう語る王太子の隣で、ミラが小さくくすりと笑う。その笑みには、勝ち誇ったような色が滲んでいた。
「私のことを心から想ってくれるアレクセイ様を、どうかお許しください。彼は本当に……真実の愛に気づいてしまったのです」
誰も彼女の発言を咎めない。それどころか、周囲に控える貴族たちは、すでに用意されていたかのようにうなずいている。
この場は、初めから出来レースだったのだ。
「ご理解いただけると信じています。君のような聡明な令嬢なら、ね?」
王太子の言葉は、突き放すようで、どこか上から目線だった。
――ああ、この人は最初から私を“人”として見ていなかったのだ。
リディアは静かに一礼した。
「ご決定、承りました。婚約の解消をお受けいたします。今後、陛下及び王室にご迷惑をおかけしないよう、速やかに準備を進めます」
「……君は、本当に最後まで完璧なんだな」
皮肉のような、賞賛のようなその言葉に、リディアは答えなかった。
心の奥で、何かが静かに崩れていく音がした。
***
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父母はすでに事情を知り、深く悲しんでいる。だが、リディアは泣かなかった。いや、泣けなかったのだ。
「……私は、何が悪かったのかしら」
誰に問うでもなく呟く。
あれほど努力してきた。礼儀作法も、歴史も、外交知識も、未来の王妃に相応しくあるために。
けれど――報われなかった。
「それが人生、かしらね」
皮肉めいた笑みを浮かべた瞬間、部屋の扉がノックされた。
「リディア嬢。公爵閣下がお見えです」
「……公爵閣下?」
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彼は若くして北の領地を束ねる冷徹な軍人であり、王国屈指の名家出身。だが、その表情の硬さと無愛想さで“氷の公爵”と呼ばれている。
どうして彼が、私の元へ?
「……通して」
リディアは背筋を伸ばし、少し口紅を塗り直した。
どんな客人であれ、貴族の娘として失礼のない態度を取るのが務めだ。
やがて現れたその男は、噂通りの存在感だった。
冷たい灰色の瞳。漆黒の髪。整った容姿でありながら、まるで感情を殺しているような無機質な空気を纏っている。
「ご足労いただき、恐れ入ります。リディア・グレイスでございます」
「……話がある」
レオンハルトは、挨拶もそこそこに切り出した。
「君との婚約を、王太子殿下が破棄したことは知っている」
「……そうですか」
「だからこそ、私は君に申し入れたい。私と、婚約してほしい」
一瞬、時が止まった。
「――は?」
「言葉の通りだ。私は君を、妻として迎えたい」
「……あの、突然すぎます。理由をお伺いしても?」
レオンハルトは少しだけ表情を崩した。
「……君の強さが、好きだ」
「……強さ?」
「王太子殿下に婚約を破棄されたあの場で、君は一滴も涙を流さなかった。誰にも媚びず、堂々としていた。あの瞬間、私は確信した。君は、私の隣に相応しい女性だと」
鼓動が、少し早くなった。
「私には、感情を上手に表に出せない欠点がある。だが、それでも構わないと言ってくれるなら……私は、君を生涯かけて大切にする」
その瞳に、偽りはなかった。
冷たいはずの公爵の目が、静かに熱を帯びているのを、リディアは見逃さなかった。
まさか、公爵様が――この私に、婚約を申し込んでくるなんて。
状況が飲み込めずに黙り込んでいると、レオンハルト公爵は言葉を続けた。
「明日にでも、陛下に許可を得てくるつもりだ。もちろん、君が了承すればの話だが」
「……わたくしを、哀れんでいるのですか?」
「哀れんでいるのなら、ここには来ない。君は哀れなどではなく、強く、美しい女性だ」
その言葉に、胸の奥が微かに熱くなった。
これまで“完璧な令嬢”と称されてきたけれど、それはいつも“冷たい”“可愛げがない”という皮肉の裏返しだった。
けれどこの人は、私の“強さ”を美徳だと言ってくれる。
それが――たまらなく嬉しいと思ってしまった。
「お返事は……少し、お時間をいただけますか?」
「ああ、焦らない。君が納得してからで構わない」
そう言って彼は、軽く頭を下げ、扉へと向かう。
「ちなみに――今夜眠れなくなったら、北の星を見上げるといい。私の領地からも、同じ星が見える」
その背中に、リディアは思わず笑ってしまった。
「ずいぶん、甘いことをおっしゃるのですね。冷酷と噂される公爵様が」
レオンハルトは一瞬だけ振り返り、かすかに唇の端を上げた。
「噂は、あてにならない」
そして静かに去っていった。
***
それから三日後。
王宮での許可が正式に下り、リディアとレオンハルトの「仮の婚約」が発表された。
正式な婚姻までは猶予を設けるものの、社交界では実質的に「婚約者」として見なされる状態だ。
公爵邸で暮らすことも決まり、リディアはわずかばかりの荷物を持って、北の館へと足を運ぶ。
噂では無愛想な氷の館――そう呼ばれていたが、実際に訪れてみると意外にも暖かい空気があった。
「ようこそ、公爵邸へ。リディア様」
控える使用人たちはみな、礼儀正しく、よそよそしさのない眼差しでリディアを迎えてくれた。
そしてその中心で待っていたのは、当然のように、レオンハルト公爵本人だった。
「部屋は西棟の二階。君の好みに合わせて整えてある」
「私の……好みに?」
「花が好きだったな。特に藤の香りが好きだと、聞いたことがある」
言われて、胸が詰まりそうになった。
そんな些細なこと、どうして覚えているの――?
「君は、誰も見ていない場所でしか笑わない。だから、私はそれを誰よりも見たいと思った」
なんて不器用な人だろう。
でもその不器用な言葉の端々から、リディアへの想いが滲み出ていた。
彼の溺愛は、決して言葉だけじゃない。行動の一つひとつが、温かい。
***
夕刻。
引っ越しの荷解きが終わり、リディアは渡された部屋を訪れる。
そこには本当に、藤の花の香りがふんわりと漂っていた。
カーテンの色は淡い紫で統一され、家具もどこか優しい木目のぬくもりに溢れている。
「……まるで、夢みたい」
リディアはベッドの端に腰掛け、小さく息をついた。
あの日、王太子に婚約を破棄されたときは、もう一生誰かを信じることはできないと思っていた。
でも今は――胸が静かに、あたたかい。
その夜。星が瞬く空を見上げながら、リディアはそっと呟いた。
「公爵様は、ずるい方ですね……」
この心を、こんなに優しく包んでしまうなんて。
それから数日間、リディアは公爵邸で静かな日々を過ごしていた。
必要以上の干渉はなく、それでいて、孤独を感じる暇もなかった。
朝は丁寧な紅茶で始まり、昼はレオンハルトが自ら案内してくれる庭園を散歩する。
「この花は、北国でしか育たない“銀霜草”だ。寒さに強くて、凍えるほどの環境でも咲き続ける」
「……まるで、公爵様のようですね」
「俺が花に例えられたのは初めてだな。悪くない」
そんなふうに、少しずつ言葉を交わす時間が増えていった。
相変わらず無口ではあるが、レオンハルトの態度はどこか穏やかで、時折不器用な優しさが見え隠れする。
その日も、夕方の庭園で二人きりだった。
「……君は、泣いたことがあるか?」
「え?」
「婚約破棄のあと、夜中に一人で泣いたり、怒ったり……」
唐突な問いに、リディアは目を見開いた。
「……いいえ。泣いたところで、何も変わりませんもの」
そう答えると、レオンハルトは少しだけ目を伏せた。
「それでも、人は涙を流さなければ、心が乾いてしまう」
その言葉に、リディアの胸が少し締めつけられる。
この人は、誰よりも不器用で、誰よりも優しいのかもしれない。
ふと、彼の手が彼女の手に触れた。
指先が重なるだけの、慎ましい接触。
「……冷たいですね」
「北の男だからな。だが、君の手は温かい」
その声が、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。
***
それから数日後の夜。
リディアは、何気なく公爵の書斎を訪れた。
「公爵様、今お時間よろしいでしょうか?」
「リディアか。入れ」
書類を読む彼の姿は、まさに“氷の公爵”そのものだった。
だが、リディアの姿を確認した途端、その表情がわずかに和らぐ。
「どうかしたか?」
「いえ……少しだけ、お話ししたくて」
公爵は書類を脇に寄せ、彼女の方を向いた。
「なら、こちらへ」
促されて近づくと、彼はソファにリディアを座らせ、向かいに腰を下ろす。
「……あのとき。婚約破棄をされたとき、私、本当は泣きたかったんです」
「……そうか」
「でも、泣けなかった。泣いたら、負けてしまう気がして」
「君は、誰よりも強い」
「……でも、公爵様の前では、少しだけ弱くてもいいですか?」
その言葉に、レオンハルトの瞳が揺れた。
そして、そっと彼女の頬に手を添える。
「弱さを見せてくれるのは、信頼している証だ。俺は……君に信じてほしいと思っていた」
触れる指先が、驚くほど優しかった。
「……リディア」
初めて、名前で呼ばれた。
その響きが、胸の奥に甘く沈む。
「俺は君を、本気で妻に迎えたいと思っている。仮の婚約などではなく、正式な……永遠の約束として」
唇が、ほんの少しだけ近づく。
けれど触れはしない。
ただ、彼の熱が、間近に感じられた。
リディアは瞳を伏せ、そっと微笑む。
「……それは、もう少しだけ先に取っておいてもいいですか?」
「もちろんだ」
レオンハルトは微笑み返し、彼女の手を握った。
「焦らない。君が心から望むとき、その時が俺の答えだ」
***
その夜。
部屋へ戻ったリディアは、ひとり、月明かりの差し込む窓辺に立った。
ふと、レオンハルトの言葉を思い出す。
――眠れない夜は、北の星を見上げるといい。
窓の向こうには、凛と輝く星があった。
その輝きを見つめながら、リディアは心の中で小さく呟く。
「この人となら……もう一度、誰かを信じてもいいかもしれない」
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