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51. それは腹黒いよ
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――会社に戻られたら、少しお時間をいただけませんか?
琴子が鴻上にメッセージを送ると、ほどなくして「了解」の返事が届いた。琴子はいそいそと空いている会議室を押さえておく。昼休みになっても鴻上は席に戻ってはこなかったが、琴子は会議室の番号を送って「待っている」と伝えた。
その会議室は奇しくも新堂を「尋問」したあの部屋だった。
室内が薄暗かったのでブラインドを上げると、南に面した窓ガラスから明るい昼の光がドバっと差し込む。
琴子は立ったまま窓の外を眺めた。青い空に白い雲がぽつぽつと浮かんでいる。
少しして、背後でドアの開く音がしたため、琴子はあわてて振り返った。
「課長! ……って、あれ?」
そこにいたのは鴻上ではなく――まさかの直人だった。琴子と対峙するのが気まずいのか、伏し目がちに背中を丸めて佇んでいる。
「直人くん、なんで」
――ここにいるの? と最後まで言わなくても琴子の質問の意図を理解したらしい直人が先回りして答える。
「鴻上さんに呼ばれた」
「あー……」
琴子は呻いた。鴻上がやりそうな手口である。とは言え、せめて事前に教えておいてほしかった……この場に直人を呼んでいることを。
琴子は心の準備もないまま突如として陥ってしまったこの状況に戸惑いを隠せない。ふたりのあいだに何とも言えない沈黙が流れた。
「……体調はもう大丈夫なの?」
最初に口を開いたのは直人のほうだった。
「あぁ……うん。昨日も休ませてもらったし、もう大丈夫。うん」
琴子は「大丈夫」と言ったあとで、さらに念を押すように「うん」と頷いてみせる。琴子の返事を聞いて、直人が「そうか、よかった」と呟いて大きく息をついた。そして、言いにくそうに口を開く。
「このあいだは……ごめん」
「…………」
直人の言う「このあいだ」がいつなのか判らなくて、琴子は黙るしかなかった。
先週の納会の話なのか、それとも、琴子が直人の部屋で暴走したあの昼下がりのことなのか。
「父さんが皆の前で急にあんなこと言い出して……。僕も驚いた」
納会の話だったらしい。
たしかに、あのときの社長の発言には琴子も焦った。
「琴子にも迷惑かけて、ごめん。……父さんには、ちゃんと話したよ」
そう言うと、直人が顔を上げた。
思わず直人の顔を見返した琴子と目が合う。
「え。あの……なんて?」
直人くんが社長に自分の本心を話した? 自分の口から? 琴子にはその父子のやりとりが想像できない。
「……琴子とは結婚できない、って。他に好きなひとがいるから……って」
直人が自嘲するように小さく笑いながら言った。
「好きなひと……」
琴子は直人のセリフを反芻した。
好きなひと。好きなひと。好きな……新堂?
「好きなひとって、相手が誰かも伝えたの? おじさんに」
琴子の質問に、直人は力なく首を横に振った。
「まだ言えてない。僕が伝えようとしたら、止められたんだ。『待ってくれ、まだ心の準備ができてない』。……そう言われた」
「そっか。おじさんは……気づいてるのかもしれないね」
琴子は鴻上の推理を思い出した。「直人が女性に興味がないことに社長は気づいているんじゃないか」という説だったはずだ。
直人は何度か大きく瞬きをしたあとで、苦しそうに口を開いた。
「正直に言うと、僕は琴子と結婚したかったんだ」
「……え」
「琴子が相手なら親も喜ぶし、僕も安心できるから。琴子なら、肩書き目当てのよく知らない女たちと違って信用できるし」
直人の思いがけない告白に、琴子は嬉しいような、でも何かが引っかかるような……複雑な気持ちになる。
「それはその……いわゆる『カモフラージュ』とか『偽装結婚』とか、そういうこと?」
琴子が尋ねると、直人が頭を下げた。
「…………ごめん」
琴子の指摘が図星だったのか、直人が深く首を垂れた。
「別に謝ってもらわなくてもいいけど。でも直人くんって意外に、」
琴子は素直に思ったことを口にしようとしたが、途中で思いなおして口を噤んだ。
「意外に、なに?」
直人に促されて、仕方なく琴子は言葉をつづける。
「直人くんって、意外に……腹黒いんだね」
「え?」
琴子の斟酌のない物言いに、直人は面食らったように目を見開いた。
「だって直人くんは気づいてたでしょ? 私の気持ちに。私が子供の頃からずっと直人くんを好きなことに気づいてて、その上で、その気持ちにつけ込もうとしたんだよね? それは腹黒いよ」
琴子はもう開き直って、思ったことを思ったままに伝えた。
「腹黒い……? そんなこと言われたの初めてだ」
直人が呆然としたように呟く。
こんな風に意気消沈した直人を見るのは琴子にとっても初めてかもしれない。
見慣れない彼の様子が可笑しくて、なんだか可愛らしくも思えて、琴子はついつい声を上げて笑ってしまう。
「でも、そういう直人くんのほうがいいよ。なんか人間らしいもん。だから、直人くんが彼の前でなら、そうやって人間らしくいられるっていうなら……。私はもう大人しく身を引くから。だから安心して」
琴子が笑いながら言うと、直人がぐしゃりと顔を歪めて、いまにも泣きだしそうな、それでいて笑いだしそうにも見える表情を浮かべた。
「琴子……ごめん。ありがとう」
「うん」
直人の「ごめん」と「ありがとう」の言葉を琴子は胸にしまい込んだ。そして、「あぁ、これで本当に終わったんだ」と思った。
琴子に向かって一礼してから、直人が会議室を出て行った。
琴子はその背中を見送ると、ブラインドを下ろしてから、自分も仕事に戻ろうとしてドアに手をかけると――
「わっ!」
ドアを明けて部屋を出ようとした琴子の顔が何かにぶつかる。
とっさに瞑った目を開くと、目の前にあるネクタイが目に入った。紅色の地に白いドット模様のそれには見覚えがある。
琴子が顔を上げると、穏やかに微笑む鴻上が琴子の顔をまっすぐに見つめていた。
琴子が鴻上にメッセージを送ると、ほどなくして「了解」の返事が届いた。琴子はいそいそと空いている会議室を押さえておく。昼休みになっても鴻上は席に戻ってはこなかったが、琴子は会議室の番号を送って「待っている」と伝えた。
その会議室は奇しくも新堂を「尋問」したあの部屋だった。
室内が薄暗かったのでブラインドを上げると、南に面した窓ガラスから明るい昼の光がドバっと差し込む。
琴子は立ったまま窓の外を眺めた。青い空に白い雲がぽつぽつと浮かんでいる。
少しして、背後でドアの開く音がしたため、琴子はあわてて振り返った。
「課長! ……って、あれ?」
そこにいたのは鴻上ではなく――まさかの直人だった。琴子と対峙するのが気まずいのか、伏し目がちに背中を丸めて佇んでいる。
「直人くん、なんで」
――ここにいるの? と最後まで言わなくても琴子の質問の意図を理解したらしい直人が先回りして答える。
「鴻上さんに呼ばれた」
「あー……」
琴子は呻いた。鴻上がやりそうな手口である。とは言え、せめて事前に教えておいてほしかった……この場に直人を呼んでいることを。
琴子は心の準備もないまま突如として陥ってしまったこの状況に戸惑いを隠せない。ふたりのあいだに何とも言えない沈黙が流れた。
「……体調はもう大丈夫なの?」
最初に口を開いたのは直人のほうだった。
「あぁ……うん。昨日も休ませてもらったし、もう大丈夫。うん」
琴子は「大丈夫」と言ったあとで、さらに念を押すように「うん」と頷いてみせる。琴子の返事を聞いて、直人が「そうか、よかった」と呟いて大きく息をついた。そして、言いにくそうに口を開く。
「このあいだは……ごめん」
「…………」
直人の言う「このあいだ」がいつなのか判らなくて、琴子は黙るしかなかった。
先週の納会の話なのか、それとも、琴子が直人の部屋で暴走したあの昼下がりのことなのか。
「父さんが皆の前で急にあんなこと言い出して……。僕も驚いた」
納会の話だったらしい。
たしかに、あのときの社長の発言には琴子も焦った。
「琴子にも迷惑かけて、ごめん。……父さんには、ちゃんと話したよ」
そう言うと、直人が顔を上げた。
思わず直人の顔を見返した琴子と目が合う。
「え。あの……なんて?」
直人くんが社長に自分の本心を話した? 自分の口から? 琴子にはその父子のやりとりが想像できない。
「……琴子とは結婚できない、って。他に好きなひとがいるから……って」
直人が自嘲するように小さく笑いながら言った。
「好きなひと……」
琴子は直人のセリフを反芻した。
好きなひと。好きなひと。好きな……新堂?
「好きなひとって、相手が誰かも伝えたの? おじさんに」
琴子の質問に、直人は力なく首を横に振った。
「まだ言えてない。僕が伝えようとしたら、止められたんだ。『待ってくれ、まだ心の準備ができてない』。……そう言われた」
「そっか。おじさんは……気づいてるのかもしれないね」
琴子は鴻上の推理を思い出した。「直人が女性に興味がないことに社長は気づいているんじゃないか」という説だったはずだ。
直人は何度か大きく瞬きをしたあとで、苦しそうに口を開いた。
「正直に言うと、僕は琴子と結婚したかったんだ」
「……え」
「琴子が相手なら親も喜ぶし、僕も安心できるから。琴子なら、肩書き目当てのよく知らない女たちと違って信用できるし」
直人の思いがけない告白に、琴子は嬉しいような、でも何かが引っかかるような……複雑な気持ちになる。
「それはその……いわゆる『カモフラージュ』とか『偽装結婚』とか、そういうこと?」
琴子が尋ねると、直人が頭を下げた。
「…………ごめん」
琴子の指摘が図星だったのか、直人が深く首を垂れた。
「別に謝ってもらわなくてもいいけど。でも直人くんって意外に、」
琴子は素直に思ったことを口にしようとしたが、途中で思いなおして口を噤んだ。
「意外に、なに?」
直人に促されて、仕方なく琴子は言葉をつづける。
「直人くんって、意外に……腹黒いんだね」
「え?」
琴子の斟酌のない物言いに、直人は面食らったように目を見開いた。
「だって直人くんは気づいてたでしょ? 私の気持ちに。私が子供の頃からずっと直人くんを好きなことに気づいてて、その上で、その気持ちにつけ込もうとしたんだよね? それは腹黒いよ」
琴子はもう開き直って、思ったことを思ったままに伝えた。
「腹黒い……? そんなこと言われたの初めてだ」
直人が呆然としたように呟く。
こんな風に意気消沈した直人を見るのは琴子にとっても初めてかもしれない。
見慣れない彼の様子が可笑しくて、なんだか可愛らしくも思えて、琴子はついつい声を上げて笑ってしまう。
「でも、そういう直人くんのほうがいいよ。なんか人間らしいもん。だから、直人くんが彼の前でなら、そうやって人間らしくいられるっていうなら……。私はもう大人しく身を引くから。だから安心して」
琴子が笑いながら言うと、直人がぐしゃりと顔を歪めて、いまにも泣きだしそうな、それでいて笑いだしそうにも見える表情を浮かべた。
「琴子……ごめん。ありがとう」
「うん」
直人の「ごめん」と「ありがとう」の言葉を琴子は胸にしまい込んだ。そして、「あぁ、これで本当に終わったんだ」と思った。
琴子に向かって一礼してから、直人が会議室を出て行った。
琴子はその背中を見送ると、ブラインドを下ろしてから、自分も仕事に戻ろうとしてドアに手をかけると――
「わっ!」
ドアを明けて部屋を出ようとした琴子の顔が何かにぶつかる。
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