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自室に逃げ帰ったわたくしは、ベッドに突っ伏して足をばたつかせていた。
「わたくしの馬鹿! 大馬鹿者ですわ!」
枕に顔を押し付けて、声にならない叫びを上げる。
なぜ、あんな意味不明なことを口走ってしまったのでしょう!
『食事がお気に召しませんでしたの!?』ですって? 思い出しただけで、顔から火が出そうだ。
そして、極めつけはアレクシス様のあの一言。
『……いや、あなたが』
あなたが、気に食わない。
ああ、なんと直接的な拒絶のお言葉!
オブラートというものを、氷の騎士団長閣下は胃の中にでも置いてきてしまわれたのか。
(推しに、嫌われてしまった……)
その事実が、ずしり、と重くのしかかる。
もうおしまいですわ。わたくしの人生、終わりましたわ。
この謹慎生活、これから一体どんな顔をして、彼と向き合えばいいというの。
ずーん、と心が地の底まで沈み込んでいく。
こういう、精神的に極限まで追い詰められた時、わたくしには特効薬が必要だった。
それは、どんな傷も癒してくれる、魔法の霊薬。
(……甘いものが、食べたい)
そう、甘いもの。
蜂蜜をたっぷりかけた温かいミルクでも、クリームがふんだんに使われたケーキでも、砂糖を煮詰めただけのキャンディでもいい。
あの、脳髄が痺れるような、幸福な甘さが、今すぐ欲しかった。
しかし、『氷の華』とまで呼ばれたこのわたくしが、甘いものに目がないなどと、誰が想像するだろう。
公爵令嬢として、そしてユリウス殿下の婚約者として、常に完璧でなければならなかったわたくしは、長年その本性を封印してきたのだ。
(ですが、もう我慢の限界ですわ……!)
もはや、婚約者でもない。ただの謹慎中の身。
一口。ほんの一口だけでいい。
あの甘美な蜜の味を摂取しなければ、わたくしの精神は崩壊してしまう!
決意を固めたわたくしは、音を立てないよう、そっとベッドを抜け出した。
◇
深夜の別邸は、しんと静まり返っている。
わたくしは、闇に溶け込む黒いガウンを羽織り、まるで密偵のように壁際を伝って厨房を目指した。
幸い、侍女のアンナも、護衛の騎士たちも、皆ぐっすりと眠っているようだ。
目的の厨房にたどり着くと、昼間の活気は嘘のように静まり返っていた。
月明かりだけが、磨かれた調理器具をぼんやりと照らしている。
わたくしは手慣れた様子で、奥にある食料庫の扉をそっと開けた。
ひんやりとした空気の中に、小麦粉やスパイスの香りが混じっている。
そして、棚の一番上に置かれた、素焼きの壺を発見した。
(ありましたわ!)
料理人が、明日のデザート用に焼いておいた、特製のハチミツクッキーの壺だ。
わたくしはそれを宝物のようにそっと抱え、厨房の隅の暗がりへと身を隠した。
蓋を開けると、ふわりと甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
たまらない。
わたくしは、一枚のクッキーをつまみ上げ、こっそりと口に運んだ。
サクッ、という軽やかな食感。
次の瞬間、じゅわっとハチミツの濃厚な甘さが、舌の上でとろけていく。
(ああ……! 染み渡りますわ……!)
これですわ、これ! この味!
ストレスでささくれ立っていた心が、優しい甘さでみるみるうちに癒されていく。
甘いものは正義! 幸福の味ですわ!
わたくしは夢中で、もう一枚、またもう一枚とクッキーを頬張った。
普段の、氷のように冷たい仮面はどこへやら。
今のわたくしの顔は、きっと、リスのように頬を膨らませた、大変だらしない表情をしているに違いない。
その、至福の時間の、真っ只中だった。
「……何をしている」
背後から、氷のように静かな声が響いた。
びくっ!と、わたくしの全身が跳ね上がる。
恐る恐る振り返ると、そこには、腕を組んだアレクシス様が、仁王立ちでいらっしゃった。
暗闇の中、月明かりを背負って立つその姿は、まるで地獄の番人のようだ。
口の周りに、びっしりとクッキーのかけらをつけたまま、わたくしは完全にフリーズした。
(み、見られた……! この世の終わりのような醜態を、最推しである、この方に……!)
アレクシス様は、もぐもぐと口を動かしたまま固まっているわたくしを、心底信じられないものを見るような目で見下ろしていた。
「……悪役令嬢は夜更けに密談ではなく、盗み食いか」
その、あまりにも的確な皮肉の言葉に、わたくしの中で何かがプツリと切れた。
「なっ……! と、盗み食いなどと、人聞きの悪い! これは、日中の過酷な労働に対する、わたくしへの正当な報酬ですの!」
ほとんどヤケクソだった。
必死に言い訳をするわたくしの姿が、よほど滑稽に見えたのだろうか。
「……ふっ」
アレクシス様が、ほんの少しだけ、息を漏らすように笑ったのだ。
それは、本当に微かな変化だった。口元が、ほんの少しだけ緩んだだけ。
だが、わたくしは確かに、それを見た。
(え……? 今、閣下が、お笑いに……?)
一瞬、思考が停止する。
彼は、自分の表情筋が緩んだことに気づいたのか、すぐにいつもの無表情に戻ってしまった。
「……執事に言えば、いくらでも用意させたであろうに」
「べ、別に、わたくしは、甘いものが特別好きというわけでは……!」
「そうか」
彼はそれ以上は追及せず、わたくしの口元を、すっと指さした。
「……ついているぞ」
「えっ? あっ、うわっ!」
わたくしは慌てて口元を手で拭う。顔が、羞恥で沸騰しそうだった。
「……あまり夜更かしはするな。明日も早いのだろう」
アレクシス様は、それだけを言い残すと、くるりと背を向けて厨房から出て行った。
一人残されたわたくしは、クッキーの壺を抱きしめたまま、その場にへたり込んだ。
推しに醜態を晒した絶望感と、初めて垣間見た推しの微かな笑みへの興奮とで、心臓が、今にも張り裂けそうだった。
「わたくしの馬鹿! 大馬鹿者ですわ!」
枕に顔を押し付けて、声にならない叫びを上げる。
なぜ、あんな意味不明なことを口走ってしまったのでしょう!
『食事がお気に召しませんでしたの!?』ですって? 思い出しただけで、顔から火が出そうだ。
そして、極めつけはアレクシス様のあの一言。
『……いや、あなたが』
あなたが、気に食わない。
ああ、なんと直接的な拒絶のお言葉!
オブラートというものを、氷の騎士団長閣下は胃の中にでも置いてきてしまわれたのか。
(推しに、嫌われてしまった……)
その事実が、ずしり、と重くのしかかる。
もうおしまいですわ。わたくしの人生、終わりましたわ。
この謹慎生活、これから一体どんな顔をして、彼と向き合えばいいというの。
ずーん、と心が地の底まで沈み込んでいく。
こういう、精神的に極限まで追い詰められた時、わたくしには特効薬が必要だった。
それは、どんな傷も癒してくれる、魔法の霊薬。
(……甘いものが、食べたい)
そう、甘いもの。
蜂蜜をたっぷりかけた温かいミルクでも、クリームがふんだんに使われたケーキでも、砂糖を煮詰めただけのキャンディでもいい。
あの、脳髄が痺れるような、幸福な甘さが、今すぐ欲しかった。
しかし、『氷の華』とまで呼ばれたこのわたくしが、甘いものに目がないなどと、誰が想像するだろう。
公爵令嬢として、そしてユリウス殿下の婚約者として、常に完璧でなければならなかったわたくしは、長年その本性を封印してきたのだ。
(ですが、もう我慢の限界ですわ……!)
もはや、婚約者でもない。ただの謹慎中の身。
一口。ほんの一口だけでいい。
あの甘美な蜜の味を摂取しなければ、わたくしの精神は崩壊してしまう!
決意を固めたわたくしは、音を立てないよう、そっとベッドを抜け出した。
◇
深夜の別邸は、しんと静まり返っている。
わたくしは、闇に溶け込む黒いガウンを羽織り、まるで密偵のように壁際を伝って厨房を目指した。
幸い、侍女のアンナも、護衛の騎士たちも、皆ぐっすりと眠っているようだ。
目的の厨房にたどり着くと、昼間の活気は嘘のように静まり返っていた。
月明かりだけが、磨かれた調理器具をぼんやりと照らしている。
わたくしは手慣れた様子で、奥にある食料庫の扉をそっと開けた。
ひんやりとした空気の中に、小麦粉やスパイスの香りが混じっている。
そして、棚の一番上に置かれた、素焼きの壺を発見した。
(ありましたわ!)
料理人が、明日のデザート用に焼いておいた、特製のハチミツクッキーの壺だ。
わたくしはそれを宝物のようにそっと抱え、厨房の隅の暗がりへと身を隠した。
蓋を開けると、ふわりと甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
たまらない。
わたくしは、一枚のクッキーをつまみ上げ、こっそりと口に運んだ。
サクッ、という軽やかな食感。
次の瞬間、じゅわっとハチミツの濃厚な甘さが、舌の上でとろけていく。
(ああ……! 染み渡りますわ……!)
これですわ、これ! この味!
ストレスでささくれ立っていた心が、優しい甘さでみるみるうちに癒されていく。
甘いものは正義! 幸福の味ですわ!
わたくしは夢中で、もう一枚、またもう一枚とクッキーを頬張った。
普段の、氷のように冷たい仮面はどこへやら。
今のわたくしの顔は、きっと、リスのように頬を膨らませた、大変だらしない表情をしているに違いない。
その、至福の時間の、真っ只中だった。
「……何をしている」
背後から、氷のように静かな声が響いた。
びくっ!と、わたくしの全身が跳ね上がる。
恐る恐る振り返ると、そこには、腕を組んだアレクシス様が、仁王立ちでいらっしゃった。
暗闇の中、月明かりを背負って立つその姿は、まるで地獄の番人のようだ。
口の周りに、びっしりとクッキーのかけらをつけたまま、わたくしは完全にフリーズした。
(み、見られた……! この世の終わりのような醜態を、最推しである、この方に……!)
アレクシス様は、もぐもぐと口を動かしたまま固まっているわたくしを、心底信じられないものを見るような目で見下ろしていた。
「……悪役令嬢は夜更けに密談ではなく、盗み食いか」
その、あまりにも的確な皮肉の言葉に、わたくしの中で何かがプツリと切れた。
「なっ……! と、盗み食いなどと、人聞きの悪い! これは、日中の過酷な労働に対する、わたくしへの正当な報酬ですの!」
ほとんどヤケクソだった。
必死に言い訳をするわたくしの姿が、よほど滑稽に見えたのだろうか。
「……ふっ」
アレクシス様が、ほんの少しだけ、息を漏らすように笑ったのだ。
それは、本当に微かな変化だった。口元が、ほんの少しだけ緩んだだけ。
だが、わたくしは確かに、それを見た。
(え……? 今、閣下が、お笑いに……?)
一瞬、思考が停止する。
彼は、自分の表情筋が緩んだことに気づいたのか、すぐにいつもの無表情に戻ってしまった。
「……執事に言えば、いくらでも用意させたであろうに」
「べ、別に、わたくしは、甘いものが特別好きというわけでは……!」
「そうか」
彼はそれ以上は追及せず、わたくしの口元を、すっと指さした。
「……ついているぞ」
「えっ? あっ、うわっ!」
わたくしは慌てて口元を手で拭う。顔が、羞恥で沸騰しそうだった。
「……あまり夜更かしはするな。明日も早いのだろう」
アレクシス様は、それだけを言い残すと、くるりと背を向けて厨房から出て行った。
一人残されたわたくしは、クッキーの壺を抱きしめたまま、その場にへたり込んだ。
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2024年12月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
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