3 / 8
冷酷公爵の独占欲と、正式な求婚
しおりを挟む
リディアは、目覚めた瞬間から胸が高鳴っていた。
昨夜交わした、レオンハルトとの“仮”ではない約束。
――彼の言葉は確かに本物だった。
そして自分もまた、その気持ちを否定できなかった。
けれど、まだ不安はある。
(わたくしが、公爵様に相応しいのかしら……)
王太子妃になるはずだった令嬢が、いきなり冷酷と呼ばれる公爵の婚約者となる。
周囲が黙って見ているはずがない。
とくに、公爵の政敵たちや、その取り巻きの貴族令嬢たちは。
そんな思いを抱えながら朝食の席についたリディアに、レオンハルトが静かに言った。
「リディア、正式に婚約を申し込もう」
「……えっ?」
パンを口に運ぼうとしていた手が止まる。
「君には、まだ心の整理が必要かもしれない。だが俺の意思は変わらない。今、仮の婚約者などという曖昧な立場では、君を守りきれない」
「わたくしを、守る……?」
「公爵家の屋敷に女性が住み、日々共に過ごしている。好奇の目を向けられるのは時間の問題だ。だが、“婚約者”であれば、誰も何も言えない」
その瞳は真剣だった。
“溺愛”の甘さより、むしろ“覚悟”の強さを感じさせる眼差し。
「わたくしの気持ちは……」
「強制はしない。ただ、ゆっくり考えてくれればいい。だが、君が何も言わなければ、俺は“了承”と受け取る」
「っ……公爵様ったら、ずるいですわ」
「君のそういうところも、好きだ」
さらりと、平然と、そんなことを口にする。
リディアはため息をつきながらも、笑みを隠せなかった。
(この人は、本当に……)
***
午前中の予定は、庭園での散策と、茶会用の花の選定。
侍女たちに付き添われながら庭を歩いていると、屋敷の正門のほうで騒ぎが起こっていた。
「なにかしら……?」
様子を見に行くと、そこには見覚えのある顔があった。
――クラリッサ・フォン・エリントン嬢。
社交界では有名な、王太子に思いを寄せていた伯爵令嬢。
「まぁ、リディア様。こんなところでお会いできるなんて。ふふ、もう“王太子妃殿下”とはお呼びできませんのね?」
リディアはその悪意に満ちた笑みに、静かに微笑み返す。
「ええ。幸い、そんな肩書きとはきっぱり縁が切れましたの」
「でもまぁ、その代わりが“冷酷公爵の気まぐれな庇護”ですものねぇ。お気をつけあそばせ。公爵様の心が離れたとき、あなたの居場所なんて……」
「ご忠告、感謝いたしますわ。でも、公爵様はそのような軽薄な方ではありませんので」
その瞬間、門の奥から黒い馬に乗った人物が現れる。
――レオンハルトだった。
重々しい鎧のような黒の軍服に身を包み、鋭い眼差しをクラリッサに向ける。
「俺の“婚約者”に、何か用か?」
「っ……公爵閣下! い、いえ……少し世間話をと思っただけですわ」
「世間話がしたいなら、よそで頼め。俺の屋敷は、婚約者以外の令嬢の社交場ではない」
「……失礼しました」
さすがのクラリッサも引き下がるしかなかった。
馬を降りたレオンハルトは、リディアの前に来ると、そっと手を取った。
「……大丈夫か?」
「はい。おかげさまで」
「ならいい。……今夜、正式な発表をしよう。君を婚約者として、貴族会にも通達する」
「公爵様……」
「何を言われようが、俺は君を守る。――それだけは、信じてくれ」
その瞳に、迷いはなかった。
リディアはただ、頷くしかなかった。
――もう、この人から逃げることはできない。
それが、幸福な捕縛であると分かっていても。
午後、リディアはレオンハルトの執務室で、書簡の整理を手伝っていた。
「これが貴族会への通達書類ですのね?」
「ああ。君の名前と、公爵家の印章を押した上で、各家へ送る。これで誰にも文句は言わせない」
重厚な羊皮紙に刻まれた金の文字。
その端には、レオンハルト自身の手で記された文言があった。
――『我が婚約者、リディア・フォン・バルニエを正式に迎える』――
読むだけで、胸が熱くなる。
「……公爵様が、ここまでしてくださるなんて。夢のようですわ」
「夢ではない。これは、現実だ。――君を、この手で守ると決めたからには、後戻りなどしない」
その眼差しが、真っ直ぐにリディアを射抜いた。
彼の本気は、どんな飾り言葉よりも重い。
それが分かるからこそ、リディアも応えたくなる。
「……ありがとうございます。わたくし、ちゃんとお隣に立てるよう、努力いたしますわ」
「すでに十分すぎるほど相応しい」
「……うぅ、甘やかしすぎですわ」
リディアが照れ笑いを浮かべると、レオンハルトの口元も自然とほころぶ。
***
夕刻。
公爵邸の一室に、数名の高位貴族が招かれた。
非公式ながら、貴族会の中心人物である彼らに事前通達することで、正式な婚約の“既成事実”を固める目的がある。
「――なるほど、リディア嬢が。これは驚きましたな、公爵殿」
「王太子殿下との破談後、すぐにこうして動かれるとは……いやはや、さすが閣下らしい」
「ですが、公爵様。お言葉ですが、バルニエ侯爵家は今や王太子派では?」
やはり、疑問や牽制の声もある。
だが、レオンハルトは表情を崩さず、ただ一言。
「――だからこそだ」
「……と、申されますと?」
「俺の意志を、国に示す必要があった。派閥がどうであろうと、俺は個として、彼女を選ぶ。それだけの話だ」
静かで力強い言葉に、貴族たちは口をつぐむ。
「それに、俺の婚約者を侮る者があれば、貴族会であろうと容赦はしない。……俺の名にかけて、守り通す」
その宣言は、まるで“王命”のように重く響いた。
その後、場の空気は一転して穏やかになった。
リディアは、少し緊張しながらも落ち着いた振る舞いを保ち、見事な応対をしていた。
「お美しいだけでなく、聡明でもいらっしゃるのですな、公爵様」
「お褒めに預かり光栄です」
「やはり、閣下のお眼鏡にかなう方というのは、尋常ではない」
微笑ましい言葉が交わされる中――
「公爵様、リディア様。よろしければ、少しお二人の出会いのお話など、お聞かせ願えますかな?」
その質問に、レオンハルトは一瞬だけ口元を引き締め、そしてすぐに視線をリディアへ向けた。
「……語るほどのものではない。ただ、ずっと――俺の目にとまっていた。それだけだ」
「っ……!」
リディアの頬が一気に染まる。
(ずっと……見ていてくださったの?)
「人の目を気にせず、自分の美学を貫こうとするところに、私は惹かれた」
その言葉に、誰もが静かにうなずいた。
――そして、その夜。
公爵家は、リディアとの“正式婚約”を貴族界に通知した。
***
数日後。
公爵家の広い庭で、招待客を迎えての簡易な婚約茶会が催された。
その中には、王太子の姿もあった。
王太子アレクセイは、もともとこの招待に応じる気などなかったはずだ。
だが、レオンハルトが「国の安定のため」と強く言えば、逆らえはしない。
「……まさか、貴殿があのリディア嬢を迎えるとは」
「言ったはずだ、“拾わせてもらう”と」
「だが、彼女は――」
「彼女の価値を見抜けなかったのは貴殿だ。……後悔するなよ?」
王太子の視線がリディアに向けられる。
どこか悔しげなその瞳に、リディアは真正面から視線を返す。
「わたくしは、公爵様と共に歩む未来を選びました。ですから、後ろを振り返ることはありません」
「……強くなったな、リディア」
「いえ。元から強かったのだと思います。ただ、それを引き出してくださったのが――公爵様ですわ」
その一言に、王太子の表情が崩れる。
だが、そこに割って入ったのは、当の公爵本人だった。
「他の男に見つめられるのは、不快だ」
「えっ……?」
「この手を、もっと早く取っておくべきだった」
「っ……もう、嫉妬なさっているのですか?」
「当然だ」
リディアがあきれ気味に笑うと、レオンハルトは小さくため息をつく。
「これが俺の“溺愛”だと、そろそろ気づいてもらいたい」
「……充分、伝わっておりますわ」
その会場の中、二人は確かに“主役”だった。
誰もが、彼らの幸福を、あるいは羨望を込めて見守っていた。
けれどリディアにとって、それらの視線はどうでもよかった。
(わたくしは、この人の隣にいられるだけで――もう、それ以上望むことなんてないのです)
茶会が終わり、日も沈みきった頃。
リディアは、夜風を感じながら庭のバルコニーに立っていた。
星空の下、公爵邸の庭園は静かで、蝋燭の灯りがあちらこちらで優しく瞬いている。
(公爵様との正式な婚約……本当に現実になったのですね)
あれほど望んだ“婚約破棄”のあとに、こんなに満たされた気持ちを味わえるとは思ってもいなかった。
温かくて、安心できて、それでいて心を激しく揺さぶる――そんな感情を与えてくれる人。
それが、レオンハルト。
そんな彼が、静かに後ろから現れた。
「夜風に当たっていたのか」
「はい。少しだけ、気を休めたくて……でも、ご迷惑でしたか?」
「君がどこにいようと、迷惑なわけがない。むしろ……隣にいてくれると安心する」
そう言って、レオンハルトは自然とリディアの隣に立つ。
手が、触れそうなほど近い。
でも、それは不思議と不快ではなかった。
「……まるで夢のようです。あんなに穏やかに茶会が終わって、公爵様がわたくしの隣にいてくださって」
「これは夢ではない。君を、現実の中で守ると誓った。俺の言葉は、二度とは翻さない」
「……信じますわ」
リディアの声が震える。
感情が溢れそうで、けれど必死に抑えていると、彼がそっとその手を取った。
「リディア」
「……はい」
「君を、誰にも渡さない」
その言葉に、胸の奥が一気に熱を帯びた。
視線が交差し、次の瞬間――彼の唇が、リディアの額にそっと触れる。
あたたかく、静かな口づけ。
それは激情ではなく、静かな誓いのようで。
「君を愛している。……これからの日々で、それを証明してみせる」
「わたくしも……貴方となら、どこまでも歩んでいけそうです」
リディアがそっと微笑むと、レオンハルトも珍しく目を細めて微笑んだ。
「今夜は、君と少し話がしたかった」
「はい。わたくしも……」
二人はバルコニーから屋敷へ戻り、レオンハルトの書斎へと足を運んだ。
そこで、彼はワインを二つ用意し、グラスを差し出す。
「祝いの酒だ。婚約成立の夜に、俺たちだけで乾杯しよう」
「……光栄ですわ、公爵様」
「レオン、と呼んでくれ」
「えっ……?」
「公爵としてではなく、一人の男として、君の隣にいたい。だから、名前で呼んでほしい」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように高鳴った。
「……では、レオン様」
「……うん。それでいい」
ワイングラスが、かすかに音を立てて重なった。
***
「リディア、少し俺の話を聞いてくれるか」
「……ええ」
レオンハルトは、暖炉の灯を見つめながら語り始めた。
「君が知っているかどうかは分からないが……俺には、兄がいた」
「……お兄様が?」
「ああ。名はユリウス。聡明で優秀で、俺よりずっと人望があった」
リディアは、ただ静かに彼の言葉に耳を傾ける。
「だが十年前、彼は事故で亡くなった。――王家の命により、極秘の任務についていた最中に、な」
「……そうだったのですね」
「その時、俺は誓ったんだ。“兄の遺志を継いで、冷静に国を支える存在になる”と」
「それで……冷酷と呼ばれるように?」
「必要だった。感情を押し殺して、判断だけで動けるようになるには、他人に期待をさせてはいけなかった」
「でも、それでは……あなた自身が傷つくでしょう?」
「構わなかった。兄のように誰かを庇って死ぬことも、誰かのせいで崩れることも、もうまっぴらだったからな」
「……」
「だが、君は違った。君は、自分を守る盾を持ちながら、誰かを責めなかった」
「……いいえ、わたくしはただ、流されていただけで……」
「違う。君は、あの日俺に“公爵様は優しすぎる”と言った。その言葉で、心が救われた」
あの日、馬車の中で言ったあの言葉。
(優しすぎる……ですわ)
その小さな一言が、彼の心に残っていた。
「……リディア。君は、俺に“生きたい”と思わせてくれた、初めての存在だ」
その言葉が、涙となってリディアの瞳からこぼれた。
「レオン様……」
「泣かないでくれ。俺は君の涙より、笑顔が見たい」
そっと彼が、リディアの頬に触れる。
その指先はあたたかく、震えていた。
「……わたくしも、貴方のそばにいることで……自分を取り戻せた気がします。だから、わたくしからも言わせてください」
深く息を吸い、まっすぐ彼の目を見る。
「――愛しています、レオン様」
その一言に、レオンハルトの瞳が揺れた。
そして、彼はそっとリディアの手を取ると、左手の薬指に、指輪をはめた。
「これは、“本当の婚約”の証だ。君だけのために用意した」
「……こんなに、美しい……!」
その指輪には、公爵家の紋章と、中央に淡い蒼玉が埋め込まれていた。
夜空を思わせる、穏やかで澄んだ色。
「この色は、君の瞳を見て選んだ。――これからは、これを見るたびに俺を思い出してくれ」
「……ずっと忘れませんわ。ずっと、共に……」
星空の下で交わされた、誓いの言葉。
静かな炎のように、互いの心に灯ったその想いは――もう、決して消えることはない。
昨夜交わした、レオンハルトとの“仮”ではない約束。
――彼の言葉は確かに本物だった。
そして自分もまた、その気持ちを否定できなかった。
けれど、まだ不安はある。
(わたくしが、公爵様に相応しいのかしら……)
王太子妃になるはずだった令嬢が、いきなり冷酷と呼ばれる公爵の婚約者となる。
周囲が黙って見ているはずがない。
とくに、公爵の政敵たちや、その取り巻きの貴族令嬢たちは。
そんな思いを抱えながら朝食の席についたリディアに、レオンハルトが静かに言った。
「リディア、正式に婚約を申し込もう」
「……えっ?」
パンを口に運ぼうとしていた手が止まる。
「君には、まだ心の整理が必要かもしれない。だが俺の意思は変わらない。今、仮の婚約者などという曖昧な立場では、君を守りきれない」
「わたくしを、守る……?」
「公爵家の屋敷に女性が住み、日々共に過ごしている。好奇の目を向けられるのは時間の問題だ。だが、“婚約者”であれば、誰も何も言えない」
その瞳は真剣だった。
“溺愛”の甘さより、むしろ“覚悟”の強さを感じさせる眼差し。
「わたくしの気持ちは……」
「強制はしない。ただ、ゆっくり考えてくれればいい。だが、君が何も言わなければ、俺は“了承”と受け取る」
「っ……公爵様ったら、ずるいですわ」
「君のそういうところも、好きだ」
さらりと、平然と、そんなことを口にする。
リディアはため息をつきながらも、笑みを隠せなかった。
(この人は、本当に……)
***
午前中の予定は、庭園での散策と、茶会用の花の選定。
侍女たちに付き添われながら庭を歩いていると、屋敷の正門のほうで騒ぎが起こっていた。
「なにかしら……?」
様子を見に行くと、そこには見覚えのある顔があった。
――クラリッサ・フォン・エリントン嬢。
社交界では有名な、王太子に思いを寄せていた伯爵令嬢。
「まぁ、リディア様。こんなところでお会いできるなんて。ふふ、もう“王太子妃殿下”とはお呼びできませんのね?」
リディアはその悪意に満ちた笑みに、静かに微笑み返す。
「ええ。幸い、そんな肩書きとはきっぱり縁が切れましたの」
「でもまぁ、その代わりが“冷酷公爵の気まぐれな庇護”ですものねぇ。お気をつけあそばせ。公爵様の心が離れたとき、あなたの居場所なんて……」
「ご忠告、感謝いたしますわ。でも、公爵様はそのような軽薄な方ではありませんので」
その瞬間、門の奥から黒い馬に乗った人物が現れる。
――レオンハルトだった。
重々しい鎧のような黒の軍服に身を包み、鋭い眼差しをクラリッサに向ける。
「俺の“婚約者”に、何か用か?」
「っ……公爵閣下! い、いえ……少し世間話をと思っただけですわ」
「世間話がしたいなら、よそで頼め。俺の屋敷は、婚約者以外の令嬢の社交場ではない」
「……失礼しました」
さすがのクラリッサも引き下がるしかなかった。
馬を降りたレオンハルトは、リディアの前に来ると、そっと手を取った。
「……大丈夫か?」
「はい。おかげさまで」
「ならいい。……今夜、正式な発表をしよう。君を婚約者として、貴族会にも通達する」
「公爵様……」
「何を言われようが、俺は君を守る。――それだけは、信じてくれ」
その瞳に、迷いはなかった。
リディアはただ、頷くしかなかった。
――もう、この人から逃げることはできない。
それが、幸福な捕縛であると分かっていても。
午後、リディアはレオンハルトの執務室で、書簡の整理を手伝っていた。
「これが貴族会への通達書類ですのね?」
「ああ。君の名前と、公爵家の印章を押した上で、各家へ送る。これで誰にも文句は言わせない」
重厚な羊皮紙に刻まれた金の文字。
その端には、レオンハルト自身の手で記された文言があった。
――『我が婚約者、リディア・フォン・バルニエを正式に迎える』――
読むだけで、胸が熱くなる。
「……公爵様が、ここまでしてくださるなんて。夢のようですわ」
「夢ではない。これは、現実だ。――君を、この手で守ると決めたからには、後戻りなどしない」
その眼差しが、真っ直ぐにリディアを射抜いた。
彼の本気は、どんな飾り言葉よりも重い。
それが分かるからこそ、リディアも応えたくなる。
「……ありがとうございます。わたくし、ちゃんとお隣に立てるよう、努力いたしますわ」
「すでに十分すぎるほど相応しい」
「……うぅ、甘やかしすぎですわ」
リディアが照れ笑いを浮かべると、レオンハルトの口元も自然とほころぶ。
***
夕刻。
公爵邸の一室に、数名の高位貴族が招かれた。
非公式ながら、貴族会の中心人物である彼らに事前通達することで、正式な婚約の“既成事実”を固める目的がある。
「――なるほど、リディア嬢が。これは驚きましたな、公爵殿」
「王太子殿下との破談後、すぐにこうして動かれるとは……いやはや、さすが閣下らしい」
「ですが、公爵様。お言葉ですが、バルニエ侯爵家は今や王太子派では?」
やはり、疑問や牽制の声もある。
だが、レオンハルトは表情を崩さず、ただ一言。
「――だからこそだ」
「……と、申されますと?」
「俺の意志を、国に示す必要があった。派閥がどうであろうと、俺は個として、彼女を選ぶ。それだけの話だ」
静かで力強い言葉に、貴族たちは口をつぐむ。
「それに、俺の婚約者を侮る者があれば、貴族会であろうと容赦はしない。……俺の名にかけて、守り通す」
その宣言は、まるで“王命”のように重く響いた。
その後、場の空気は一転して穏やかになった。
リディアは、少し緊張しながらも落ち着いた振る舞いを保ち、見事な応対をしていた。
「お美しいだけでなく、聡明でもいらっしゃるのですな、公爵様」
「お褒めに預かり光栄です」
「やはり、閣下のお眼鏡にかなう方というのは、尋常ではない」
微笑ましい言葉が交わされる中――
「公爵様、リディア様。よろしければ、少しお二人の出会いのお話など、お聞かせ願えますかな?」
その質問に、レオンハルトは一瞬だけ口元を引き締め、そしてすぐに視線をリディアへ向けた。
「……語るほどのものではない。ただ、ずっと――俺の目にとまっていた。それだけだ」
「っ……!」
リディアの頬が一気に染まる。
(ずっと……見ていてくださったの?)
「人の目を気にせず、自分の美学を貫こうとするところに、私は惹かれた」
その言葉に、誰もが静かにうなずいた。
――そして、その夜。
公爵家は、リディアとの“正式婚約”を貴族界に通知した。
***
数日後。
公爵家の広い庭で、招待客を迎えての簡易な婚約茶会が催された。
その中には、王太子の姿もあった。
王太子アレクセイは、もともとこの招待に応じる気などなかったはずだ。
だが、レオンハルトが「国の安定のため」と強く言えば、逆らえはしない。
「……まさか、貴殿があのリディア嬢を迎えるとは」
「言ったはずだ、“拾わせてもらう”と」
「だが、彼女は――」
「彼女の価値を見抜けなかったのは貴殿だ。……後悔するなよ?」
王太子の視線がリディアに向けられる。
どこか悔しげなその瞳に、リディアは真正面から視線を返す。
「わたくしは、公爵様と共に歩む未来を選びました。ですから、後ろを振り返ることはありません」
「……強くなったな、リディア」
「いえ。元から強かったのだと思います。ただ、それを引き出してくださったのが――公爵様ですわ」
その一言に、王太子の表情が崩れる。
だが、そこに割って入ったのは、当の公爵本人だった。
「他の男に見つめられるのは、不快だ」
「えっ……?」
「この手を、もっと早く取っておくべきだった」
「っ……もう、嫉妬なさっているのですか?」
「当然だ」
リディアがあきれ気味に笑うと、レオンハルトは小さくため息をつく。
「これが俺の“溺愛”だと、そろそろ気づいてもらいたい」
「……充分、伝わっておりますわ」
その会場の中、二人は確かに“主役”だった。
誰もが、彼らの幸福を、あるいは羨望を込めて見守っていた。
けれどリディアにとって、それらの視線はどうでもよかった。
(わたくしは、この人の隣にいられるだけで――もう、それ以上望むことなんてないのです)
茶会が終わり、日も沈みきった頃。
リディアは、夜風を感じながら庭のバルコニーに立っていた。
星空の下、公爵邸の庭園は静かで、蝋燭の灯りがあちらこちらで優しく瞬いている。
(公爵様との正式な婚約……本当に現実になったのですね)
あれほど望んだ“婚約破棄”のあとに、こんなに満たされた気持ちを味わえるとは思ってもいなかった。
温かくて、安心できて、それでいて心を激しく揺さぶる――そんな感情を与えてくれる人。
それが、レオンハルト。
そんな彼が、静かに後ろから現れた。
「夜風に当たっていたのか」
「はい。少しだけ、気を休めたくて……でも、ご迷惑でしたか?」
「君がどこにいようと、迷惑なわけがない。むしろ……隣にいてくれると安心する」
そう言って、レオンハルトは自然とリディアの隣に立つ。
手が、触れそうなほど近い。
でも、それは不思議と不快ではなかった。
「……まるで夢のようです。あんなに穏やかに茶会が終わって、公爵様がわたくしの隣にいてくださって」
「これは夢ではない。君を、現実の中で守ると誓った。俺の言葉は、二度とは翻さない」
「……信じますわ」
リディアの声が震える。
感情が溢れそうで、けれど必死に抑えていると、彼がそっとその手を取った。
「リディア」
「……はい」
「君を、誰にも渡さない」
その言葉に、胸の奥が一気に熱を帯びた。
視線が交差し、次の瞬間――彼の唇が、リディアの額にそっと触れる。
あたたかく、静かな口づけ。
それは激情ではなく、静かな誓いのようで。
「君を愛している。……これからの日々で、それを証明してみせる」
「わたくしも……貴方となら、どこまでも歩んでいけそうです」
リディアがそっと微笑むと、レオンハルトも珍しく目を細めて微笑んだ。
「今夜は、君と少し話がしたかった」
「はい。わたくしも……」
二人はバルコニーから屋敷へ戻り、レオンハルトの書斎へと足を運んだ。
そこで、彼はワインを二つ用意し、グラスを差し出す。
「祝いの酒だ。婚約成立の夜に、俺たちだけで乾杯しよう」
「……光栄ですわ、公爵様」
「レオン、と呼んでくれ」
「えっ……?」
「公爵としてではなく、一人の男として、君の隣にいたい。だから、名前で呼んでほしい」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように高鳴った。
「……では、レオン様」
「……うん。それでいい」
ワイングラスが、かすかに音を立てて重なった。
***
「リディア、少し俺の話を聞いてくれるか」
「……ええ」
レオンハルトは、暖炉の灯を見つめながら語り始めた。
「君が知っているかどうかは分からないが……俺には、兄がいた」
「……お兄様が?」
「ああ。名はユリウス。聡明で優秀で、俺よりずっと人望があった」
リディアは、ただ静かに彼の言葉に耳を傾ける。
「だが十年前、彼は事故で亡くなった。――王家の命により、極秘の任務についていた最中に、な」
「……そうだったのですね」
「その時、俺は誓ったんだ。“兄の遺志を継いで、冷静に国を支える存在になる”と」
「それで……冷酷と呼ばれるように?」
「必要だった。感情を押し殺して、判断だけで動けるようになるには、他人に期待をさせてはいけなかった」
「でも、それでは……あなた自身が傷つくでしょう?」
「構わなかった。兄のように誰かを庇って死ぬことも、誰かのせいで崩れることも、もうまっぴらだったからな」
「……」
「だが、君は違った。君は、自分を守る盾を持ちながら、誰かを責めなかった」
「……いいえ、わたくしはただ、流されていただけで……」
「違う。君は、あの日俺に“公爵様は優しすぎる”と言った。その言葉で、心が救われた」
あの日、馬車の中で言ったあの言葉。
(優しすぎる……ですわ)
その小さな一言が、彼の心に残っていた。
「……リディア。君は、俺に“生きたい”と思わせてくれた、初めての存在だ」
その言葉が、涙となってリディアの瞳からこぼれた。
「レオン様……」
「泣かないでくれ。俺は君の涙より、笑顔が見たい」
そっと彼が、リディアの頬に触れる。
その指先はあたたかく、震えていた。
「……わたくしも、貴方のそばにいることで……自分を取り戻せた気がします。だから、わたくしからも言わせてください」
深く息を吸い、まっすぐ彼の目を見る。
「――愛しています、レオン様」
その一言に、レオンハルトの瞳が揺れた。
そして、彼はそっとリディアの手を取ると、左手の薬指に、指輪をはめた。
「これは、“本当の婚約”の証だ。君だけのために用意した」
「……こんなに、美しい……!」
その指輪には、公爵家の紋章と、中央に淡い蒼玉が埋め込まれていた。
夜空を思わせる、穏やかで澄んだ色。
「この色は、君の瞳を見て選んだ。――これからは、これを見るたびに俺を思い出してくれ」
「……ずっと忘れませんわ。ずっと、共に……」
星空の下で交わされた、誓いの言葉。
静かな炎のように、互いの心に灯ったその想いは――もう、決して消えることはない。
21
あなたにおすすめの小説
【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。
朝日みらい
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。
宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。
彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。
加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。
果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
辺境に追放されたガリガリ令嬢ですが、助けた男が第三王子だったので人生逆転しました。~実家は危機ですが、助ける義理もありません~
香木陽灯
恋愛
「そんなに気に食わないなら、お前がこの家を出ていけ!」
実の父と義妹に虐げられ、着の身着のままで辺境のボロ家に追放された伯爵令嬢カタリーナ。食べるものもなく、泥水のようなスープですすり、ガリガリに痩せ細った彼女が庭で拾ったのは、金色の瞳を持つ美しい男・ギルだった。
「……見知らぬ人間を招き入れるなんて、馬鹿なのか?」
「一人で食べるのは味気ないわ。手当てのお礼に一緒に食べてくれると嬉しいんだけど」
二人の奇妙な共同生活が始まる。ギルが獲ってくる肉を食べ、共に笑い、カタリーナは本来の瑞々しい美しさを取り戻していく。しかしカタリーナは知らなかった。彼が王位継承争いから身を隠していた最強の第三王子であることを――。
※ふんわり設定です。
※他サイトにも掲載中です。
政略結婚のはずでしたが、黒の公爵に「君を愛するつもりしかない」と言われました。
ちよこ
恋愛
没落寸前のエーデル伯爵家の令嬢ルイーズは、この国最大の権勢を誇る黒の公爵エルハルトと政略婚を結ぶことになった。
釣り合わない縁談に社交界はざわめいたが、ルイーズは「家同士の利害が一致した取引に過ぎない」と割り切っていた。
ところが初夜、公爵は開口一番こう言った。
「私は君を愛するつもりしかない」
政略婚のつもりでいた令嬢と、最初から決めていた公爵の、少し不器用な初夜の話。
十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。
er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——
婚約破棄された辺境伯令嬢ノアは、冷血と呼ばれた帝国大提督に一瞬で溺愛されました〜政略結婚のはずが、なぜか甘やかされまくってます!?〜
夜桜
恋愛
辺境の地を治めるクレメンタイン辺境伯家の令嬢ノアは、帝国元老院から突然の召喚を受ける。
帝都で待っていたのは、婚約者である若きエリート議員、マグヌス・ローレンス。――しかし彼は、帝国中枢の面前でノアとの婚約を一方的に破棄する。
「君のような“辺境育ち”では、帝国の未来にふさわしくない」
誰もがノアを笑い、見下し、軽んじる中、ひとりの男が静かに立ち上がった。
「その令嬢が不要なら、私がもらおう」
そう言ったのは、“冷血の大提督”と恐れられる帝国軍最高司令官――レックス・エヴァンス。
冷たく厳しい眼差しの奥に宿る、深い誠実さとあたたかさ。
彼の隣で、ノアは帝都の陰謀に立ち向かい、誇りと未来を取り戻していく。
これは、婚約破棄された辺境伯令嬢が、帝国最強の大提督に“一瞬で”溺愛され、
やがて帝国そのものを揺るがす人生逆転の物語。
【完結】転生したらラスボスの毒継母でした!
白雨 音
恋愛
妹シャルリーヌに裕福な辺境伯から結婚の打診があったと知り、アマンディーヌはシャルリーヌと入れ替わろうと画策する。
辺境伯からは「息子の為の白い結婚、いずれ解消する」と宣言されるが、アマンディーヌにとっても都合が良かった。「辺境伯の財で派手に遊び暮らせるなんて最高!」義理の息子など放置して遊び歩く気満々だったが、義理の息子に会った瞬間、卒倒した。
夢の中、前世で読んだ小説を思い出し、義理の息子は将来世界を破滅させようとするラスボスで、自分はその一因を作った毒継母だと知った。破滅もだが、何より自分の死の回避の為に、義理の息子を真っ当な人間に育てようと誓ったアマンディーヌの奮闘☆
異世界転生、家族愛、恋愛☆ 短めの長編(全二十一話です)
《完結しました》 お読み下さり、お気に入り、エール、いいね、ありがとうございます☆
[完]本好き元地味令嬢〜婚約破棄に浮かれていたら王太子妃になりました〜
桐生桜月姫
恋愛
シャーロット侯爵令嬢は地味で大人しいが、勉強・魔法がパーフェクトでいつも1番、それが婚約破棄されるまでの彼女の周りからの評価だった。
だが、婚約破棄されて現れた本来の彼女は輝かんばかりの銀髪にアメジストの瞳を持つ超絶美人な行動過激派だった⁉︎
本が大好きな彼女は婚約破棄後に国立図書館の司書になるがそこで待っていたのは幼馴染である王太子からの溺愛⁉︎
〜これはシャーロットの婚約破棄から始まる波瀾万丈の人生を綴った物語である〜
夕方6時に毎日予約更新です。
1話あたり超短いです。
毎日ちょこちょこ読みたい人向けです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる