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訓練場での、あの「セクハラ事件」以来、わたくしはアレクシス様のことを、意識的に避けていた。
仕方ありませんわ。だって、顔を合わせるたびに、あの時の、彼の硬い胸板の感触と、耳元で囁かれた『軽いな』の一言が蘇ってきて、心臓に悪いのですもの。
もちろん、あのデリカシーのない発言に対する怒りは、まだ消えてはおりませんけれど。
わたくしのそっけない態度に、彼の方も何か思うところがあるのか、必要以上に話しかけてくることはなくなった。
そのことに安堵しつつも、胸の奥がちくりと痛むのは、きっと気のせいに違いありませんわ。
一方、未だに別邸に居座っているユリウス殿下とアイラ嬢は、わたくしたちのそんな微妙な空気を楽しんでいるようだった。
特にアイラ嬢は、女性としての妙な対抗心からか、何かとアレクシス様に言い寄っては、氷のような冷たい視線であしらわれ、悔し涙を浮かべる、という一人芝居を繰り返していた。実に、滑稽ですこと。
◇
そんなある日の午後。
わたくしは、気分転換と、この辺りの森に自生する薬草の生態調査を兼ねて、一人で別邸の裏手に広がる森の中を散策していた。
もちろん、数メートル後ろを、わたくしの有能すぎる護衛兼監視役殿が、音もなくついてきていることには、気づいている。
森の奥深くへと足を進めると、木々が拓けた、日当たりの良い小さな空き地に出た。
その中心に、ぽつんと一軒、古びて苔むした狩人の小屋が建っている。
(まあ、こんなところに、このようなものが……)
わたくしが、その趣のある小屋に見とれていると、中から、微かに人の話し声と、それから、クウン、クウン、という、か細い動物の鳴き声が聞こえてきた。
(誰かしら? こんな森の奥で、動物と……?)
好奇心には、勝てなかった。
わたくしは、貴族の令嬢にあるまじきこととは思いつつも、抜き足差し足、音を立てないように、そっと小屋へと近づいていく。
そして、壁板の隙間から、中の様子を、そっと覗き込んだ。
そこでわたくしが見た光景に、思わず息を飲んだ。
小屋の中では、あの、鬼神のごとき強さを誇る、『氷の騎士団長』アレクシス・フォン・シュライバー閣下が、床に膝をつき、小さな、小さな子ギツネの、怪我をした後ろ足に、驚くほど手際よく、綺麗な包帯を巻いていたのだ。
そして。
「よし、痛かったな。もう大丈夫だぞ」
その声は、わたくしが今まで一度も聞いたことのない、蜂蜜を煮詰めたかのように、甘く、穏やかで、そして、とてつもなく優しい声だった。
「ん? 腹が減ったのか? 仕方ないな。ほら、これを食べろ」
彼はそう言うと、懐から取り出した干し肉を、指で小さく、小さくちぎって、子ギツネの口元へと運んでやった。
子ギツネは、安心しきった様子で、彼の指先をぺろぺろと舐めている。
(か、か、閣下が……! あのような、もふもふとした、愛らしい生き物を、あんなにも、慈愛に満ちた、優しいお顔で……!)
衝撃的すぎた。
氷の仮面の裏に隠された、あまりにも、あまりにも大きなギャップ。
推しの、知られざる新たな一面。
その尊さに、わたくしは眩暈を覚え、危うくその場に崩れ落ちそうになった。
その時だった。
わたくしの足が、不覚にも、地面に落ちていた乾いた小枝を踏んでしまったのだ。
パキッ。
静かな森に、その音は、やけに大きく響いた。
「―――誰だ!」
はっとしたように、アレクシス様が振り返る。
その顔は、一瞬で、いつもの鋭い騎士団長の顔に戻っていた。
彼の腕の中の子ギツネが、びくりと体を震わせる。
もう、隠れることはできない。
わたくしは、気まずさで顔を赤らめながら、小屋の入り口から、おずおずと姿を現した。
「…………リリアンヌ嬢。いつから、そこに」
彼の顔に、動揺と、焦りの色が浮かぶのが、はっきりと分かった。
「……その、今、来たところですわ」
嘘だった。
わたくしは、しばらくの間、彼の尊い姿を、穴が開くほど観察させていただいておりました。
「閣下が、そのような、もふもふとした愛らしい生き物を、お好きだったとは、全く存じ上げませんでしたわ」
わたくしが、少しだけ意地悪くそう言うと、彼は、苦虫を百匹ほど噛み潰したような、実に渋い顔をした。
「…………他言したら、斬る」
「まあ、物騒ですこと。ご安心くださいな。他言など、決していたしませんわ」
わたくしは、にっこりと微笑んで見せる。
「わたくしも、大好きですから。もふもふとした、愛らしい生き物は」
その言葉に、彼が、少しだけ驚いたように、目を見開いた。
わたくしは、彼の隣にゆっくりとしゃがみ込むと、怯えている子ギツネの頭を、優しく撫でてやった。
怪我をした一匹の子ギツネを間に挟んで、わたくしたちは、初めて、国のことでも、領地のことでもない、他愛のない話をした。
この子ギツネが、親とはぐれて、猟師の古い罠に掛かっていたこと。
彼が、こっそりと、この小屋で手当てを続けていること。
夕暮れの柔らかな光が、小屋の隙間から差し込んで、わたくしたち二人と、一匹の動物を、優しく照らしていた。
「……あなたと、わたくしの、二人だけの秘密ですわね」
わたくしがそう囁くと、彼は、初めて、わたくしの目の前で、はっきりと、こくりと頷いた。
共有された、温かい「秘密」。
それは、わたくしたち二人の心を、これまで以上に、強く、固く、結びつけてくれることになるのだった。
仕方ありませんわ。だって、顔を合わせるたびに、あの時の、彼の硬い胸板の感触と、耳元で囁かれた『軽いな』の一言が蘇ってきて、心臓に悪いのですもの。
もちろん、あのデリカシーのない発言に対する怒りは、まだ消えてはおりませんけれど。
わたくしのそっけない態度に、彼の方も何か思うところがあるのか、必要以上に話しかけてくることはなくなった。
そのことに安堵しつつも、胸の奥がちくりと痛むのは、きっと気のせいに違いありませんわ。
一方、未だに別邸に居座っているユリウス殿下とアイラ嬢は、わたくしたちのそんな微妙な空気を楽しんでいるようだった。
特にアイラ嬢は、女性としての妙な対抗心からか、何かとアレクシス様に言い寄っては、氷のような冷たい視線であしらわれ、悔し涙を浮かべる、という一人芝居を繰り返していた。実に、滑稽ですこと。
◇
そんなある日の午後。
わたくしは、気分転換と、この辺りの森に自生する薬草の生態調査を兼ねて、一人で別邸の裏手に広がる森の中を散策していた。
もちろん、数メートル後ろを、わたくしの有能すぎる護衛兼監視役殿が、音もなくついてきていることには、気づいている。
森の奥深くへと足を進めると、木々が拓けた、日当たりの良い小さな空き地に出た。
その中心に、ぽつんと一軒、古びて苔むした狩人の小屋が建っている。
(まあ、こんなところに、このようなものが……)
わたくしが、その趣のある小屋に見とれていると、中から、微かに人の話し声と、それから、クウン、クウン、という、か細い動物の鳴き声が聞こえてきた。
(誰かしら? こんな森の奥で、動物と……?)
好奇心には、勝てなかった。
わたくしは、貴族の令嬢にあるまじきこととは思いつつも、抜き足差し足、音を立てないように、そっと小屋へと近づいていく。
そして、壁板の隙間から、中の様子を、そっと覗き込んだ。
そこでわたくしが見た光景に、思わず息を飲んだ。
小屋の中では、あの、鬼神のごとき強さを誇る、『氷の騎士団長』アレクシス・フォン・シュライバー閣下が、床に膝をつき、小さな、小さな子ギツネの、怪我をした後ろ足に、驚くほど手際よく、綺麗な包帯を巻いていたのだ。
そして。
「よし、痛かったな。もう大丈夫だぞ」
その声は、わたくしが今まで一度も聞いたことのない、蜂蜜を煮詰めたかのように、甘く、穏やかで、そして、とてつもなく優しい声だった。
「ん? 腹が減ったのか? 仕方ないな。ほら、これを食べろ」
彼はそう言うと、懐から取り出した干し肉を、指で小さく、小さくちぎって、子ギツネの口元へと運んでやった。
子ギツネは、安心しきった様子で、彼の指先をぺろぺろと舐めている。
(か、か、閣下が……! あのような、もふもふとした、愛らしい生き物を、あんなにも、慈愛に満ちた、優しいお顔で……!)
衝撃的すぎた。
氷の仮面の裏に隠された、あまりにも、あまりにも大きなギャップ。
推しの、知られざる新たな一面。
その尊さに、わたくしは眩暈を覚え、危うくその場に崩れ落ちそうになった。
その時だった。
わたくしの足が、不覚にも、地面に落ちていた乾いた小枝を踏んでしまったのだ。
パキッ。
静かな森に、その音は、やけに大きく響いた。
「―――誰だ!」
はっとしたように、アレクシス様が振り返る。
その顔は、一瞬で、いつもの鋭い騎士団長の顔に戻っていた。
彼の腕の中の子ギツネが、びくりと体を震わせる。
もう、隠れることはできない。
わたくしは、気まずさで顔を赤らめながら、小屋の入り口から、おずおずと姿を現した。
「…………リリアンヌ嬢。いつから、そこに」
彼の顔に、動揺と、焦りの色が浮かぶのが、はっきりと分かった。
「……その、今、来たところですわ」
嘘だった。
わたくしは、しばらくの間、彼の尊い姿を、穴が開くほど観察させていただいておりました。
「閣下が、そのような、もふもふとした愛らしい生き物を、お好きだったとは、全く存じ上げませんでしたわ」
わたくしが、少しだけ意地悪くそう言うと、彼は、苦虫を百匹ほど噛み潰したような、実に渋い顔をした。
「…………他言したら、斬る」
「まあ、物騒ですこと。ご安心くださいな。他言など、決していたしませんわ」
わたくしは、にっこりと微笑んで見せる。
「わたくしも、大好きですから。もふもふとした、愛らしい生き物は」
その言葉に、彼が、少しだけ驚いたように、目を見開いた。
わたくしは、彼の隣にゆっくりとしゃがみ込むと、怯えている子ギツネの頭を、優しく撫でてやった。
怪我をした一匹の子ギツネを間に挟んで、わたくしたちは、初めて、国のことでも、領地のことでもない、他愛のない話をした。
この子ギツネが、親とはぐれて、猟師の古い罠に掛かっていたこと。
彼が、こっそりと、この小屋で手当てを続けていること。
夕暮れの柔らかな光が、小屋の隙間から差し込んで、わたくしたち二人と、一匹の動物を、優しく照らしていた。
「……あなたと、わたくしの、二人だけの秘密ですわね」
わたくしがそう囁くと、彼は、初めて、わたくしの目の前で、はっきりと、こくりと頷いた。
共有された、温かい「秘密」。
それは、わたくしたち二人の心を、これまで以上に、強く、固く、結びつけてくれることになるのだった。
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