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――死んだ、はずだった。
首を刎ねられたあの日。王都の広場で、冷たい鎖に繋がれた私は、誰の言葉も信じられず、誰からも信じられず、ただ一人で終わりを迎えた。
だけど今、私の肌を撫でるこの風はあたたかく、カーテン越しに差し込む光は春の陽射しだった。
「……ここは……私の部屋?」
あの日から遡ること三年。私は、再び生きていた。
鏡に映った自分の顔は、処刑前のやつれたものではなかった。ふっくらとした頬に、幼さの残る輪郭。唇の血色もよく、なにより――まだ王太子との婚約が決まっていない頃の私だ。
「これは、神様がくれたやり直し……?」
私はもう、誰の期待に応えるだけの人生は歩まないと決めた。王太子との婚約も、華やかな社交界も、私には必要ない。
自分のためだけに、静かに穏やかに生きていこう。そう、決めたのだ。
「婚約を辞退させていただきたいのです」
朝食の席でそう切り出したとき、食卓にいた家族全員が一瞬にして動きを止めた。
「アリシア……何を言っているのだ?」
父の声は冷たく低かった。侯爵家の令嬢として、王太子との婚約は家の名誉そのものであり、それを放棄するというのは家門に背くに等しいこと。
でも、私にはもう何の迷いもなかった。
「私は、自分の幸せのために生きたいのです」
「幸せ……? そんなものは王太子妃となってこそ手に入るのだ!」
父の言葉は以前と変わらない。家の名誉、血筋、義務と責任――前世ではそれに逆らえなかった。けれど今の私は、もう違う。
「私は、誰かの望む『完璧な令嬢』でいることに疲れました。だから、辞退を申し出ます」
母は口を開けたまま言葉を失い、兄だけが複雑な表情で私を見ていた。けれど、誰もそれ以上、私の決意を否定はしなかった。
数日後、正式に婚約辞退の申し出が受理された。王太子アルヴィンからの返答はただ一言。
「君の意思ならば、尊重しよう」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
かつての彼は、あんなに冷たく、私を疑い、最後まで一度も私の目を見なかったのに――。今の彼は、穏やかな瞳で私を見ていた。
それが、どこか不思議だった。
それから私は、社交界にも距離を置くことにした。
毎日の生活は静かで穏やかだった。午前中は読書や刺繍、午後は庭園の散歩や紅茶を楽しむ。余計な噂も干渉もない、静かな暮らし。
初めは、これで良いのかと戸惑いもあった。でも、心が確かに軽くなっていくのを感じた。
そして――出会った。
ある日の午後、邸の外れにあるバラ園で、本を片手に佇んでいた私は、ひとりの青年と目を合わせた。
「失礼いたします。姫様、今日は良い天気ですね」
彼の名前は、レオ・エルマー。若き騎士で、父の騎士団に所属している。以前は挨拶を交わす程度だったが、この日から彼はよく私の散歩に付き添うようになった。
「……こんなに穏やかな時間があるなんて、思ってもいませんでした」
「姫様が穏やかでいられること。それが、何よりの務めです」
優しい声。控えめな距離感。それでいて、どこか誠実で、安心できる存在。
私はいつしか、レオとの会話が待ち遠しくなっていた。
さらに数日後、今度は懐かしい人物が私の前に現れた。
「アリ。元気にしてたか?」
声をかけてきたのは、幼なじみの青年伯爵、ユーグ・ラフォレット。明るい栗色の髪と、人懐こい笑顔。子供のころ、よく庭で一緒に遊んだ記憶が蘇る。
「ユーグ……久しぶりね」
「まさか婚約を辞退するなんて、驚いたよ。でも、ちょっと安心した」
「安心……?」
「うん。君が前よりも、ずっと自由に笑っているからさ」
彼は、白いスミレと黄色いポピーのブーケを差し出してきた。春の花。それは、私が幼いころ好きだった花の組み合わせ。
「あの頃みたいに、君が好きなことを思い出してくれたら嬉しい」
私は思わず、花束を抱きしめた。前世では、彼の優しさに気づかなかった。いつもそばにいたのに。
気づくと、私の周りには、前世では見逃していたぬくもりが少しずつ集まりはじめていた。
静かな生活の中で、私は少しずつ“人の想い”というものに向き合うようになっていった。
それまでは義務と礼儀、建前と立場だけで人間関係を構築していた。けれど今、騎士レオの誠実な瞳、ユーグの懐かしい笑顔に触れるたびに、心が温かくなるのを感じる。
そんなある日、母に誘われて、久しぶりに王宮の舞踏会に出席することになった。
華やかな衣装。煌めくシャンデリア。貴族たちのざわめき。
以前の私なら、胸を張って舞台の中心に立っていたかもしれない。けれど今は、控えめな場所で静かに人々を眺めていた。
「ごきげんよう、アリシア嬢」
聞き慣れた声に、振り返る。そこにいたのは、王太子アルヴィンだった。
淡いブルーの礼服に身を包んだ彼は、以前よりも柔らかい雰囲気を纏っていた。瞳の色は変わらず冷静だが、なぜかその奥に、微かな温もりがあった。
「突然の訪問を許してほしい。君に、礼を言いたかった」
「……礼?」
「君が、君自身の意思で婚約を解いたことを。あのとき、僕は……何かを学んだ気がした」
信じられなかった。
前世で私がどれほど懸命に訴えても、彼は何も信じてくれなかったのに。
「君のように、自分を曲げずに生きられたら……それは素晴らしいことだ」
彼の視線が、どこまでも真っ直ぐだった。
「どうか……これからは、君の幸せを大切にしてほしい」
私の胸に、小さな波紋が広がった。
――もし、この人が前世でこうだったら、私はあんな最後を迎えなかったかもしれない。
けれど今はもう、彼のために生きることはしない。
舞踏会の後、帰路についた馬車の中で、私はひとつの小さな決意を胸に刻んだ。
私の人生は、誰のものでもない。
義務や名誉のためでも、家の誇りのためでもない。
私は、自分のために生きていく。
それが、あの日処刑台で失った命への、唯一の報いだと思うから。
夜、部屋の窓から見上げた星空は、前世のどの夜よりも澄んで見えた。
そして私は、小さく笑った。
「……ありがとう、神様。私は、今を生き直します」
首を刎ねられたあの日。王都の広場で、冷たい鎖に繋がれた私は、誰の言葉も信じられず、誰からも信じられず、ただ一人で終わりを迎えた。
だけど今、私の肌を撫でるこの風はあたたかく、カーテン越しに差し込む光は春の陽射しだった。
「……ここは……私の部屋?」
あの日から遡ること三年。私は、再び生きていた。
鏡に映った自分の顔は、処刑前のやつれたものではなかった。ふっくらとした頬に、幼さの残る輪郭。唇の血色もよく、なにより――まだ王太子との婚約が決まっていない頃の私だ。
「これは、神様がくれたやり直し……?」
私はもう、誰の期待に応えるだけの人生は歩まないと決めた。王太子との婚約も、華やかな社交界も、私には必要ない。
自分のためだけに、静かに穏やかに生きていこう。そう、決めたのだ。
「婚約を辞退させていただきたいのです」
朝食の席でそう切り出したとき、食卓にいた家族全員が一瞬にして動きを止めた。
「アリシア……何を言っているのだ?」
父の声は冷たく低かった。侯爵家の令嬢として、王太子との婚約は家の名誉そのものであり、それを放棄するというのは家門に背くに等しいこと。
でも、私にはもう何の迷いもなかった。
「私は、自分の幸せのために生きたいのです」
「幸せ……? そんなものは王太子妃となってこそ手に入るのだ!」
父の言葉は以前と変わらない。家の名誉、血筋、義務と責任――前世ではそれに逆らえなかった。けれど今の私は、もう違う。
「私は、誰かの望む『完璧な令嬢』でいることに疲れました。だから、辞退を申し出ます」
母は口を開けたまま言葉を失い、兄だけが複雑な表情で私を見ていた。けれど、誰もそれ以上、私の決意を否定はしなかった。
数日後、正式に婚約辞退の申し出が受理された。王太子アルヴィンからの返答はただ一言。
「君の意思ならば、尊重しよう」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
かつての彼は、あんなに冷たく、私を疑い、最後まで一度も私の目を見なかったのに――。今の彼は、穏やかな瞳で私を見ていた。
それが、どこか不思議だった。
それから私は、社交界にも距離を置くことにした。
毎日の生活は静かで穏やかだった。午前中は読書や刺繍、午後は庭園の散歩や紅茶を楽しむ。余計な噂も干渉もない、静かな暮らし。
初めは、これで良いのかと戸惑いもあった。でも、心が確かに軽くなっていくのを感じた。
そして――出会った。
ある日の午後、邸の外れにあるバラ園で、本を片手に佇んでいた私は、ひとりの青年と目を合わせた。
「失礼いたします。姫様、今日は良い天気ですね」
彼の名前は、レオ・エルマー。若き騎士で、父の騎士団に所属している。以前は挨拶を交わす程度だったが、この日から彼はよく私の散歩に付き添うようになった。
「……こんなに穏やかな時間があるなんて、思ってもいませんでした」
「姫様が穏やかでいられること。それが、何よりの務めです」
優しい声。控えめな距離感。それでいて、どこか誠実で、安心できる存在。
私はいつしか、レオとの会話が待ち遠しくなっていた。
さらに数日後、今度は懐かしい人物が私の前に現れた。
「アリ。元気にしてたか?」
声をかけてきたのは、幼なじみの青年伯爵、ユーグ・ラフォレット。明るい栗色の髪と、人懐こい笑顔。子供のころ、よく庭で一緒に遊んだ記憶が蘇る。
「ユーグ……久しぶりね」
「まさか婚約を辞退するなんて、驚いたよ。でも、ちょっと安心した」
「安心……?」
「うん。君が前よりも、ずっと自由に笑っているからさ」
彼は、白いスミレと黄色いポピーのブーケを差し出してきた。春の花。それは、私が幼いころ好きだった花の組み合わせ。
「あの頃みたいに、君が好きなことを思い出してくれたら嬉しい」
私は思わず、花束を抱きしめた。前世では、彼の優しさに気づかなかった。いつもそばにいたのに。
気づくと、私の周りには、前世では見逃していたぬくもりが少しずつ集まりはじめていた。
静かな生活の中で、私は少しずつ“人の想い”というものに向き合うようになっていった。
それまでは義務と礼儀、建前と立場だけで人間関係を構築していた。けれど今、騎士レオの誠実な瞳、ユーグの懐かしい笑顔に触れるたびに、心が温かくなるのを感じる。
そんなある日、母に誘われて、久しぶりに王宮の舞踏会に出席することになった。
華やかな衣装。煌めくシャンデリア。貴族たちのざわめき。
以前の私なら、胸を張って舞台の中心に立っていたかもしれない。けれど今は、控えめな場所で静かに人々を眺めていた。
「ごきげんよう、アリシア嬢」
聞き慣れた声に、振り返る。そこにいたのは、王太子アルヴィンだった。
淡いブルーの礼服に身を包んだ彼は、以前よりも柔らかい雰囲気を纏っていた。瞳の色は変わらず冷静だが、なぜかその奥に、微かな温もりがあった。
「突然の訪問を許してほしい。君に、礼を言いたかった」
「……礼?」
「君が、君自身の意思で婚約を解いたことを。あのとき、僕は……何かを学んだ気がした」
信じられなかった。
前世で私がどれほど懸命に訴えても、彼は何も信じてくれなかったのに。
「君のように、自分を曲げずに生きられたら……それは素晴らしいことだ」
彼の視線が、どこまでも真っ直ぐだった。
「どうか……これからは、君の幸せを大切にしてほしい」
私の胸に、小さな波紋が広がった。
――もし、この人が前世でこうだったら、私はあんな最後を迎えなかったかもしれない。
けれど今はもう、彼のために生きることはしない。
舞踏会の後、帰路についた馬車の中で、私はひとつの小さな決意を胸に刻んだ。
私の人生は、誰のものでもない。
義務や名誉のためでも、家の誇りのためでもない。
私は、自分のために生きていく。
それが、あの日処刑台で失った命への、唯一の報いだと思うから。
夜、部屋の窓から見上げた星空は、前世のどの夜よりも澄んで見えた。
そして私は、小さく笑った。
「……ありがとう、神様。私は、今を生き直します」
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