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月に視られながら……
月に視られながら……(1)
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部屋に入ると、壁沿いにずらっと並んだ黒い本棚が目に入った。火神の部屋は相変わらず本で溢れている。窓際に置かれた窮屈そうなベッドにも見覚えがあった。
自分の知っている火神の部屋とほとんど変わりがないことに、ひな子は安堵する。雑然としているところも相変わらずだ。前の部屋より少しだけ広くなったみたいだけど。
「ちょっと暑いな」
火神が窓を明けると、夕暮れの風がすうっと吹き込んできて、紺色のカーテンをふわりと揺らす。窓の隙間から流れ込んできた風は、夏のはじめの匂いがした。
「なぁ、羽澄」
「はい……? わっ!」
突然、ぎゅうっと骨が軋むくらい強く抱きしめられたかと思うと、そのままベッドの上に押し倒された。
「せ、せんせ……苦しい……」
「ん? あ、あぁ……ごめん」
平静を取り戻したらしい火神が身を起こして、ひな子の隣に仰向けになった。
「ごめん、我慢できなかった。久しぶりにお前を目の前にしたら……」
火神の率直な発言に、ひな子の顔が赤く染まる。嬉しい。嬉しい。火神に求められていることが、嬉しくてたまらない。
「ところで、家にまで連れ込んでおいて今さらなんだが……。お前、水島のことはいいのか?」
「え、龍ちゃん?」
「ああ。元気か? あいつは」
「…………たぶん」
「たぶん、って……。会ってないのか?」
火神の意外そうな声に、ひな子は小さく頷く。
龍一郎とは高校を卒業して以来、一度も会っていなかった。もう一年以上、顔を合わせてもいない。
こんなに長い間、ひな子と龍一郎が離れるのは生まれて初めてのことだった。
家が近くて、幼稚園の頃から一緒で……ずっと一緒だった。
――ずっと一緒で、ずっと大好きだった龍ちゃん。
「龍ちゃんのこと、ずっと好きだったはずなのに。いつから過去形になっちゃってたんだろう……?」
思わず口をついたひな子の自問に、火神は聞こえないフリをした。
龍一郎への想いが過去のものになったと確信した日。それはやっぱり、あの夜だったのかもしれない……。
ひな子は、火神に助けてもらった、あの冬の日を思い出す。
あの後、龍一郎は予定通りスポーツ推薦で水泳の強い大学へと進んだ。
「それで、実は、あの……火神先生には言いにくいんですけど……。私、その……M大には落ちてしまって……」
「なに!?」
それまで無言で天井を見つめていた火神が、ガバッと起きあがって、険しい表情を浮かべる。
「すいません! でも! 浪人して、今年なんとか合格できたから。だから、先生に会いに来たんです。……じゃないと、合わせる顔ないな、って思ってて」
ひと足先に大学生になった龍一郎と、浪人生のひな子。初めて違う立場になったふたりの距離が離れるのは仕方なかった。
――それに。
正直、それどころじゃなかった。
龍一郎のことを思い出すことなど、この一年間、ほとんどなかったのだ。
なぜなら、ひな子の頭の中にいたのは、別の男だったから。
そのひとに会うために、ひな子はひたすら勉強に打ち込んだ。次に会う時、恥ずかしくないように。胸を張って、会えるように。
「……先生に、会いたかったから。ちゃんと、明るいところで、誰に見られても何も言われないように……。そんな自分になって、火神先生に会いに来たかったんです」
ひな子の告白に、火神が目を伏せた。長い睫毛が白い頬に影をつくる。
「……合わせる顔がないのは、こっちのほうだ」
火神が申し訳なさそうに言った。
「卒業まで見届けてやれなかったこと、ずっと気がかりだった。途中で投げ出したのは俺だ。悪いのはいつも俺だった。お前は悪くない。お前は……頑張ったんだな」
火神が頬を緩めて、ひな子の頭を優しく撫でた。
――気持ちいい。
「……私、龍ちゃんのことなら何でもわかってると思ってたんです」
火神の体温を頭に感じながら、ひな子はぽつりと呟く。
「……だけど、そうじゃなかった。実際の龍ちゃんはとっくに私の知らない男になってたのに。私はそれに気づかないで、ずっと龍ちゃんの幻影を……私の中のイメージを追いかけてただけだったんだな、って……あの夜に、わかったんです。私の好きだった龍ちゃんは、もうとっくに、いなくなってたんだ、って……」
馴れ合いすぎたのだろうか……ひな子の龍一郎への感情は、もうただの恋心とは呼べないほど、形が変わっていたのかもしれない。
ひな子の初恋は、自分でも気づかないうちに、終わっていたのだ。
「私が会いたかったのは、先生だけです。私が好きなのは……火神先生だけ、です」
部屋に入ると、壁沿いにずらっと並んだ黒い本棚が目に入った。火神の部屋は相変わらず本で溢れている。窓際に置かれた窮屈そうなベッドにも見覚えがあった。
自分の知っている火神の部屋とほとんど変わりがないことに、ひな子は安堵する。雑然としているところも相変わらずだ。前の部屋より少しだけ広くなったみたいだけど。
「ちょっと暑いな」
火神が窓を明けると、夕暮れの風がすうっと吹き込んできて、紺色のカーテンをふわりと揺らす。窓の隙間から流れ込んできた風は、夏のはじめの匂いがした。
「なぁ、羽澄」
「はい……? わっ!」
突然、ぎゅうっと骨が軋むくらい強く抱きしめられたかと思うと、そのままベッドの上に押し倒された。
「せ、せんせ……苦しい……」
「ん? あ、あぁ……ごめん」
平静を取り戻したらしい火神が身を起こして、ひな子の隣に仰向けになった。
「ごめん、我慢できなかった。久しぶりにお前を目の前にしたら……」
火神の率直な発言に、ひな子の顔が赤く染まる。嬉しい。嬉しい。火神に求められていることが、嬉しくてたまらない。
「ところで、家にまで連れ込んでおいて今さらなんだが……。お前、水島のことはいいのか?」
「え、龍ちゃん?」
「ああ。元気か? あいつは」
「…………たぶん」
「たぶん、って……。会ってないのか?」
火神の意外そうな声に、ひな子は小さく頷く。
龍一郎とは高校を卒業して以来、一度も会っていなかった。もう一年以上、顔を合わせてもいない。
こんなに長い間、ひな子と龍一郎が離れるのは生まれて初めてのことだった。
家が近くて、幼稚園の頃から一緒で……ずっと一緒だった。
――ずっと一緒で、ずっと大好きだった龍ちゃん。
「龍ちゃんのこと、ずっと好きだったはずなのに。いつから過去形になっちゃってたんだろう……?」
思わず口をついたひな子の自問に、火神は聞こえないフリをした。
龍一郎への想いが過去のものになったと確信した日。それはやっぱり、あの夜だったのかもしれない……。
ひな子は、火神に助けてもらった、あの冬の日を思い出す。
あの後、龍一郎は予定通りスポーツ推薦で水泳の強い大学へと進んだ。
「それで、実は、あの……火神先生には言いにくいんですけど……。私、その……M大には落ちてしまって……」
「なに!?」
それまで無言で天井を見つめていた火神が、ガバッと起きあがって、険しい表情を浮かべる。
「すいません! でも! 浪人して、今年なんとか合格できたから。だから、先生に会いに来たんです。……じゃないと、合わせる顔ないな、って思ってて」
ひと足先に大学生になった龍一郎と、浪人生のひな子。初めて違う立場になったふたりの距離が離れるのは仕方なかった。
――それに。
正直、それどころじゃなかった。
龍一郎のことを思い出すことなど、この一年間、ほとんどなかったのだ。
なぜなら、ひな子の頭の中にいたのは、別の男だったから。
そのひとに会うために、ひな子はひたすら勉強に打ち込んだ。次に会う時、恥ずかしくないように。胸を張って、会えるように。
「……先生に、会いたかったから。ちゃんと、明るいところで、誰に見られても何も言われないように……。そんな自分になって、火神先生に会いに来たかったんです」
ひな子の告白に、火神が目を伏せた。長い睫毛が白い頬に影をつくる。
「……合わせる顔がないのは、こっちのほうだ」
火神が申し訳なさそうに言った。
「卒業まで見届けてやれなかったこと、ずっと気がかりだった。途中で投げ出したのは俺だ。悪いのはいつも俺だった。お前は悪くない。お前は……頑張ったんだな」
火神が頬を緩めて、ひな子の頭を優しく撫でた。
――気持ちいい。
「……私、龍ちゃんのことなら何でもわかってると思ってたんです」
火神の体温を頭に感じながら、ひな子はぽつりと呟く。
「……だけど、そうじゃなかった。実際の龍ちゃんはとっくに私の知らない男になってたのに。私はそれに気づかないで、ずっと龍ちゃんの幻影を……私の中のイメージを追いかけてただけだったんだな、って……あの夜に、わかったんです。私の好きだった龍ちゃんは、もうとっくに、いなくなってたんだ、って……」
馴れ合いすぎたのだろうか……ひな子の龍一郎への感情は、もうただの恋心とは呼べないほど、形が変わっていたのかもしれない。
ひな子の初恋は、自分でも気づかないうちに、終わっていたのだ。
「私が会いたかったのは、先生だけです。私が好きなのは……火神先生だけ、です」
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