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「……失礼いたしますわ、リリン様。今夜も魂の洗濯に参りました」
深夜、公爵令嬢である私の私室に、音もなく忍び込んできた影があった。
男爵令嬢のマリエル様だ。
彼女は手慣れた様子で予備の椅子に座ると、テーブルの上に置かれたマカロンを、まるで獲物を狩る獣のような速さで口に放り込んだ。
「お疲れ様、マリエル様。今夜も殿下の『輝き』に当てられて、視力が低下したのかしら?」
「低下どころか、一時は網膜が焼けるかと思いましたわ。今日の放課後、殿下は何を仰ったと思います? 『僕の影が地面に落ちる時、その土壌は愛によって肥沃になる』ですって。もう、農家の方々に謝ってほしいですわ」
私は優雅に温かいハーブティーを彼女のカップに注いだ。
「それは……また一段と前衛的なポエムね。でも、影があるだけマシじゃない。殿下のことだから、いつか『僕に影など存在しない、なぜなら僕自身が光だからだ』とか言い出しかねないもの」
「言いそうですわ! 絶対に言いますわ! あの方、自分の吐息を瓶に詰めて『聖なる空気』として売り出そうか検討しているフシがありますもの!」
マリエル様はマカロンの甘さで少しだけ正気を取り戻したのか、深く溜息をついた。
「……ねえ、リリン様。私、時々思うのです。殿下のあのお顔だけ、切り取って彫像にできないかしらって。そうすれば、私は毎日その前でお祈りして、静かに暮らせますのに。どうして中身があんなに……その、騒がしいのでしょうか」
「中身が静かだったら、それはもう殿下ではないわ。殿下の本体は、あの顔ではなく、あの底なしの自己愛なんですもの。……でも、顔だけは確かに一級品よね。それだけは認めざるを得ないわ」
「ええ、顔は。顔だけは、この国の予算を半分注ぎ込んでも惜しくないほどの奇跡ですわ。だからこそ、期待してしまう私が馬鹿でした。……ああ、神様はどうして、あの美貌にあの性格を詰め込んでしまったのでしょうか。分量を間違えたとしか思えませんわ」
私たちは、深夜の静寂の中で、王子の「美貌」と「性格」の絶望的な乖離について、延々と語り合った。
「そういえば、リリン様。殿下が今日、『リリンは僕という劇薬を摂取しすぎて、禁断症状が出ているようだ。あんなに地味な格好をして僕を油断させ、隙あらば僕を拉致しようとしている』と嬉しそうに仰っていましたわよ」
「……拉致? 私が? あんな重たい文化財をどこへ運べというのよ。腰を痛めるだけだわ」
「殿下の脳内では、リリン様は『王子の誘拐を企む情熱的なストーカー』として、完全に悪役の地位を確立していらっしゃいますわ。おめでとうございます、計画通りですわね」
「……全然嬉しくないわ。でも、そう思わせておけば、婚約破棄を言い渡される心配はないわね。殿下にとって、私は『自分の魅力を証明するための最高の引き立て役』なんですもの。……手放すはずがないわ」
私は窓の外、遠くに見える王宮の灯りを見つめた。
かつて、私はあの方の隣に立つことが唯一の幸せだと信じていた。
けれど、こうして毒を吐き、美味しいお菓子を食べ、一人の友人と本音を言い合う時間の方が、どれだけ心を満たしてくれるか。
「リリン様。……私、リリン様がいてくださって本当に良かったです。もし、あの日、リリン様が私の本音を聞いてくださらなかったら……私、今頃、ストレスで胃に穴が開いて、そのまま殿下との『真実の愛』という名の心中を遂げていたかもしれませんわ」
マリエル様が、少しだけ真面目な顔をして私を見つめた。
「……それは、こちらのセリフよ。あなたが殿下の好みのタイプを演じてくれたおかげで、私は『悪役』という隠れ蓑を手に入れられた。……でも、マリエル様。あまり無理はしないでね。本当に辛くなったら、いつでも言いなさい」
「はい。その時は、最高級のパフェを三杯、リリン様に奢っていただきますわ」
「ふふ、安上がりな命ね。いいわ、十杯でも奢ってあげる」
私たちは、どちらからともなく笑い出した。
深夜の女子会。
話題は王子の悪口から、最近の流行の刺繍、そしてエリオットが意外と甘党であるという噂話へと移っていった。
「……あら、もうこんな時間。マリエル様、そろそろお戻りにならないと、寮の門限が」
「ええっ、大変! 私、また殿下のせいで貴重な睡眠時間を削られてしまいましたわ! あの方、私の美容まで破壊するつもりですのね!」
マリエル様は慌てて残りのマカロンをポケットに詰め込むと、窓から軽やかに……もとい、令嬢らしからぬ素早さで外へと消えていった。
「……本当、嵐のような人ね」
私は一人残された部屋で、冷めかけた茶を飲み干した。
明日は、どんなポエムが待っているのだろう。
明日は、どんな「救出劇」を演じなければならないのだろう。
大変な毎日だけれど、悪くない。
少なくとも、私は自分の人生を、自分の足で歩いている。
私は青い花が一輪刺さった花瓶にそっと指を触れ、少しだけエリオットの顔を思い浮かべてから、ベッドに潜り込んだ。
……明日の朝、殿下が『僕の寝起きの吐息で世界を浄化したい』とか言い出しませんように。
それだけを祈りながら。
深夜、公爵令嬢である私の私室に、音もなく忍び込んできた影があった。
男爵令嬢のマリエル様だ。
彼女は手慣れた様子で予備の椅子に座ると、テーブルの上に置かれたマカロンを、まるで獲物を狩る獣のような速さで口に放り込んだ。
「お疲れ様、マリエル様。今夜も殿下の『輝き』に当てられて、視力が低下したのかしら?」
「低下どころか、一時は網膜が焼けるかと思いましたわ。今日の放課後、殿下は何を仰ったと思います? 『僕の影が地面に落ちる時、その土壌は愛によって肥沃になる』ですって。もう、農家の方々に謝ってほしいですわ」
私は優雅に温かいハーブティーを彼女のカップに注いだ。
「それは……また一段と前衛的なポエムね。でも、影があるだけマシじゃない。殿下のことだから、いつか『僕に影など存在しない、なぜなら僕自身が光だからだ』とか言い出しかねないもの」
「言いそうですわ! 絶対に言いますわ! あの方、自分の吐息を瓶に詰めて『聖なる空気』として売り出そうか検討しているフシがありますもの!」
マリエル様はマカロンの甘さで少しだけ正気を取り戻したのか、深く溜息をついた。
「……ねえ、リリン様。私、時々思うのです。殿下のあのお顔だけ、切り取って彫像にできないかしらって。そうすれば、私は毎日その前でお祈りして、静かに暮らせますのに。どうして中身があんなに……その、騒がしいのでしょうか」
「中身が静かだったら、それはもう殿下ではないわ。殿下の本体は、あの顔ではなく、あの底なしの自己愛なんですもの。……でも、顔だけは確かに一級品よね。それだけは認めざるを得ないわ」
「ええ、顔は。顔だけは、この国の予算を半分注ぎ込んでも惜しくないほどの奇跡ですわ。だからこそ、期待してしまう私が馬鹿でした。……ああ、神様はどうして、あの美貌にあの性格を詰め込んでしまったのでしょうか。分量を間違えたとしか思えませんわ」
私たちは、深夜の静寂の中で、王子の「美貌」と「性格」の絶望的な乖離について、延々と語り合った。
「そういえば、リリン様。殿下が今日、『リリンは僕という劇薬を摂取しすぎて、禁断症状が出ているようだ。あんなに地味な格好をして僕を油断させ、隙あらば僕を拉致しようとしている』と嬉しそうに仰っていましたわよ」
「……拉致? 私が? あんな重たい文化財をどこへ運べというのよ。腰を痛めるだけだわ」
「殿下の脳内では、リリン様は『王子の誘拐を企む情熱的なストーカー』として、完全に悪役の地位を確立していらっしゃいますわ。おめでとうございます、計画通りですわね」
「……全然嬉しくないわ。でも、そう思わせておけば、婚約破棄を言い渡される心配はないわね。殿下にとって、私は『自分の魅力を証明するための最高の引き立て役』なんですもの。……手放すはずがないわ」
私は窓の外、遠くに見える王宮の灯りを見つめた。
かつて、私はあの方の隣に立つことが唯一の幸せだと信じていた。
けれど、こうして毒を吐き、美味しいお菓子を食べ、一人の友人と本音を言い合う時間の方が、どれだけ心を満たしてくれるか。
「リリン様。……私、リリン様がいてくださって本当に良かったです。もし、あの日、リリン様が私の本音を聞いてくださらなかったら……私、今頃、ストレスで胃に穴が開いて、そのまま殿下との『真実の愛』という名の心中を遂げていたかもしれませんわ」
マリエル様が、少しだけ真面目な顔をして私を見つめた。
「……それは、こちらのセリフよ。あなたが殿下の好みのタイプを演じてくれたおかげで、私は『悪役』という隠れ蓑を手に入れられた。……でも、マリエル様。あまり無理はしないでね。本当に辛くなったら、いつでも言いなさい」
「はい。その時は、最高級のパフェを三杯、リリン様に奢っていただきますわ」
「ふふ、安上がりな命ね。いいわ、十杯でも奢ってあげる」
私たちは、どちらからともなく笑い出した。
深夜の女子会。
話題は王子の悪口から、最近の流行の刺繍、そしてエリオットが意外と甘党であるという噂話へと移っていった。
「……あら、もうこんな時間。マリエル様、そろそろお戻りにならないと、寮の門限が」
「ええっ、大変! 私、また殿下のせいで貴重な睡眠時間を削られてしまいましたわ! あの方、私の美容まで破壊するつもりですのね!」
マリエル様は慌てて残りのマカロンをポケットに詰め込むと、窓から軽やかに……もとい、令嬢らしからぬ素早さで外へと消えていった。
「……本当、嵐のような人ね」
私は一人残された部屋で、冷めかけた茶を飲み干した。
明日は、どんなポエムが待っているのだろう。
明日は、どんな「救出劇」を演じなければならないのだろう。
大変な毎日だけれど、悪くない。
少なくとも、私は自分の人生を、自分の足で歩いている。
私は青い花が一輪刺さった花瓶にそっと指を触れ、少しだけエリオットの顔を思い浮かべてから、ベッドに潜り込んだ。
……明日の朝、殿下が『僕の寝起きの吐息で世界を浄化したい』とか言い出しませんように。
それだけを祈りながら。
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