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先生の家で……?
先生の家で……?(2)
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火神に指定されたのは、学校から三駅ほど離れた総合病院だった。
なぜか「病人っぽい格好で来い」と言われたので、ひな子は大きめのマスクに、パステルピンクのマフラーを首元にグルグルと巻きつけてきた。これでは、よっぽど近くでないと、誰だかわからないだろう。
お昼を過ぎてようやく外来の患者が減ってきた病院の正面玄関の端っこで、ひな子は所在なげに立ち尽くしていた。キョロキョロと黒目を動かして周囲の様子をうかがっていると、見たことのある黒い車が病院の敷地に滑り込んできて、ひな子の前で停まった。
「うしろ、乗れ」
運転席の窓を開けて顔を出した火神がぶっきらぼうに告げる。
ひな子は火神に言われた通り、大人しく後部座席へと乗り込んだ。助手席じゃないのが少しだけ残念だったけれど、言わないでおく。
「もし誰かに見られたら、お前は俺の妹ってことにする。風邪気味の妹を病院に連れてきた、って設定だ。いいな?」
車を出した火神がバックミラーをチラリと見やりながら、念を押すように言った。
「設定」って何? ……と、ひな子は思ったが、それも口には出さないで、とりあえず頷いておく。コクン、と首を振ってグルグル巻きのマフラーに顔を埋めると、ミラー越しの火神も同じように頷いてみせた。
「……先生、妹さんがいるんですか?」
そういえば火神のプライベートについて何も知らないことに気がついて、ひな子が尋ねると、
「いない。弟しかいない」
前を向いたまま、にべもない答えが返ってきた。
「え、じゃあダメなんじゃないですか? 先生の家族構成を知ってる人に突っ込まれたら、ウソだってバレちゃいますよ……」
やけに慎重な(なのにツメの甘い)火神の様子を不審に思いながら、ひな子が冷静に指摘すると、
「そうだな、用心するに越したことはない。弟のカノ……いや、友達ってことにしておくか」
火神が神妙な声で応じる。
「弟さん、いくつなんですか?」
「二十一だったかな? 大学三年生だ」
「へぇ……。仲いいんですか?」
「そうでもない。趣味が合わないからな。俺はインドアだけど弟は肉体派で……子供の頃から空手とか合気道とか、そんなんばっかやってるな。しかも結構強いんだよ」
どことなく得意げな声で答える火神が、何だか可愛い。「教師」としての顔しか知らなかった火神の別の一面を知って、ひな子の気持ちが華やぐ。もっといろいろ聞きたい、と思ったのに、ほどなくして車が停止した。病院からすぐ近くにあるマンションの駐車場のようだった。
慣れた様子で車を止めてスタスタと無言で歩いていく火神を見失わないように、ひな子も早足で後についていく。
学校以外の場所で火神の背中を追っているのが不思議だった。
今日の火神はもちろん白衣ではない。紺色のピーコートにカーキ色のゆったりとしたチノパンを身にまとった火神は、学校にいる時よりもずっと若々しく見える。
二階の一番奥のドアの前で立ち止まった火神が、ようやく振り返って、ひな子の顔を見つめた。
もの言いたげに見つめる火神の視線がひな子の心をざわつかせる。
「ここで待ってろ」
「え……?」
てっきり中へ入れれるものとば思っていたひな子は思わず声を上げた。
「……散らかってるからな。すぐ取ってくるから、ちょっとだけ待っててくれ」
ひな子に背を向けた火神が鍵を開けて部屋の中へと足を向ける。
「やっ……待って」
ひな子の意思などお構いなしに、身体が勝手に動いていた。
「羽澄……離してくれないか」
ふいに振り向いた火神が、困りきったように苦笑いを浮かべてから、目を伏せた。
火神の視線を追って目を落とすと、ひな子の右手が火神のコートの裾をしっかりと掴んでいる。
「あ、あの、えっ……と、」
考えるより先に身体が動いてしまっていて、ひな子は自分でも自分の行動の意味がわからなくて、でも何か言わなくてはと焦って、頭が真っ白になった。
この場にふさわしい言葉は見つからないのに、ひな子の手は火神のコートをぎゅっと掴んだまま、縫いつけられてしまったみたいに、動かない。
落ち着いて考えてみれば、火神の対応は当たり前だ。
男性教師がひとり暮らしの自宅に女子生徒を連れ込むなんて……ダメに決まっている。
むしろ今までがどうかしていたのだ。
あの夏の夜のプールサイドで――火神もひな子もきっと、何かタチの悪い熱病にでも感染してしまったに違いない。火神がひな子に構っていたのは、ただ熱に浮かされていただけ……。ただの悪ふざけに過ぎなかったのだ。
その熱が覚めてしまったんだ、とひな子は思った。
哀しいことに、熱が覚めたのは火神のほうだけで、ひな子の身体は依然として熱に浮かされていた。それどころか、どんどん悪化していっている気がする。
だけどマトモな教師に戻ってしまった火神先生は、もうひな子を部屋の中には入れてくれないだろう。
そんなのダメに決まっている。そんなの――
「……ダメ、なの?」
心の声が、ぽつり、と零れてしまっていた。
ひな子の目に映る火神の姿がゆらゆら揺れる。
「バカ。……泣くなよ」
火神は眉を下げると、コートを強く握りしめたままのひな子の右手をぐいっと掴んで、自分のほうへと引き寄せた。
「そんな目で見るな、って……いつも言ってるのに」
目を細めて苦しそうに呟いた火神は、ひな子を玄関の中へと招き入れると、彼女の背中越しにドアを閉めた。
火神に指定されたのは、学校から三駅ほど離れた総合病院だった。
なぜか「病人っぽい格好で来い」と言われたので、ひな子は大きめのマスクに、パステルピンクのマフラーを首元にグルグルと巻きつけてきた。これでは、よっぽど近くでないと、誰だかわからないだろう。
お昼を過ぎてようやく外来の患者が減ってきた病院の正面玄関の端っこで、ひな子は所在なげに立ち尽くしていた。キョロキョロと黒目を動かして周囲の様子をうかがっていると、見たことのある黒い車が病院の敷地に滑り込んできて、ひな子の前で停まった。
「うしろ、乗れ」
運転席の窓を開けて顔を出した火神がぶっきらぼうに告げる。
ひな子は火神に言われた通り、大人しく後部座席へと乗り込んだ。助手席じゃないのが少しだけ残念だったけれど、言わないでおく。
「もし誰かに見られたら、お前は俺の妹ってことにする。風邪気味の妹を病院に連れてきた、って設定だ。いいな?」
車を出した火神がバックミラーをチラリと見やりながら、念を押すように言った。
「設定」って何? ……と、ひな子は思ったが、それも口には出さないで、とりあえず頷いておく。コクン、と首を振ってグルグル巻きのマフラーに顔を埋めると、ミラー越しの火神も同じように頷いてみせた。
「……先生、妹さんがいるんですか?」
そういえば火神のプライベートについて何も知らないことに気がついて、ひな子が尋ねると、
「いない。弟しかいない」
前を向いたまま、にべもない答えが返ってきた。
「え、じゃあダメなんじゃないですか? 先生の家族構成を知ってる人に突っ込まれたら、ウソだってバレちゃいますよ……」
やけに慎重な(なのにツメの甘い)火神の様子を不審に思いながら、ひな子が冷静に指摘すると、
「そうだな、用心するに越したことはない。弟のカノ……いや、友達ってことにしておくか」
火神が神妙な声で応じる。
「弟さん、いくつなんですか?」
「二十一だったかな? 大学三年生だ」
「へぇ……。仲いいんですか?」
「そうでもない。趣味が合わないからな。俺はインドアだけど弟は肉体派で……子供の頃から空手とか合気道とか、そんなんばっかやってるな。しかも結構強いんだよ」
どことなく得意げな声で答える火神が、何だか可愛い。「教師」としての顔しか知らなかった火神の別の一面を知って、ひな子の気持ちが華やぐ。もっといろいろ聞きたい、と思ったのに、ほどなくして車が停止した。病院からすぐ近くにあるマンションの駐車場のようだった。
慣れた様子で車を止めてスタスタと無言で歩いていく火神を見失わないように、ひな子も早足で後についていく。
学校以外の場所で火神の背中を追っているのが不思議だった。
今日の火神はもちろん白衣ではない。紺色のピーコートにカーキ色のゆったりとしたチノパンを身にまとった火神は、学校にいる時よりもずっと若々しく見える。
二階の一番奥のドアの前で立ち止まった火神が、ようやく振り返って、ひな子の顔を見つめた。
もの言いたげに見つめる火神の視線がひな子の心をざわつかせる。
「ここで待ってろ」
「え……?」
てっきり中へ入れれるものとば思っていたひな子は思わず声を上げた。
「……散らかってるからな。すぐ取ってくるから、ちょっとだけ待っててくれ」
ひな子に背を向けた火神が鍵を開けて部屋の中へと足を向ける。
「やっ……待って」
ひな子の意思などお構いなしに、身体が勝手に動いていた。
「羽澄……離してくれないか」
ふいに振り向いた火神が、困りきったように苦笑いを浮かべてから、目を伏せた。
火神の視線を追って目を落とすと、ひな子の右手が火神のコートの裾をしっかりと掴んでいる。
「あ、あの、えっ……と、」
考えるより先に身体が動いてしまっていて、ひな子は自分でも自分の行動の意味がわからなくて、でも何か言わなくてはと焦って、頭が真っ白になった。
この場にふさわしい言葉は見つからないのに、ひな子の手は火神のコートをぎゅっと掴んだまま、縫いつけられてしまったみたいに、動かない。
落ち着いて考えてみれば、火神の対応は当たり前だ。
男性教師がひとり暮らしの自宅に女子生徒を連れ込むなんて……ダメに決まっている。
むしろ今までがどうかしていたのだ。
あの夏の夜のプールサイドで――火神もひな子もきっと、何かタチの悪い熱病にでも感染してしまったに違いない。火神がひな子に構っていたのは、ただ熱に浮かされていただけ……。ただの悪ふざけに過ぎなかったのだ。
その熱が覚めてしまったんだ、とひな子は思った。
哀しいことに、熱が覚めたのは火神のほうだけで、ひな子の身体は依然として熱に浮かされていた。それどころか、どんどん悪化していっている気がする。
だけどマトモな教師に戻ってしまった火神先生は、もうひな子を部屋の中には入れてくれないだろう。
そんなのダメに決まっている。そんなの――
「……ダメ、なの?」
心の声が、ぽつり、と零れてしまっていた。
ひな子の目に映る火神の姿がゆらゆら揺れる。
「バカ。……泣くなよ」
火神は眉を下げると、コートを強く握りしめたままのひな子の右手をぐいっと掴んで、自分のほうへと引き寄せた。
「そんな目で見るな、って……いつも言ってるのに」
目を細めて苦しそうに呟いた火神は、ひな子を玄関の中へと招き入れると、彼女の背中越しにドアを閉めた。
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