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第1章:レオポルトの悪夢
1-1.森に近づいてはいけない
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「……ここは、何処だ?」
レオポルトは呟いた。
答えのない問いかけが夜の森に虚しく消えていく。
空を見上げても、鬱蒼と生い茂る木立に阻まれて、星の位置を確認することすらできない。
レオポルトは騎士だ。
この辺り一帯を治める領主に仕えている。
今日は主人のお伴で森に狩りに来ていた。だが運悪くオオカミの群れに出くわし、逃げている最中に落馬してしまった。騎乗の技術には絶対の自信があったというのに……。愛馬とも、はぐれてしまった。
主人は無事だろうか?
一緒に来ていた仲間たちは……。
レオポルトが案じながら歩いていると、
「うぅ、……っく……」
地面に転がっていた古木を跨いだ瞬間、身体中の骨が軋むように痛んだ。
馬から振り落とされた際に全身を強く打ちつけていたし、森を彷徨っているあいだに、いつのまにか細かい切り傷だらけになってしまったのだ。
「痛っ……!」
ふいに太腿に走った強烈な痛みに思わず声を上げる。そっと手を触れてみると、生温かくヌルヌルとした液体がベットリと纏わりついた。どうやら古木から飛び出していた枝に引っかかって、ザックリと切れてしまったらしい。
空にはすでに高く月が昇っているのだろう。
木立の間から冴え冴えとした青白い光が、生い茂る葉の隙間を縫ってかすかに差し込んでいる。
わずかな光を頼りに、レオポルトが傷を確認すると、できたばかりの傷口から血が噴き出していた。彼は首に巻いていたスカーフを外すと、傷口に固く巻きつけた。このスカーフは彼が騎士になった時に領主から支給された特別なものだったが……背に腹は代えられない。
スカーフを巻いたところで痛みも出血も依然として引きはしなかったが、レオポルトは何とか立ち上がると、森の出口を目指して再び歩き始めた。
歩いても歩いても景色が変わらない。
このままずっとこの森の中に囚われて、二度と出られないのではないか。そんな不安がレオポルトの胸によぎる。
「サーシャ……」
彼の口から思わず婚約者の名が漏れた。
レオポルトは来月結婚する。
相手は幼馴染のサーシャ。
子供の頃からずっと想いを寄せていた最愛の女性とようやく一緒になれるのだ。レオポルトはまだ二十数年しか生きていなかったが、間違いなく、今が人生で一番幸せだった。
なのに――。
「森には近づくな」
子供の頃、散々注意された。
「いいかい、レオ。森には絶対近づいてはいけないよ。森は我々の住む村とは全く別の世界なんだ。我々とは姿形も違う異形の生き物たちが支配する世界――迷い込んだら最後、魂を吸い取られてしまう。だから森に近づいてはいけない。わかったかい?」
今は亡き祖父から嫌というほど言い聞かされた言葉を思い出す。
「……馬鹿馬鹿しい! 何を恐がっているんだ。別の世界? 異形の生き物? それが何だと言うのだ。子供の頃ならまだしも……そんな作り話を真に受けるなんて、どうかしている」
レオポルトは頭を振って恐怖心を消し去ろうとした。
さっきから寒くて仕方ない。
寒い?
嘘だろう?
夜とはいえ、夏の盛りだというのに――震えが止まらない。
出血のせいだろうか。
体温が奪われていく。
視界が、滲む。
レオポルトの身体がグラっと揺れて、膝が地面についた。そのまま上半身ごと倒れ込む。細かな枝や草がレオポルトの顔にチクチクと刺さった。
「起き上がらなければ……」
頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。
身体が鉛にでもなってしまったかのように重い。湿った地面の中にズブズブと沈んでしまいそうだ。
目蓋が否応なく下がってくる。
もやは何も考えられなかった。
彼の視界が閉ざされる寸前のところで――
視界の端に微かな光が揺らいだ。
それは気のせいだったかもしれない。
しかし、その光はレオポルトの身体を束の間、覚醒させた。
彼が何とか目を開いて光の漏れる方へと顔を向けると――
針の先ほどの小さな光が、たしかに目に入った。
「ぁ……あぁ」
レオポルトの口から思わず歓喜の声が漏れる。這いつくばりながら、少しずつ少しずつ、腕の力だけで身体を光の方へと運ぶ。
……チャポン。
――水音?
チャポン。チャポン。チャポン……。
間違いない。これは水の音だ。
レオポルトは鼻をひくつかせた。
「……水の、匂いだ」
水があるのか?
ひとたびそう思うと、猛烈な喉の渇きを感じた。
「……み、みず……」
この先に泉があるに違いない。
渇望がレオポルトの脚を動かした。
彼はフラフラと亡霊のように立ち上がると、水の匂いのする方へと歩き出した。その歩みは赤ん坊より鈍いくらいで、時間は随分かかったが、レオポルトはやっとのことで木立の切れ目へとたどり着くことができた。
レオポルトの視界が開ける。
森の中で、そこだけ繰り抜かれたかのようにぽっかりと広がる空間。
真ん中には清浄な泉。
水面から立ち昇る水の匂い。
甘い香り。
泉は月の光を反射して銀色に輝いていた。
「みず……みず……みず……」
レオポルトは痛みも忘れて、泉のほとりへと駆け寄り、両手でその水を掬った。
手のひらに溜まった透明な水をごくごくと飲み干す。
「はぁ……っ!」
冷たい水が喉を伝って身体中を潤していく。
力が漲ってくる。
レオポルトは喉の渇きが満たされるまで、何度も何度も、泉の水を掬っては飲み干した。
「あぁ、生き返った……!」
顎を伝う滴を手の甲で拭う。
泉の中央で水面がゆらりと揺れた。
すっくと立ち上がる、影。
生じた波紋がゆっくりと泉全体に広がっていく。
藍色の闇の中にぼうっと浮かび上がった白い影。
――女?
白く、くびれた背中が、レオポルトの瞳に映った。
水滴を払い落とすためか、その女がフルフルと首を振ると、長い髪の毛がハラリ、虚空へと広がった。きらめく滴が銀の粒を撒いたように四方へ飛び散る。
――女神か?
この世のものとは思えないほど神秘的な女の裸身にレオポルトの目は釘付けになった。
女の方はと言うと……彼の存在に気づいているのか、いないのか……レオポルトに背を向けたまま淡々と水浴びを続けている。
「美しい……」
レオポルトの喉から無意識に零れ落ちた感嘆の声。
それほど大きな声ではなかったはずだが、女が動きを止めて、ゆっくりと身体の向きを変えた。
横向きになった女のツンと上を向いた豊満な胸が見て取れる。
女が動くのに合わせて揺れた乳房の先から滴が垂れて、ポチャン、と音を立てた。
振り向いた女は真っ直ぐにレオポルトを見つめていた。
月の光を浴びて輝く銀色の長い髪。
闇の中でもはっきりと輝くアメジストの瞳。
女と相対したレオポルトは吸い寄せられるように目を奪われて、彼女から目を逸らすことができなくなった。
レオポルトは呟いた。
答えのない問いかけが夜の森に虚しく消えていく。
空を見上げても、鬱蒼と生い茂る木立に阻まれて、星の位置を確認することすらできない。
レオポルトは騎士だ。
この辺り一帯を治める領主に仕えている。
今日は主人のお伴で森に狩りに来ていた。だが運悪くオオカミの群れに出くわし、逃げている最中に落馬してしまった。騎乗の技術には絶対の自信があったというのに……。愛馬とも、はぐれてしまった。
主人は無事だろうか?
一緒に来ていた仲間たちは……。
レオポルトが案じながら歩いていると、
「うぅ、……っく……」
地面に転がっていた古木を跨いだ瞬間、身体中の骨が軋むように痛んだ。
馬から振り落とされた際に全身を強く打ちつけていたし、森を彷徨っているあいだに、いつのまにか細かい切り傷だらけになってしまったのだ。
「痛っ……!」
ふいに太腿に走った強烈な痛みに思わず声を上げる。そっと手を触れてみると、生温かくヌルヌルとした液体がベットリと纏わりついた。どうやら古木から飛び出していた枝に引っかかって、ザックリと切れてしまったらしい。
空にはすでに高く月が昇っているのだろう。
木立の間から冴え冴えとした青白い光が、生い茂る葉の隙間を縫ってかすかに差し込んでいる。
わずかな光を頼りに、レオポルトが傷を確認すると、できたばかりの傷口から血が噴き出していた。彼は首に巻いていたスカーフを外すと、傷口に固く巻きつけた。このスカーフは彼が騎士になった時に領主から支給された特別なものだったが……背に腹は代えられない。
スカーフを巻いたところで痛みも出血も依然として引きはしなかったが、レオポルトは何とか立ち上がると、森の出口を目指して再び歩き始めた。
歩いても歩いても景色が変わらない。
このままずっとこの森の中に囚われて、二度と出られないのではないか。そんな不安がレオポルトの胸によぎる。
「サーシャ……」
彼の口から思わず婚約者の名が漏れた。
レオポルトは来月結婚する。
相手は幼馴染のサーシャ。
子供の頃からずっと想いを寄せていた最愛の女性とようやく一緒になれるのだ。レオポルトはまだ二十数年しか生きていなかったが、間違いなく、今が人生で一番幸せだった。
なのに――。
「森には近づくな」
子供の頃、散々注意された。
「いいかい、レオ。森には絶対近づいてはいけないよ。森は我々の住む村とは全く別の世界なんだ。我々とは姿形も違う異形の生き物たちが支配する世界――迷い込んだら最後、魂を吸い取られてしまう。だから森に近づいてはいけない。わかったかい?」
今は亡き祖父から嫌というほど言い聞かされた言葉を思い出す。
「……馬鹿馬鹿しい! 何を恐がっているんだ。別の世界? 異形の生き物? それが何だと言うのだ。子供の頃ならまだしも……そんな作り話を真に受けるなんて、どうかしている」
レオポルトは頭を振って恐怖心を消し去ろうとした。
さっきから寒くて仕方ない。
寒い?
嘘だろう?
夜とはいえ、夏の盛りだというのに――震えが止まらない。
出血のせいだろうか。
体温が奪われていく。
視界が、滲む。
レオポルトの身体がグラっと揺れて、膝が地面についた。そのまま上半身ごと倒れ込む。細かな枝や草がレオポルトの顔にチクチクと刺さった。
「起き上がらなければ……」
頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。
身体が鉛にでもなってしまったかのように重い。湿った地面の中にズブズブと沈んでしまいそうだ。
目蓋が否応なく下がってくる。
もやは何も考えられなかった。
彼の視界が閉ざされる寸前のところで――
視界の端に微かな光が揺らいだ。
それは気のせいだったかもしれない。
しかし、その光はレオポルトの身体を束の間、覚醒させた。
彼が何とか目を開いて光の漏れる方へと顔を向けると――
針の先ほどの小さな光が、たしかに目に入った。
「ぁ……あぁ」
レオポルトの口から思わず歓喜の声が漏れる。這いつくばりながら、少しずつ少しずつ、腕の力だけで身体を光の方へと運ぶ。
……チャポン。
――水音?
チャポン。チャポン。チャポン……。
間違いない。これは水の音だ。
レオポルトは鼻をひくつかせた。
「……水の、匂いだ」
水があるのか?
ひとたびそう思うと、猛烈な喉の渇きを感じた。
「……み、みず……」
この先に泉があるに違いない。
渇望がレオポルトの脚を動かした。
彼はフラフラと亡霊のように立ち上がると、水の匂いのする方へと歩き出した。その歩みは赤ん坊より鈍いくらいで、時間は随分かかったが、レオポルトはやっとのことで木立の切れ目へとたどり着くことができた。
レオポルトの視界が開ける。
森の中で、そこだけ繰り抜かれたかのようにぽっかりと広がる空間。
真ん中には清浄な泉。
水面から立ち昇る水の匂い。
甘い香り。
泉は月の光を反射して銀色に輝いていた。
「みず……みず……みず……」
レオポルトは痛みも忘れて、泉のほとりへと駆け寄り、両手でその水を掬った。
手のひらに溜まった透明な水をごくごくと飲み干す。
「はぁ……っ!」
冷たい水が喉を伝って身体中を潤していく。
力が漲ってくる。
レオポルトは喉の渇きが満たされるまで、何度も何度も、泉の水を掬っては飲み干した。
「あぁ、生き返った……!」
顎を伝う滴を手の甲で拭う。
泉の中央で水面がゆらりと揺れた。
すっくと立ち上がる、影。
生じた波紋がゆっくりと泉全体に広がっていく。
藍色の闇の中にぼうっと浮かび上がった白い影。
――女?
白く、くびれた背中が、レオポルトの瞳に映った。
水滴を払い落とすためか、その女がフルフルと首を振ると、長い髪の毛がハラリ、虚空へと広がった。きらめく滴が銀の粒を撒いたように四方へ飛び散る。
――女神か?
この世のものとは思えないほど神秘的な女の裸身にレオポルトの目は釘付けになった。
女の方はと言うと……彼の存在に気づいているのか、いないのか……レオポルトに背を向けたまま淡々と水浴びを続けている。
「美しい……」
レオポルトの喉から無意識に零れ落ちた感嘆の声。
それほど大きな声ではなかったはずだが、女が動きを止めて、ゆっくりと身体の向きを変えた。
横向きになった女のツンと上を向いた豊満な胸が見て取れる。
女が動くのに合わせて揺れた乳房の先から滴が垂れて、ポチャン、と音を立てた。
振り向いた女は真っ直ぐにレオポルトを見つめていた。
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