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国立魔導アカデミーの第一講義室は、異様な熱気に包まれていた。
教壇に立つのは、つい先日「婚約破棄」と「勘当」という貴族令嬢として致命的なスキャンダルを叩き出されたばかりのディナ・エル・ロンドだ。
受講する学生たちは、好奇の目で彼女を見ている。
「あんな恥をかいて、よく人前に出られるな」
「どうせ公爵家のコネで講師の真似事をさせてもらっているんだろう」
そんな小声が教室の隅々から聞こえてくる。
ディナは教壇に立つなり、教科書も持たずに巨大な黒板の前に立った。
そして、手にしたチョークを勢いよく黒板に叩きつける。
「皆さん、おはようございます。これから皆さんの貴重な時間を奪う以上、私は皆さんの脳細胞に相応の負荷をかける義務があります。挨拶は省略します。非効率ですから」
教室が静まり返った。
ディナは学生たちの反応など一ミリも気にせず、黒板に凄まじい速度で数式を書きなぐり始める。
「本日扱うテーマは『初等魔導における変数の多重構造化』です。現在、皆さんが使っている教科書の三十二ページを開いてください。開きましたか? はい、そのページを破り捨ててください。それはゴミです」
「……えっ?」
最前列に座っていた学生が、呆然と声を漏らした。
「ディ、ディナ様……。この教科書は、魔導省が推奨しているもので……」
「推奨? 停滞の間違いでしょう。この定義式では、魔力の変換効率が最大でも百分の一に留まっています。これではお風呂を沸かすのにも一苦労です。今から私が書く式を脳に刻みなさい。一回しか書きませんよ」
ディナのチョークが、黒板の上で踊るように動き回る。
ガガガッ、という激しい音が響くたびに、既存の魔法理論を根底から覆すような、美しくも残酷な数式が完成していく。
教室の後方で腕を組んで見守っていたサイラスは、こめかみを押さえて溜息をついた。
(手加減しろと言ったのに、初手から国家機密レベルの術式をバラ撒きやがって……)
学生たちは最初こそ馬鹿にしていたが、黒板に書かれた内容を理解し始めた者から順に、顔色を失っていった。
それは、彼らが今まで信じてきた「魔法」という概念を、ただの「計算式」として解体し、再構築していく作業だったからだ。
「ディナ先生! そこ、三行目の導出が理解できません! なぜ虚数項が消えるんですか!?」
一人の学生が、焦ったように挙手した。
ディナは冷たい、しかしどこか楽しげな瞳で彼を射抜く。
「質問があるということは、あなたの脳がようやく動き出した証拠ですね。素晴らしい。ですが、その答えは十五行後にあります。そこまで辿り着けないのであれば、あなたは一生お風呂を沸かす魔法だけを使っていればいいわ」
「な……!」
「いいですか、皆さん。学問とは、世界という巨大なパズルを解く作業です。そこに感情や身分は一切関係ありません。婚約破棄? 勘当? そんなものは変数にすらならないゴミデータです。今のあなたたちにとって重要なのは、私の書いたこの美しい式を理解できるかどうか、それだけよ!」
ディナが叫ぶと、教室の空気が変わった。
嘲笑していた学生たちはいつの間にか身を乗り出し、必死にペンを走らせている。
彼らは気づいてしまったのだ。
目の前の「元・悪役令嬢」が、自分たちよりも遥か高みにいる、真の「賢者」であることに。
「……ふふっ。いいわ、その必死な顔。アドレナリンが出て、暗記効率が四パーセントは上がっているはずよ。さあ、次は時空間干渉の基礎をやるわよ! ついてこれない人は、窓から飛び降りて物理法則の実験台になりなさい!」
ディナのスパルタ授業は、瞬く間にアカデミー中の噂となった。
彼女はもはや「可哀想な令嬢」ではなく、全学生が恐れ、そして敬う「ガリ勉の魔女」としての地位を確立しつつあった。
授業終了の鐘が鳴ったとき、学生たちは全員、魂が抜けたような顔で机に突っ伏していた。
ディナだけが、一人爽やかな笑顔でチョークの粉を払っている。
「サイラス様、見てください。教えることで、私の脳内でも新しい仮説が三つ立ちました。授業って素晴らしいですね、最高の娯楽です!」
「……娯楽で学生を全滅させるな。後で苦情が来たら、全部お前が処理しろよ」
「苦情? 勉強ができる喜びを教えてあげたのに、苦情が出るなんて論理的にあり得ません。もし来たら、その学生に追加の宿題を千ページほど出して、思考する暇を奪ってあげます」
ディナの溢れんばかりの知的好奇心は、留まるところを知らなかった。
彼女の「復讐」は、元婚約者を呪うことではなく、彼が決して辿り着けない高度な知性の世界で、最高に輝くことだったのである。
教壇に立つのは、つい先日「婚約破棄」と「勘当」という貴族令嬢として致命的なスキャンダルを叩き出されたばかりのディナ・エル・ロンドだ。
受講する学生たちは、好奇の目で彼女を見ている。
「あんな恥をかいて、よく人前に出られるな」
「どうせ公爵家のコネで講師の真似事をさせてもらっているんだろう」
そんな小声が教室の隅々から聞こえてくる。
ディナは教壇に立つなり、教科書も持たずに巨大な黒板の前に立った。
そして、手にしたチョークを勢いよく黒板に叩きつける。
「皆さん、おはようございます。これから皆さんの貴重な時間を奪う以上、私は皆さんの脳細胞に相応の負荷をかける義務があります。挨拶は省略します。非効率ですから」
教室が静まり返った。
ディナは学生たちの反応など一ミリも気にせず、黒板に凄まじい速度で数式を書きなぐり始める。
「本日扱うテーマは『初等魔導における変数の多重構造化』です。現在、皆さんが使っている教科書の三十二ページを開いてください。開きましたか? はい、そのページを破り捨ててください。それはゴミです」
「……えっ?」
最前列に座っていた学生が、呆然と声を漏らした。
「ディ、ディナ様……。この教科書は、魔導省が推奨しているもので……」
「推奨? 停滞の間違いでしょう。この定義式では、魔力の変換効率が最大でも百分の一に留まっています。これではお風呂を沸かすのにも一苦労です。今から私が書く式を脳に刻みなさい。一回しか書きませんよ」
ディナのチョークが、黒板の上で踊るように動き回る。
ガガガッ、という激しい音が響くたびに、既存の魔法理論を根底から覆すような、美しくも残酷な数式が完成していく。
教室の後方で腕を組んで見守っていたサイラスは、こめかみを押さえて溜息をついた。
(手加減しろと言ったのに、初手から国家機密レベルの術式をバラ撒きやがって……)
学生たちは最初こそ馬鹿にしていたが、黒板に書かれた内容を理解し始めた者から順に、顔色を失っていった。
それは、彼らが今まで信じてきた「魔法」という概念を、ただの「計算式」として解体し、再構築していく作業だったからだ。
「ディナ先生! そこ、三行目の導出が理解できません! なぜ虚数項が消えるんですか!?」
一人の学生が、焦ったように挙手した。
ディナは冷たい、しかしどこか楽しげな瞳で彼を射抜く。
「質問があるということは、あなたの脳がようやく動き出した証拠ですね。素晴らしい。ですが、その答えは十五行後にあります。そこまで辿り着けないのであれば、あなたは一生お風呂を沸かす魔法だけを使っていればいいわ」
「な……!」
「いいですか、皆さん。学問とは、世界という巨大なパズルを解く作業です。そこに感情や身分は一切関係ありません。婚約破棄? 勘当? そんなものは変数にすらならないゴミデータです。今のあなたたちにとって重要なのは、私の書いたこの美しい式を理解できるかどうか、それだけよ!」
ディナが叫ぶと、教室の空気が変わった。
嘲笑していた学生たちはいつの間にか身を乗り出し、必死にペンを走らせている。
彼らは気づいてしまったのだ。
目の前の「元・悪役令嬢」が、自分たちよりも遥か高みにいる、真の「賢者」であることに。
「……ふふっ。いいわ、その必死な顔。アドレナリンが出て、暗記効率が四パーセントは上がっているはずよ。さあ、次は時空間干渉の基礎をやるわよ! ついてこれない人は、窓から飛び降りて物理法則の実験台になりなさい!」
ディナのスパルタ授業は、瞬く間にアカデミー中の噂となった。
彼女はもはや「可哀想な令嬢」ではなく、全学生が恐れ、そして敬う「ガリ勉の魔女」としての地位を確立しつつあった。
授業終了の鐘が鳴ったとき、学生たちは全員、魂が抜けたような顔で机に突っ伏していた。
ディナだけが、一人爽やかな笑顔でチョークの粉を払っている。
「サイラス様、見てください。教えることで、私の脳内でも新しい仮説が三つ立ちました。授業って素晴らしいですね、最高の娯楽です!」
「……娯楽で学生を全滅させるな。後で苦情が来たら、全部お前が処理しろよ」
「苦情? 勉強ができる喜びを教えてあげたのに、苦情が出るなんて論理的にあり得ません。もし来たら、その学生に追加の宿題を千ページほど出して、思考する暇を奪ってあげます」
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