月と秘密とプールサイド

スケキヨ

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秘密

秘密(4)

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*****

 窓を開けると、冷たい風が狭い仮眠室に吹き込んできた。薄汚れたカーテンがふわりと揺れて頬を撫でる。
 火神かがみは窓の向こうに広がる校庭の隅に目を向けた。

 ――いつかの夜みたいに。

 火神の視線の先には、忘れ去られたようにひっそりと佇む屋外プールの更衣室があった。

「何を見てらっしゃるんですか?」

 タイミングよく背後から掛けられた女の声。
 少し鼻にかかった艶のある声は、一般的には綺麗な声と評されるのだろう。だがそれも火神にとっては胸糞悪いだけだった。

「……なんの用ですか?」

 火神がうんざりしたように振り返ると、仮眠室のドアに凭れかかって腕を組む真山まやまが艶然と微笑んだ。三日月の形に歪められた唇は、今夜も血を塗ったみたいに赤い。

「教頭先生から聞きました。学校、お辞めになるんですか?」
「あぁ」
「あののため、ですか?」

 咎めるような真山の口調。
 火神は彼女に背を向けて、再び、窓の外を見やった。

「あなたがそこまでする必要あるんですか? あんな娘のために?」

 ひな子を蔑むような真山の口ぶりに、否応なく嫌悪感が募る。

 ――お前にとっても、教え子だろうが。

「バカですねぇ、あなたも……。大人しく、私の言うこと、聞いてくれたらよかったのに」
「ハッ……!」

 自分勝手な真山の台詞に、思わず鼻で嗤ってしまう。

「……何が可笑おかしいんですか?」
「いや、悪かったな、と思って。物分かりの悪い標的ターゲットで」
「は?」
「ゲームはあんたの勝ちでいい。だから、もう俺たちに関わらないでくれ」

 吹っ切れたような火神の物言いに、真山が黙り込む。

「俺は学校ここからいなくなるから、もう何を言われても構わないが。あいつ……いや、あいつで遊ぶのは、もう止めろ」
「……あいつら?」
羽澄はすみ水島みずしまだよ」

 火神はゆっくりと振り返って、真山の顔を見据えた。
 火神から強い視線を向けられても、真山は相変わらず張りついたような笑みを浮かべている。

「あの男にも言っとけ。お前らのやってることは犯罪だぞ」
「何のことですか?」
「ちょっと前に羽澄が階段から落ちてケガをした」

 火神が真山の顔色を伺いながら話を続ける。

「お前が、突き落としたんだってな」
「はぁ!? なに言ってるんですか? あの娘がそう言ったんですか? 虚言癖でもあるのかしら……とんだ濡れ衣だわ」

 すんなり認めるとは火神ももちろん思っていなかったが、しれっと羽澄のせいにする真山の態度には虫唾が走る。

「火神先生は、私より、あの娘の言うことを信用するんですね」

 ――当たり前だろう!!

 感情のままそう叫んでしまいたかったが、何とか堪える。

「何か証拠でもあるんですか?」
「証拠?」
「……ないんですね? じゃあ、あの娘が勝手に言ってるだけってことですよね。まったく冗談じゃないわ……証拠もないのに、ヘンな言いがかりはやめてもらえます?」

 顔色ひとつ変えず、息を吸うように嘘をつく女。
 火神には真山が得体のしれないバケモノに思えた。

「そもそも、そんな簡単に信用していいんですか? 羽澄さんのこと……」
「……教え子の言うことは、信じてやるもんじゃないですかね。教師なら」
「へぇ。意識高いんですね、火神センセ。とても生徒に手を出したひとの発言とは思えない」

 真山の言葉に、火神の良心が痛む。
 ただの嫌味だとはわかっているが、本当のことだけに何も言えない。
 火神は顔を伏せて、真山に聞こえるように、大きく息をついた。

「もういいか? 用が済んだなら、さっさと出ていってくれ……」
「ちょっと外に出ません?」

 この場の空気には不釣り合いなくらい明るい声で、真山が火神の言葉を遮った。

「はぁ?」
「面白いものを見せてあげます」

 そう言って、真山がニタリと笑った。





*****

 ――どこに行くんだ?

 暗闇の中を、真山は迷いなくスタスタと進んでいく。真山の足を包むヒールは、校庭に敷き詰められた土に吸い込まれて音も立てない。
 火神は手に持った懐中電灯で、真山の足元を照らしてみる。
 デザイン性の高いエナメルの赤い靴は、学校の校庭にはひどく不釣り合いに見えた。

 ――やっぱり、あそこか。

 無言で真山の後をついていた火神が目的の場所に気づく。
 校庭の隅。
 そこには、火神がさっきからずっと気にしている――更衣室があった。
 黒々とした影を落とすその建物は、それほど大きくもないのに、なぜか火神には不気味に感じられて仕方なかった。
 懐中電灯の光を向けると――、入口の前にうずくまる人影が浮かび上がる。

 ――誰だ!? あの男の仲間か……?

 警戒する火神をよそに、

「ご苦労さま、水島くん」

 真山がその人影に向かって、親しげに呼びかけた。

「え、真山先生……!? なんで、ここに……?」

 突然現れた真山に、龍一郎が慌てふためいている。

「遅くまで大変ね。勝利かつとしは中にいるの?」
「え? はい、あの……」

 更衣室の中を伺うような様子を見せた龍一郎に、火神が近づく。

「え、火神先生……?」

 動揺する龍一郎の肩を、火神が強く掴んだ。龍一郎が痛みに顔をしかめるのがわかったが、火神は力を緩めなかった。

「なんで、お前がいるんだ!?」
「ぁ、……え、と…………あの、」

 目を泳がせてうろたえる龍一郎に、火神が声を荒げる。

「お前、知ってるのか?! 羽澄があの男に何をされているのか……」

 咎めるような火神の視線を真正面に受けて、龍一郎は気まずそうに目を伏せた。

「おいっ! まさか、ずっと知ってたのか!? 知ってて、それで……」

 ものすごい剣幕で迫ってくる火神を前に、龍一郎は顔を隠して頭を垂れるしかなかった。そんな龍一郎の態度が火神をいっそう苛立たせる。

「ぃ、いやぁぁぁ……っ!」

 男たちの張りつめた空気を引き裂くように響いた悲鳴。

「……っ!?」

 その聞き覚えのある声に、火神も龍一郎も一斉に顔を上げた。
 更衣室から漏れた悲鳴、それは――。

「羽澄!?」
「ひな子!?」

 ふたり同時に名前を呼んだが、おそらくひな子には届いていない。

「くそっ! 何やってんだよ、遠馬とおまのやつ」

 血相を変えて更衣室に突入しようとする火神の腕を――龍一郎が押しとどめた。

「おい! 水島、邪魔すんな!」
「すいません。でも、こうするしかないんです……!」

 龍一郎は震えながら、火神を行かせまいとしがみついてくる。

「聞こえただろう、さっきの声! 羽澄が泣いてるんだぞ!」
「なにムキになってるんですか? 先生らしくもない」

 いつのまにか近くに来ていたらしい真山が口を挟む。

「さっきの声、羽澄さんでしょ? 凄いですね、今日はどんなプレイをしてるのかしら?」

 ――プレイだと……?

「……お前、なに言ってんだ? あの声がそんなもんなわけないだろう。どう考えても、助けを呼ぶ声じゃねーか!」
「水島もなにやってるんだ!? 羽澄が傷つけられてんだぞ? お前のために……お前のために犠牲になってるんだ」
「……っ!」

 今にも泣き出しそうな顔で、龍一郎が息を呑む。

「お前がどんな弱みを握られてるのかは知らない。羽澄も具体的なことまでは教えてくれなかったからな」

 ひな子は最後まで龍一郎を庇った。彼女がそうするであろうことはわかっていたし、火神もそれを心のどこかで期待していた。でも、ひな子がすべての秘密を自分に打ち明けてくれないことは、寂しかった。

「自分を守ってくれた女を見放すな。そんなことしたら一生後悔するぞ。お前は……羽澄を手放しちゃダメだ」

 火神の叱咤に、龍一郎が目の端を赤くしながら唇を噛みしめる。龍一郎の力が緩んだ隙に、火神は彼を振り払って、更衣室の扉を開けた。

「――――…………てぇ、見えねぇ……!」

 室内から漏れ聞こえてくる、男の呻き声と人が動くような騒々しい気配。

「羽澄ぃ! 遠馬ぁ! 大丈夫か!?」

 火神が声を張り上げた。


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