マクガフィンの行方

阿久井浮久衛

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Chapter 2

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 それから4,50分程度は経過した頃だろうか。入浴を済ませた松本君が応接間に戻ってきたのを見て,高杉さんは腰を上げた。

「ちょっとあいつの様子見てくるね,多分あれだけ飲んでいるからまだお風呂には入れないだろうけれど。先に入りたい人がいればわたし達のことは気にしないでいいから」

 ホール側の扉から出ていくその背中を見送り,松本君は自分のノートパソコンを置いていた席に座る。半袖ハーフパンツのルームウェアに濡れて更に重い印象を与える野暮ったい髪。普段シャツとデニムの組み合わせしか見ないから,この姿はなかなか新鮮だった。

「何だか,変な感じ」

 同じことを考えていたらしく,奏ちゃんがキーを叩く手を止め松本君をまじまじ眺めながら言った。言われた松本君は不思議そうに首を傾げる。

「何が?」
「松本先輩がシャツとデニム以外の格好をしているのがです。普段の印象が強すぎて,違和感があるというか」
「分かる。何というか『あ,白シャツ以外の服も着るんだ』って感じ」
「……2人共僕のことを何だと思っているんだ」

 若干傷ついた様子に思わずわたしと奏ちゃんは顔を見合わせて笑う。妙なところで繊細なのがおかしかった。

 笑いを噛み殺しながら話題を変えてあげる。

「お風呂はどんな感じだった?」
「広かったよ。部屋数からしてそうだけれど,複数名の来客を想定して建てられたんだろうね。蛇口とシャワーはそれぞれ3つあるし浴槽自体かなり広い。鳴海さんは浸かっていないみたいだし,僕もシャワーで済ませたから,早目に入ってしまえば? 岡部さんはまだ入らないかもしれないけれど,万が一入浴することになったらその後の人大変そうだし」
「あー確かに」

 頷きつつも,わたしは菅の好色な目を思い返した。自分の入浴後の浴槽にあの人が入るシーンを思い浮かべ,思わず鳥肌が立つ腕を摩る。

 どうしようかと逡巡していると,岡部の様子を確認しに行ったはずの高杉さんが不安そうな顔を浮かべ戻ってきた。

「どうかしました?」
「あいつの部屋ノックしても返事がなくて」
「寝ているだけじゃないですか?」
「多分そうだと思うんだけれど,前に一度飲み過ぎて病院に運び込まれたことがあるから心配で……」

 なるほど,前科持ちということか。しかし普段文句は言うものの肝心な時に身を案じる姿を見ると,やはり岡部の恋人なのだなと妙に感心した。

「うーん,どうします? 一応一ノ瀬さんに相談してみますか?」
「……うん。そうする」
「わたしも一緒に行きますよ」

 あまりにも心配そうな表情が不憫でわたしは立ち上がった。松本君と奏ちゃんを残し,高杉さんと共にホールへ出る。

「一ノ瀬さんの部屋は1階でしたっけ?」
「うん,応接間の正面」

 わたし達はホールを横切り,右手に見える階段から数えて2つ目の部屋へ向かう。ホールの花台には土井さんが回収した件の百合の花が2輪,花瓶に挿されていた。扉の前に建つと,高杉さんは一瞬躊躇うような素振りを見せ扉をノックした。

「はーい。何? どうかした?」

 一ノ瀬さんが扉を開けた。扉の向こうには椅子に座る土井さんの姿も見える。

 高杉さんはどう切り出したものか逡巡している風だったが,やがておずおず口を開いた。

「……康友が,呼びかけても返事がなくて」
「単に寝てるだけなんじゃないの?」
「そうだとは思うんですけれど……前やらかしたことがあるから心配で……」  自分でも過剰だと自覚があるからだろう,高杉さんの声はすぐ尻すぼみになる。一ノ瀬さんも一ノ瀬さんでどうしたものか考えあぐねている様子だったが,やがて根負けしたのか小さく首を振った。
「分かったよ。僕もついていくから,もう一度確かめてみよう」

 室内の土井さんに手招きした後「原口さんも来る?」と聞いてきたので,わたしは頷いた。

 わたし達4人はホールを縦断し,玄関とは反対側の階段を上る。それから,今上った階段から数えて2つ目の部屋の前に立つ。ちょうど逆さまなL字型の廊下の,底の所だ。

「おい,岡部。ちょっといいか?」

 扉越しに声をかけてみるものの,返事はおろか身動きする音さえ聞こえない。暴風雨の音は確かに耳に障るが,それに遮られて全く聞こえないということもあるまい。一ノ瀬さんは更に声を大きくしてノックを続けたけれど,室内で人が動く気配は感じられなかった。

「うるさいな,静かにしてくれよ」

 1つ隣,階段に最も近い部屋の扉が開き,顔を顰めながら菅が出てきた。

「気分悪くて寝てんだから,少しは気を遣ってくれ」

 自業自得だろうに,厚かましく菅が不平を言う。わたしはこの態度にムッとしたのだけれど,一ノ瀬さんは冷静に応えた。

「岡部が呼びかけても出てこないんだよ」
「寝てるだけだろ」
「十中八九そうだろうけれど,結構飲んでたから一応用心しといた方がいいかなって」
「心配し過ぎ」

 菅はぶつくさ言いながら廊下に出て,壁に寄り掛かる。眠れないと見て,この騒動を見物する腹積もりのようだ。

 その後も何度か呼びかけてみたものの,沈黙のまま岡部の部屋の扉は閉ざされたままだった。

「どうしましょうか。合鍵はないんでしたよね」
「うん。だめだな,鍵がかかってる」

 頷きながら,一ノ瀬さんはドアノブをがちゃがちゃ言わせた。

「ベランダから中の様子は分からない?」

 土井さんのアイディアは妙案に思えたのだけれど,一ノ瀬さんはこれにも力なく首を横に振る。

「ベランダへ出られるのはこの隣の高杉さんが泊っている部屋までだ。岡部と菅の部屋からは出られないし,窓の傍に足場はない。梯子を立てかけるのもこの天候じゃ危なすぎるし,第一カーテンが引かれていると外から確認はできない」
「携帯で連絡は?」
「難しいね。ここ電波が届かないし,内線も引いてない」

 つまり現状,岡部が単に寝ているだけか容体が悪化しているかを確認する手立てはないということか。

 正直なところ,岡部が急性アルコール中毒なり何なりで危篤に陥っているという確証が得られない以上どうしようもない気がした。最もあり得る可能性は酔いが回り爆睡しているというものだろう。熟睡している最中叩き起こして変に機嫌を損なうくらいなら,放置しておく方が余程得策だ。一ノ瀬さんもそれが分かっているからだろう,これ以上呼びかけることにはあまり乗り気でないように見える。

 それでも,蒼白と評していい高杉さんの顔色を見て最後には溜息を吐いた。

「仕方ない。無理やりこじ開けよう」
「マジか!?」
「岡部が今どういう状態か分からない以上,万が一のことも考えなきゃならないだろ。原口さん,悪いけれど鳴海と松本君達呼んできてくれる? 人手がいることになるかもしれない。それと,鳴海には物置からバールを持ってくるよう伝えてほしい」
「分かりました」

 大事になってきたなと,やや緊張しながら頷いた。わたしは上がってきた階段を下り,そのまま応接間へ向かいかけたのだけれど,ふと思いなおし足を止めた。

 バールの場所がどこかは知らないけれど,取りに行くのに時間かかるかもしれない。

 そう考え先に鳴海さんを呼びに行くことにした。同人Fの面々は1階に泊まっているようだった。となると,鳴海さんが寝起きしている部屋は一ノ瀬さんや土井さんの部屋に近いのかもしれない。

 その類推は当たっており,一ノ瀬さんの部屋の左隣の部屋をノックするとすぐに「はい」と鳴海さんの声が聞こえて扉が開いた。

「えーっと,岡部さんが声かけても返事がなくて。最悪の場合急性アルコール中毒の可能性もあるから部屋こじ開けることになったんですけれど,鳴海さんにバールを取ってくるよう伝えるように言われまして」

 説明しつつ我ながら無茶というか突拍子もない展開だなと思うけれど,鳴海さんは不審に感じないのか顔色一つ変えず頷いた。

「……分かった。バールは2,3本持っていくから,先に大悟のとこ戻ってそう伝えておいて」
「分かりました」

 その後応接間にいた松本君と奏ちゃんを連れて岡部の部屋の前に戻って5分ほど経過した頃,黒いバールを3本抱えた鳴海さんが合流した。一ノ瀬さんと松本君に1本ずつバール手渡しながら言う。

「オーク材だから1人でやっても精々1,2分だとは思ったんだけれど,一応3本持ってきた」
「いいよ,時間かかりそうだったら交代でやろう」

 ドアノブの上下にバールを差し込み,一ノ瀬さんと鳴海さんが格闘することものの1分弱。ガゴッと鈍い音がして,ドア全体が数センチ押し込まれた。一ノ瀬さんはバールを抜き出し,木枠に引っ掛かっている錠の近くを力強く蹴り込んだ。

 ドアが開いた瞬間――

「いやぁぁぁあああ!!」

 高杉さんの悲鳴が耳を劈く。けれどわたしは,いやその場に立ち会わせた全員が,悲鳴に身じろぎする余裕すら失った。扉をこじ開けた先の,ベッドの上に横たわる岡部の遺体から目を離すことができなかったのだ。

 無論,わたしは医学の専門家ではないし,医療関係者は今合宿に参加していない。それでも,素人が急性アルコール中毒の可能性を除外してなお死亡が断言できるほど,岡部がこと切れていることは明らかだった。

 岡部の遺体には胸部から腹部にかけて無数の刺し傷があり,流れ出た血がシーツを真っ赤に染めていた。顔は驚きの表情で固まり,喉元には墓標のようにナイフが突き立てられていた。
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