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仮の婚約、仮の同居生活
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新しい生活が始まって、一週間が経った。
公爵邸での生活は、王宮や実家の侯爵邸とはまるで違う穏やかさに満ちていた。
無理に気を遣うこともなければ、形式ばった空気もない。
朝起きれば優しい香りの紅茶が淹れられていて、昼になれば陽だまりの中で読書に耽る時間があり、夜には静かな夕食を囲む。
――そして、必ず一日に一度、レオンハルト公爵が彼女の傍に現れる。
「花の手入れをしたいと聞いたが、庭に好きなだけ植えてもいい。土は職人が柔らかく耕してくれる」
ふいにそんな提案をしてくれるのも、彼らしいといえば彼らしい。
ぶっきらぼうで、感情表現が不器用な人。
でも、その奥に隠れている優しさは、時折リディアの胸を温かく揺らした。
***
ある日の午後。
リディアは新しく届いた本を片手に、館の図書室でくつろいでいた。
古典文学から詩集、料理本に至るまで、見事な蔵書の数々に、思わず歓声を上げそうになる。
「まるで……小さな王立図書館みたい」
ページをめくっていたそのとき、背後で扉が静かに開いた。
「見つけた。ここにいたのか」
低く落ち着いた声。振り向くと、そこにはいつも通りの無表情で佇むレオンハルトの姿があった。
「公爵様……ご用件でしょうか?」
「特にはない。ただ、顔を見に来ただけだ」
「……そうですか」
どう返すべきか一瞬戸惑うが、その率直さに頬が緩む。
「ここにはよく来られるのですか?」
「昔は。最近は君が来てから、また足を運ぶようになった」
それは――わたくしのために?
そう思った瞬間、胸の奥がひどく熱くなった。
「気になる本があれば、好きなだけ持っていくといい。君の部屋に専用の書棚を用意しよう」
「ありがとうございます。……それにしても、こんなに本がお好きだとは思いませんでした」
「意外だったか?」
「少しだけ。冷酷で、武骨で、書物なんて退屈だと思っていそうで」
「それはずいぶんな偏見だな」
レオンハルトがほんの少しだけ口元を上げた。
その微笑みに、リディアはふと、言葉を失う。
普段はほとんど笑わない彼が、今は確かに、リディアの前でだけ笑っている。
――この人は、わたくしにだけ、特別な顔を見せてくれるのかもしれない。
***
その日の夕食は、屋敷の奥にある小さなダイニングで取られた。
正式な晩餐会のような格式ばった場ではなく、あくまでプライベートな空間。
使用人たちも最低限しか出入りせず、まるで“ふたりだけの食卓”のようだった。
「……静かですね。まるで、世界に二人しかいないみたいです」
「それは、悪くないな」
レオンハルトがワインを口に運びながら、そう答える。
「君といると、不思議と時が緩やかになる」
「それは、褒め言葉と受け取ってよろしいのでしょうか?」
「ああ。俺のような無骨者には、これが精一杯の褒め言葉だ」
思わず吹き出しそうになるのをこらえながら、リディアはふと口を開いた。
「……仮の婚約、でしたわよね?」
「ああ」
「ならば、やはり期限のようなものもあるのでしょうか」
その問いに、レオンハルトはワイングラスを静かに置いた。
「君が望むなら、今すぐ正式にしても構わない。だが、急がなくていい。君の気持ちが整うまで、俺は待つ」
「そんなに……わたくしを、信じてくださるのですか?」
「信じているというより……君といると、無理に心を鎧で覆わずに済む」
それは、彼にとって最大の告白だったのだろう。
リディアの胸は、柔らかな感情で満たされていく。
***
食後、リディアが自室へ戻ると、書棚の一角に新しい本が並んでいるのを見つけた。
しかも、彼女が以前読みたがっていたが王宮ではなかなか手に入らなかった稀覯本だ。
――まさか、公爵様が……?
思い出されるのは、あの微笑。
不器用だけれど真っ直ぐで、誰よりも温かい笑顔。
胸の奥がふわりと熱くなり、リディアは窓の外を見上げた。
夜空には、静かに輝く星がある。
「北の星」は、今夜も変わらず光っていた。
***
ある雨の日、リディアは館の廊下を歩いていた。
分厚い雲が空を覆い、あの明るい庭も今日はどこか寂しげに沈んで見える。
けれど、その重苦しさの中にも、不思議と心地よさを感じていた。
――この屋敷は、どんな天気でも安心できる場所。
それは、公爵という存在が、屋敷そのものに静かな温もりを与えているからなのだろう。
ふと足を止めると、近くの扉から話し声が漏れてきた。
「……ご令嬢を正式に迎え入れるご意向は、本当によろしいのですか?」
使用人の声だ。応じたのは、間違いなく公爵の声だった。
「“仮”ではあるが、気持ちは変わらん。あの子は、俺にとって……」
そこで、言葉が途切れた。
リディアは耳を澄ませたが、もう続きは聞こえない。
――“あの子は、俺にとって”……?
無意識のうちに、胸が跳ねた。
彼があまり感情を表に出さないことはよく知っている。
だからこそ、その断ち切られた言葉の先にある本音を、勝手に想像してしまう。
“特別な存在”だと、もし言ってくれていたら――
***
その夜。
雨の止まない静けさの中、夕食を終えたふたりは書斎のソファで過ごしていた。
「外の音、心地良いですね。静かで、落ち着きます」
「昔から、雨の音は嫌いじゃない」
珍しくレオンハルトが語る口調で、リディアは驚いたようにそちらを見る。
「……そうなのですね」
「ああ。戦場にいたころ、雨の夜だけは敵襲がないとわかっていたからな。無意識に安らいでいたのかもしれん」
言葉の端々から、彼の過去が滲む。
今の穏やかさがどれほどの苦難を経て得たものなのか、少しだけ理解できた気がした。
「わたくし、公爵様のこと……もっと知りたいです」
リディアはそう口にしていた。
自分でも、どうしてこんなに素直になれるのか分からない。
でも、この屋敷に来てから、彼の隣にいると、素の自分を出せる気がした。
レオンハルトはリディアの顔をまっすぐ見つめて言った。
「俺も、君のことをもっと知りたい」
その瞬間、距離がぐっと縮まった気がした。
***
翌日。
天気は回復し、久しぶりに庭園の散歩に出かけることにした。
レオンハルトは仕事の合間を縫って、わざわざリディアに付き添ってくれた。
「これが“星花”ですか? 夜になると光ると聞きました」
「そうだ。北の高地でしか育たない。世話が難しいが……君が気に入ってくれるなら育てた甲斐がある」
「まるで……わたくしのために育てたような口ぶりですわね」
「事実そうだ」
さらりと肯定され、リディアの頬が熱を帯びる。
「……そんな、簡単に口に出されては、困ります」
「なぜだ?」
「……恥ずかしいからです」
ぽつりと漏らしたその一言に、レオンハルトの表情が僅かに崩れた。
それは、彼にしては珍しい、わずかな笑み。
「恥じる必要はない。可愛いと思っただけだ」
「っ……」
リディアは顔を隠すように俯いた。
――この人、本当に無自覚に心臓に悪いことを言うのだから……。
***
その晩、リディアが寝室に戻ると、部屋にはラベンダーの香りが満ちていた。
ベッドサイドには新しい本と共に、小さな菓子箱が置かれている。
「……これは?」
中には、一口サイズのラベンダー・シュガーが丁寧に包まれていた。
「甘いものは好きか?」
突然背後から声がして、リディアは驚きながら振り返った。
そこには、既に部屋を出ていったはずのレオンハルトの姿が。
「驚かせてすまない。伝え忘れていた」
「このお菓子、公爵様が……?」
「君がラベンダーの香りを好きだと言っていたからな。料理長に作らせた」
「……ありがとうございます」
彼の心遣いに、胸がじんと熱くなる。
大げさな愛の言葉より、こうした小さな優しさの方が、ずっと深く心に沁みる。
「……あの、公爵様」
「ん?」
「今夜、少しだけ……ここにいてもらえますか?」
自分でも驚くほど、素直に口をついて出た言葉だった。
公爵は驚いたように瞬きをしたあと、静かに頷く。
「……いいのか?」
「はい。雨の夜を思い出したら、少し、寂しくなってしまって」
「なら、しばらくここにいよう。君が眠るまで」
そう言って、レオンハルトはそっと椅子を引き、彼女の傍に腰掛けた。
部屋は静かで、どこか特別な時間が流れている気がした。
――この人が隣にいるだけで、世界が優しくなる。
そんなことを、リディアは胸の奥でそっと呟いた。
リディアは、静かに目を閉じた。
眠るにはまだ早いが、隣にレオンハルトがいてくれるというだけで、こんなにも心が安らぐのだと知った夜だった。
そしてそのまま、彼の吐息を感じながら――彼女は静かに眠りへと落ちていった。
***
翌朝。
リディアが目を覚ますと、窓辺にはやわらかな朝日が差し込んでいた。
隣に人の気配はない。
けれど、代わりに椅子の上には薄手の毛布が折りたたまれて置かれていた。
昨夜、自分が眠ったあと、きっと彼がそっと掛けてくれたのだろう。
「……優しすぎますわ、公爵様」
呟きながら、リディアは静かに毛布に手を触れた。
それはまるで、ぬくもりの記憶のように彼女の心を包み込む。
***
その日、リディアは執務中のレオンハルトにお茶を差し入れた。
「息抜きも必要ですわよ。甘いお菓子も、ご一緒に」
「……感謝する」
いつものように簡素な返事しか返ってこない。
でも、リディアには分かっていた。
彼の言葉の裏に、どれほどの気遣いと温かさが込められているかを。
「よろしければ、今夜はご一緒に夕食など……」
「今夜?」
少し意外そうな反応。だが、すぐにレオンハルトは顔を緩めた。
「いいだろう。君と過ごす時間は、執務より遥かに有意義だからな」
「……あの、公爵様。いくらなんでも、そういう言葉をさらりと口にされるのは、ずるいです」
「ずるい?」
「はい。心が……揺れてしまいます」
リディアの声は、小さく震えていた。
レオンハルトが、それに気づかないはずもない。
机の上に置かれた書類からゆっくりと視線を外し、彼は立ち上がった。
そして、まっすぐリディアの元へと歩み寄る。
そっと、彼女の手に触れる。
――初めての、直接的な接触。
その手は大きく、温かく、けれど決して乱暴ではなかった。
「リディア」
「……はい」
「俺は――君が思っている以上に、君のことを想っている。だが、急かしたくはない。君が、俺を見てくれるその時まで……待ち続ける」
「わたくしは……」
言葉が続かない。胸が、苦しいほどに高鳴っていた。
でも――この人の優しさを、真っ直ぐな眼差しを、疑うことなんてできるはずがなかった。
「……もう少しだけ、待っていただけますか?」
「いくらでも」
それは、まるで誓いのような、静かなやりとりだった。
***
その夜の食卓は、まるで恋人同士のような雰囲気に包まれていた。
話題はたわいもなく、花の名前や、庭に来る鳥の話、幼い頃の思い出話など。
しかし、ふとした瞬間に視線が合うたび、リディアの鼓動は跳ね上がる。
公爵は変わらず、穏やかに微笑み、時折彼女のグラスへとワインを注ぐ。
「今夜の君は、少し違って見える」
「違う……ですか?」
「そう。まるで……俺のもののように」
「っ……!」
グラスを持つ手が震えた。
「冗談だ。……いや、半分は本気か」
「……もう、公爵様ってば」
抗議の声も、甘やかな微笑も――
この時間の中ではすべてが、静かに溶け合っていく。
***
食後、リディアは廊下を歩いていた。
ふと、夜風に当たりたくなり、庭に出ると――
「……外に出るには冷える。羽織を忘れていたのではないか?」
レオンハルトが、いつの間にか傍にいた。
「まさか、わたくしの後を?」
「偶然だ」
「また、そんな嘘を」
小さく笑うリディアに、彼はゆっくりと羽織を掛けた。
その腕が一瞬だけ、リディアの肩に触れる。
まるで、護るように、包み込むように。
「君が、誰にも渡したくない」
「え……?」
「王太子に婚約を破棄されて、正直ほっとした。君を正式に迎える口実ができたから」
「そんな……!」
「罪深いと思っている。だが、欲しいものは手に入れる。それが公爵家の信条でもある」
「公爵様……」
「……俺の傍に、いてくれるか?」
それは、仮の言葉ではない。
彼の心からの問いかけだった。
リディアの胸に、静かに火が灯る。
「はい……わたくしで、よければ」
月明かりの下で交わされた小さな約束は、誰よりも確かで、甘やかな未来の始まりだった。
***
そしてその夜。
リディアの夢の中で、再びレオンハルトが現れた。
けれどそこには、冷酷と噂された公爵の面影などなく――
ただ一人の女性を、深く深く愛する男の、優しい眼差しだけがあった。
公爵邸での生活は、王宮や実家の侯爵邸とはまるで違う穏やかさに満ちていた。
無理に気を遣うこともなければ、形式ばった空気もない。
朝起きれば優しい香りの紅茶が淹れられていて、昼になれば陽だまりの中で読書に耽る時間があり、夜には静かな夕食を囲む。
――そして、必ず一日に一度、レオンハルト公爵が彼女の傍に現れる。
「花の手入れをしたいと聞いたが、庭に好きなだけ植えてもいい。土は職人が柔らかく耕してくれる」
ふいにそんな提案をしてくれるのも、彼らしいといえば彼らしい。
ぶっきらぼうで、感情表現が不器用な人。
でも、その奥に隠れている優しさは、時折リディアの胸を温かく揺らした。
***
ある日の午後。
リディアは新しく届いた本を片手に、館の図書室でくつろいでいた。
古典文学から詩集、料理本に至るまで、見事な蔵書の数々に、思わず歓声を上げそうになる。
「まるで……小さな王立図書館みたい」
ページをめくっていたそのとき、背後で扉が静かに開いた。
「見つけた。ここにいたのか」
低く落ち着いた声。振り向くと、そこにはいつも通りの無表情で佇むレオンハルトの姿があった。
「公爵様……ご用件でしょうか?」
「特にはない。ただ、顔を見に来ただけだ」
「……そうですか」
どう返すべきか一瞬戸惑うが、その率直さに頬が緩む。
「ここにはよく来られるのですか?」
「昔は。最近は君が来てから、また足を運ぶようになった」
それは――わたくしのために?
そう思った瞬間、胸の奥がひどく熱くなった。
「気になる本があれば、好きなだけ持っていくといい。君の部屋に専用の書棚を用意しよう」
「ありがとうございます。……それにしても、こんなに本がお好きだとは思いませんでした」
「意外だったか?」
「少しだけ。冷酷で、武骨で、書物なんて退屈だと思っていそうで」
「それはずいぶんな偏見だな」
レオンハルトがほんの少しだけ口元を上げた。
その微笑みに、リディアはふと、言葉を失う。
普段はほとんど笑わない彼が、今は確かに、リディアの前でだけ笑っている。
――この人は、わたくしにだけ、特別な顔を見せてくれるのかもしれない。
***
その日の夕食は、屋敷の奥にある小さなダイニングで取られた。
正式な晩餐会のような格式ばった場ではなく、あくまでプライベートな空間。
使用人たちも最低限しか出入りせず、まるで“ふたりだけの食卓”のようだった。
「……静かですね。まるで、世界に二人しかいないみたいです」
「それは、悪くないな」
レオンハルトがワインを口に運びながら、そう答える。
「君といると、不思議と時が緩やかになる」
「それは、褒め言葉と受け取ってよろしいのでしょうか?」
「ああ。俺のような無骨者には、これが精一杯の褒め言葉だ」
思わず吹き出しそうになるのをこらえながら、リディアはふと口を開いた。
「……仮の婚約、でしたわよね?」
「ああ」
「ならば、やはり期限のようなものもあるのでしょうか」
その問いに、レオンハルトはワイングラスを静かに置いた。
「君が望むなら、今すぐ正式にしても構わない。だが、急がなくていい。君の気持ちが整うまで、俺は待つ」
「そんなに……わたくしを、信じてくださるのですか?」
「信じているというより……君といると、無理に心を鎧で覆わずに済む」
それは、彼にとって最大の告白だったのだろう。
リディアの胸は、柔らかな感情で満たされていく。
***
食後、リディアが自室へ戻ると、書棚の一角に新しい本が並んでいるのを見つけた。
しかも、彼女が以前読みたがっていたが王宮ではなかなか手に入らなかった稀覯本だ。
――まさか、公爵様が……?
思い出されるのは、あの微笑。
不器用だけれど真っ直ぐで、誰よりも温かい笑顔。
胸の奥がふわりと熱くなり、リディアは窓の外を見上げた。
夜空には、静かに輝く星がある。
「北の星」は、今夜も変わらず光っていた。
***
ある雨の日、リディアは館の廊下を歩いていた。
分厚い雲が空を覆い、あの明るい庭も今日はどこか寂しげに沈んで見える。
けれど、その重苦しさの中にも、不思議と心地よさを感じていた。
――この屋敷は、どんな天気でも安心できる場所。
それは、公爵という存在が、屋敷そのものに静かな温もりを与えているからなのだろう。
ふと足を止めると、近くの扉から話し声が漏れてきた。
「……ご令嬢を正式に迎え入れるご意向は、本当によろしいのですか?」
使用人の声だ。応じたのは、間違いなく公爵の声だった。
「“仮”ではあるが、気持ちは変わらん。あの子は、俺にとって……」
そこで、言葉が途切れた。
リディアは耳を澄ませたが、もう続きは聞こえない。
――“あの子は、俺にとって”……?
無意識のうちに、胸が跳ねた。
彼があまり感情を表に出さないことはよく知っている。
だからこそ、その断ち切られた言葉の先にある本音を、勝手に想像してしまう。
“特別な存在”だと、もし言ってくれていたら――
***
その夜。
雨の止まない静けさの中、夕食を終えたふたりは書斎のソファで過ごしていた。
「外の音、心地良いですね。静かで、落ち着きます」
「昔から、雨の音は嫌いじゃない」
珍しくレオンハルトが語る口調で、リディアは驚いたようにそちらを見る。
「……そうなのですね」
「ああ。戦場にいたころ、雨の夜だけは敵襲がないとわかっていたからな。無意識に安らいでいたのかもしれん」
言葉の端々から、彼の過去が滲む。
今の穏やかさがどれほどの苦難を経て得たものなのか、少しだけ理解できた気がした。
「わたくし、公爵様のこと……もっと知りたいです」
リディアはそう口にしていた。
自分でも、どうしてこんなに素直になれるのか分からない。
でも、この屋敷に来てから、彼の隣にいると、素の自分を出せる気がした。
レオンハルトはリディアの顔をまっすぐ見つめて言った。
「俺も、君のことをもっと知りたい」
その瞬間、距離がぐっと縮まった気がした。
***
翌日。
天気は回復し、久しぶりに庭園の散歩に出かけることにした。
レオンハルトは仕事の合間を縫って、わざわざリディアに付き添ってくれた。
「これが“星花”ですか? 夜になると光ると聞きました」
「そうだ。北の高地でしか育たない。世話が難しいが……君が気に入ってくれるなら育てた甲斐がある」
「まるで……わたくしのために育てたような口ぶりですわね」
「事実そうだ」
さらりと肯定され、リディアの頬が熱を帯びる。
「……そんな、簡単に口に出されては、困ります」
「なぜだ?」
「……恥ずかしいからです」
ぽつりと漏らしたその一言に、レオンハルトの表情が僅かに崩れた。
それは、彼にしては珍しい、わずかな笑み。
「恥じる必要はない。可愛いと思っただけだ」
「っ……」
リディアは顔を隠すように俯いた。
――この人、本当に無自覚に心臓に悪いことを言うのだから……。
***
その晩、リディアが寝室に戻ると、部屋にはラベンダーの香りが満ちていた。
ベッドサイドには新しい本と共に、小さな菓子箱が置かれている。
「……これは?」
中には、一口サイズのラベンダー・シュガーが丁寧に包まれていた。
「甘いものは好きか?」
突然背後から声がして、リディアは驚きながら振り返った。
そこには、既に部屋を出ていったはずのレオンハルトの姿が。
「驚かせてすまない。伝え忘れていた」
「このお菓子、公爵様が……?」
「君がラベンダーの香りを好きだと言っていたからな。料理長に作らせた」
「……ありがとうございます」
彼の心遣いに、胸がじんと熱くなる。
大げさな愛の言葉より、こうした小さな優しさの方が、ずっと深く心に沁みる。
「……あの、公爵様」
「ん?」
「今夜、少しだけ……ここにいてもらえますか?」
自分でも驚くほど、素直に口をついて出た言葉だった。
公爵は驚いたように瞬きをしたあと、静かに頷く。
「……いいのか?」
「はい。雨の夜を思い出したら、少し、寂しくなってしまって」
「なら、しばらくここにいよう。君が眠るまで」
そう言って、レオンハルトはそっと椅子を引き、彼女の傍に腰掛けた。
部屋は静かで、どこか特別な時間が流れている気がした。
――この人が隣にいるだけで、世界が優しくなる。
そんなことを、リディアは胸の奥でそっと呟いた。
リディアは、静かに目を閉じた。
眠るにはまだ早いが、隣にレオンハルトがいてくれるというだけで、こんなにも心が安らぐのだと知った夜だった。
そしてそのまま、彼の吐息を感じながら――彼女は静かに眠りへと落ちていった。
***
翌朝。
リディアが目を覚ますと、窓辺にはやわらかな朝日が差し込んでいた。
隣に人の気配はない。
けれど、代わりに椅子の上には薄手の毛布が折りたたまれて置かれていた。
昨夜、自分が眠ったあと、きっと彼がそっと掛けてくれたのだろう。
「……優しすぎますわ、公爵様」
呟きながら、リディアは静かに毛布に手を触れた。
それはまるで、ぬくもりの記憶のように彼女の心を包み込む。
***
その日、リディアは執務中のレオンハルトにお茶を差し入れた。
「息抜きも必要ですわよ。甘いお菓子も、ご一緒に」
「……感謝する」
いつものように簡素な返事しか返ってこない。
でも、リディアには分かっていた。
彼の言葉の裏に、どれほどの気遣いと温かさが込められているかを。
「よろしければ、今夜はご一緒に夕食など……」
「今夜?」
少し意外そうな反応。だが、すぐにレオンハルトは顔を緩めた。
「いいだろう。君と過ごす時間は、執務より遥かに有意義だからな」
「……あの、公爵様。いくらなんでも、そういう言葉をさらりと口にされるのは、ずるいです」
「ずるい?」
「はい。心が……揺れてしまいます」
リディアの声は、小さく震えていた。
レオンハルトが、それに気づかないはずもない。
机の上に置かれた書類からゆっくりと視線を外し、彼は立ち上がった。
そして、まっすぐリディアの元へと歩み寄る。
そっと、彼女の手に触れる。
――初めての、直接的な接触。
その手は大きく、温かく、けれど決して乱暴ではなかった。
「リディア」
「……はい」
「俺は――君が思っている以上に、君のことを想っている。だが、急かしたくはない。君が、俺を見てくれるその時まで……待ち続ける」
「わたくしは……」
言葉が続かない。胸が、苦しいほどに高鳴っていた。
でも――この人の優しさを、真っ直ぐな眼差しを、疑うことなんてできるはずがなかった。
「……もう少しだけ、待っていただけますか?」
「いくらでも」
それは、まるで誓いのような、静かなやりとりだった。
***
その夜の食卓は、まるで恋人同士のような雰囲気に包まれていた。
話題はたわいもなく、花の名前や、庭に来る鳥の話、幼い頃の思い出話など。
しかし、ふとした瞬間に視線が合うたび、リディアの鼓動は跳ね上がる。
公爵は変わらず、穏やかに微笑み、時折彼女のグラスへとワインを注ぐ。
「今夜の君は、少し違って見える」
「違う……ですか?」
「そう。まるで……俺のもののように」
「っ……!」
グラスを持つ手が震えた。
「冗談だ。……いや、半分は本気か」
「……もう、公爵様ってば」
抗議の声も、甘やかな微笑も――
この時間の中ではすべてが、静かに溶け合っていく。
***
食後、リディアは廊下を歩いていた。
ふと、夜風に当たりたくなり、庭に出ると――
「……外に出るには冷える。羽織を忘れていたのではないか?」
レオンハルトが、いつの間にか傍にいた。
「まさか、わたくしの後を?」
「偶然だ」
「また、そんな嘘を」
小さく笑うリディアに、彼はゆっくりと羽織を掛けた。
その腕が一瞬だけ、リディアの肩に触れる。
まるで、護るように、包み込むように。
「君が、誰にも渡したくない」
「え……?」
「王太子に婚約を破棄されて、正直ほっとした。君を正式に迎える口実ができたから」
「そんな……!」
「罪深いと思っている。だが、欲しいものは手に入れる。それが公爵家の信条でもある」
「公爵様……」
「……俺の傍に、いてくれるか?」
それは、仮の言葉ではない。
彼の心からの問いかけだった。
リディアの胸に、静かに火が灯る。
「はい……わたくしで、よければ」
月明かりの下で交わされた小さな約束は、誰よりも確かで、甘やかな未来の始まりだった。
***
そしてその夜。
リディアの夢の中で、再びレオンハルトが現れた。
けれどそこには、冷酷と噂された公爵の面影などなく――
ただ一人の女性を、深く深く愛する男の、優しい眼差しだけがあった。
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誰もがノアを笑い、見下し、軽んじる中、ひとりの男が静かに立ち上がった。
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