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46. 琴子ちゃん、お疲れさま
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夜が更けるにつれて、仕事を片付けた社員が続々と集まってくる。
会場内には長テーブルを並べていくつかの島が作られ、その上には取引先からの差し入れや自社の取り扱い食材などが山盛りに置かれていた。もちろんビールやワインの類も並んでいる。
琴子はなんとなく同じ部のメンバーが集まっているテーブルの周辺でちびちびとウーロン茶を飲んでいた。もともと社内の飲み会ではあまり飲まないようにしていたが、今日の体調だと少し飲んだだけでもすぐに酔いつぶれてしまいそうだった。
隣では外出先から戻った柿澤と鬼頭が仲良く並んで小籠包を頬張っている。ふたりとも頬を膨らませてリスみたいだ。
このテーブルには二課のメンバーが集まっていたが、鴻上の姿はなかった。
転職してようやく三か月の彼は部長の大川に連れられて、他部署のメンバーが集うテーブルへと挨拶にまわっていた。ニコニコとお得意の「課長スマイル」を浮かべた彼は、見栄えがいいこともあってか、応対するメンバーも一様に好意的な笑顔を浮かべている。
ふいに入り口の方が騒がしくなって、みんなの注意がそちらに向いた。琴子も合わせて視線を向けると――
「やぁやぁ、ご苦労さま」
この会社の社長――小田桐正人が重々しい足取りで登場した。
社長は実年齢に比して、はるかに健康的で若々しく見える人だが、社員の前ではわざとゆったり動くようにしているらしかった。なんでも「社長の威厳」を演出するための一環らしい。琴子は社長がこの件で自分の父親に相談しているのを見たことがある。じつに愛すべき社長だ。
社長のななめ後ろには年配の男性が張り付くように付き従っている。痩せ型で少し頭髪の寂しいその人は専務の小谷だ。パウロの創業期から社長の右腕となって働いてきた古参社員の一人だったはず、と琴子は記憶の中から小谷の情報を引っ張りだす。
「えー、皆さん。今日は忙しいなか、集まってくれてありがとう。今年も無事に年度末を迎えられたこと、皆さんの元気そうな顔が見られたこと、大変嬉しく思っています。これもひとえに、社員ひとりひとりの頑張りのおかげだと――……」
社長の挨拶が始まった。マイクがなくても届きそうなくらい朗々とした声が響く。
琴子はウーロン茶をテーブルに置いて社長の声に耳を澄ました。
「ん~。この餃子、美味しい」
「うん、こっちの春巻きもイケる」
社長の挨拶中だというのにもぐもぐと口を動かしをつづける鬼頭と柿澤。琴子はそんな二人を軽く睨みつけてみたが、どこまでもマイペースな彼らは気づく気配もない。注意したほうがいいか、と琴子が口を開きかけたところで、
「はいはい、社長の話ちゃんと聞こうな」
挨拶まわりから解放されたらしい鴻上が現れて代わりに注意してくれた。琴子の方をチラリと見やって眉を下げた鴻上に琴子も苦笑いを返す。
「……えー、それでは皆さん、来年度もよろしくお願いします。乾杯!」
社長の音頭でその場にいた社員たちがグラスを鳴らす。
「あれ、咲坂さん、飲まないんですか?」
ウーロン茶を口にする琴子に柿澤が尋ねてきた。
「うん。今日ちょっと体調がよくなくて」
「そうですか。でも咲坂さんって、いつも酒は控えめですよね。苦手なんですか?」
「うん……まぁ」
二人のやり取りを聞いていたのか、鴻上がクスクスと含み笑いをしている。琴子がギロリとした視線を向けると、それを躱すように鴻上が琴子に背を向けた。
でもそういえば、もう素行を気にする必要もないんじゃない? と、琴子は気づく。だってもう社長夫人になることもないんだし。わかっていたことだが、あらためて自分に言い聞かせるとズドンと胸が痛んだ。別に「社長の息子」だから好きになったわけではないが、ぼんやりと思い描いていた直人との未来が完全に消えてしまった事実を受け入れるのは……なかなかにツラい。ただでさえ頭が痛いというのに、胸まで痛むとなれば、まさに満身創痍。やっぱり麻疹と同じで、初恋は早めに終わらせておくべきだったのかも。
気が付くと琴子は直人のいるテーブルの方へ目を向けていた。ついつい無意識のうちに彼の姿を探してしまう癖もいい加減やめないといけないのに、なんせ長年染み込んだ習慣だから、いっこうにおさまる気配がない。
直人の向かい側には社長と専務が立っていた。三人とも楽しそうに笑い合っている。直人が社長の息子であることは公然の事実だが、社員の前であけっぴろげに父子揃って談笑する姿を晒すのはめずらしい。
そんなことを思いながら何となく彼らの姿を目で追っていた琴子だったが、いつのまにか社長の姿がどんどん大きくなってくる。
「琴子ちゃん、お疲れさま」
そうか、社長がこちらに向かって歩いてきたのか……と気づいたときにはもう目の前にいた。社長の傍らには小谷専務と直人が立っている。にこやかに微笑む社長と専務とは対照的に、直人だけは何とも居心地が悪そうな引き攣った表情を浮かべている。
「琴子ちゃん? どうした、元気がないな」
社長が心配そうに琴子の顔を覗きこんだ。
「わっ! いえ……あの、大丈夫です。今日はちょっと、体調がよくなくて」
突然、目の前に現れた社長のアップに琴子は思わず一歩後ずさってしまう。
あとそれから、社長……いま、「琴子ちゃん」って呼んだ?
いや、たしかにプライベートで会うときにはずっとそう呼ばれてきたけれど。
どうしたんだろう? いままで会社でそういう呼び方をすることはなかったのに……と、琴子が不思議に感じていると、社長が場所もわきまえず、こんなことを言い出した。
「直人も今年で三十だろう。そろそろ琴子ちゃんとの結婚の話、具体的に進めないないと。なぁ、小谷くんもそう思うだろう?」
「そうですね。社長の念願ですからね。直人くんが咲坂さんの娘さんと一緒になってくれれば安心して会社を任せられますしね」
社長の意見に、常務がほくほくと賛同した。
会場内には長テーブルを並べていくつかの島が作られ、その上には取引先からの差し入れや自社の取り扱い食材などが山盛りに置かれていた。もちろんビールやワインの類も並んでいる。
琴子はなんとなく同じ部のメンバーが集まっているテーブルの周辺でちびちびとウーロン茶を飲んでいた。もともと社内の飲み会ではあまり飲まないようにしていたが、今日の体調だと少し飲んだだけでもすぐに酔いつぶれてしまいそうだった。
隣では外出先から戻った柿澤と鬼頭が仲良く並んで小籠包を頬張っている。ふたりとも頬を膨らませてリスみたいだ。
このテーブルには二課のメンバーが集まっていたが、鴻上の姿はなかった。
転職してようやく三か月の彼は部長の大川に連れられて、他部署のメンバーが集うテーブルへと挨拶にまわっていた。ニコニコとお得意の「課長スマイル」を浮かべた彼は、見栄えがいいこともあってか、応対するメンバーも一様に好意的な笑顔を浮かべている。
ふいに入り口の方が騒がしくなって、みんなの注意がそちらに向いた。琴子も合わせて視線を向けると――
「やぁやぁ、ご苦労さま」
この会社の社長――小田桐正人が重々しい足取りで登場した。
社長は実年齢に比して、はるかに健康的で若々しく見える人だが、社員の前ではわざとゆったり動くようにしているらしかった。なんでも「社長の威厳」を演出するための一環らしい。琴子は社長がこの件で自分の父親に相談しているのを見たことがある。じつに愛すべき社長だ。
社長のななめ後ろには年配の男性が張り付くように付き従っている。痩せ型で少し頭髪の寂しいその人は専務の小谷だ。パウロの創業期から社長の右腕となって働いてきた古参社員の一人だったはず、と琴子は記憶の中から小谷の情報を引っ張りだす。
「えー、皆さん。今日は忙しいなか、集まってくれてありがとう。今年も無事に年度末を迎えられたこと、皆さんの元気そうな顔が見られたこと、大変嬉しく思っています。これもひとえに、社員ひとりひとりの頑張りのおかげだと――……」
社長の挨拶が始まった。マイクがなくても届きそうなくらい朗々とした声が響く。
琴子はウーロン茶をテーブルに置いて社長の声に耳を澄ました。
「ん~。この餃子、美味しい」
「うん、こっちの春巻きもイケる」
社長の挨拶中だというのにもぐもぐと口を動かしをつづける鬼頭と柿澤。琴子はそんな二人を軽く睨みつけてみたが、どこまでもマイペースな彼らは気づく気配もない。注意したほうがいいか、と琴子が口を開きかけたところで、
「はいはい、社長の話ちゃんと聞こうな」
挨拶まわりから解放されたらしい鴻上が現れて代わりに注意してくれた。琴子の方をチラリと見やって眉を下げた鴻上に琴子も苦笑いを返す。
「……えー、それでは皆さん、来年度もよろしくお願いします。乾杯!」
社長の音頭でその場にいた社員たちがグラスを鳴らす。
「あれ、咲坂さん、飲まないんですか?」
ウーロン茶を口にする琴子に柿澤が尋ねてきた。
「うん。今日ちょっと体調がよくなくて」
「そうですか。でも咲坂さんって、いつも酒は控えめですよね。苦手なんですか?」
「うん……まぁ」
二人のやり取りを聞いていたのか、鴻上がクスクスと含み笑いをしている。琴子がギロリとした視線を向けると、それを躱すように鴻上が琴子に背を向けた。
でもそういえば、もう素行を気にする必要もないんじゃない? と、琴子は気づく。だってもう社長夫人になることもないんだし。わかっていたことだが、あらためて自分に言い聞かせるとズドンと胸が痛んだ。別に「社長の息子」だから好きになったわけではないが、ぼんやりと思い描いていた直人との未来が完全に消えてしまった事実を受け入れるのは……なかなかにツラい。ただでさえ頭が痛いというのに、胸まで痛むとなれば、まさに満身創痍。やっぱり麻疹と同じで、初恋は早めに終わらせておくべきだったのかも。
気が付くと琴子は直人のいるテーブルの方へ目を向けていた。ついつい無意識のうちに彼の姿を探してしまう癖もいい加減やめないといけないのに、なんせ長年染み込んだ習慣だから、いっこうにおさまる気配がない。
直人の向かい側には社長と専務が立っていた。三人とも楽しそうに笑い合っている。直人が社長の息子であることは公然の事実だが、社員の前であけっぴろげに父子揃って談笑する姿を晒すのはめずらしい。
そんなことを思いながら何となく彼らの姿を目で追っていた琴子だったが、いつのまにか社長の姿がどんどん大きくなってくる。
「琴子ちゃん、お疲れさま」
そうか、社長がこちらに向かって歩いてきたのか……と気づいたときにはもう目の前にいた。社長の傍らには小谷専務と直人が立っている。にこやかに微笑む社長と専務とは対照的に、直人だけは何とも居心地が悪そうな引き攣った表情を浮かべている。
「琴子ちゃん? どうした、元気がないな」
社長が心配そうに琴子の顔を覗きこんだ。
「わっ! いえ……あの、大丈夫です。今日はちょっと、体調がよくなくて」
突然、目の前に現れた社長のアップに琴子は思わず一歩後ずさってしまう。
あとそれから、社長……いま、「琴子ちゃん」って呼んだ?
いや、たしかにプライベートで会うときにはずっとそう呼ばれてきたけれど。
どうしたんだろう? いままで会社でそういう呼び方をすることはなかったのに……と、琴子が不思議に感じていると、社長が場所もわきまえず、こんなことを言い出した。
「直人も今年で三十だろう。そろそろ琴子ちゃんとの結婚の話、具体的に進めないないと。なぁ、小谷くんもそう思うだろう?」
「そうですね。社長の念願ですからね。直人くんが咲坂さんの娘さんと一緒になってくれれば安心して会社を任せられますしね」
社長の意見に、常務がほくほくと賛同した。
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