婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの

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「……ジュリアン様、そんな、クロナ様が可哀想ですわ」

茂みの向こうから聞こえてきたのは、砂糖にさらに蜂蜜をぶっかけたような、胃がもたれるほど甘ったるい声だった。

ロベール侯爵家の令嬢、クロナ・フォン・ロベールは、王宮の裏庭で足を止めた。
手入れの行き届いた薔薇の影に身を潜め、彼女は無表情のまま耳を澄ます。

「いいんだよ、リリィ。あんな冷徹で可愛げのない女、僕の妃には相応しくない。次の卒業パーティーで、公衆の面前において盛大に婚約破棄を言い渡してやるから、君は安心して僕の胸に飛び込んでおいで」

「まあ! ジュリアン様ったら、情熱的……!」

抱擁を交わす衣擦れの音と、ねっとりとした空気感が伝わってくる。
クロナは冷めた目で、手元の手帳にそっとペンを走らせた。

「……なるほど。予定日は一週間後の卒業パーティー。理由は私の不愛想と、リリィ様への真実の愛、といったところかしら」

独り言を呟くクロナの瞳に、涙の欠片もない。
あるのは、冷徹なまでの事務的な計算だけだった。

「さて。悲しんでいる時間は一秒もありませんわね。一秒につき金貨一枚の損失だと考えれば、今の十秒で金貨十枚分の損。……急いで帰宅しましょう」

クロナは音を立てずにその場を離れた。
馬車に乗り込むなり、彼女は控えていた侍女のサーシャに命じた。

「サーシャ、大至急、私がこれまでにジュリアン殿下へ贈った全ての品のリストを作成してちょうだい。それから、殿下の教育のために我が家が支出した家庭教師の費用、及び夜会でのエスコート代行料の相場、精神的苦痛に対する慰謝料の算定準備も」

「……お嬢様、ついに決断されたのですか?」

サーシャが驚きに目を見開く。

「ええ。あのお花畑の王子に、私の貴重な時間をこれ以上一分たりとも無駄にされるのは御免だわ。向こうが『捨てる』と言う前に、こちらから『損切り』させていただきます」

「損切り、でございますか」

「ビジネスと同じよ。不良債権は早めに処理するに限るわ」

クロナは馬車の窓から、遠ざかる王宮を見やった。
この国、マリス王国の第一王子ジュリアンは、顔だけは良いが中身は空っぽの、いわゆる無能であった。
ロベール侯爵家が彼の後ろ盾となっていたからこそ、彼の王位継承権は安泰だったのだ。

「あの男、自分がどれほどロベール家の恩恵を受けているか、一ミリも理解していないのでしょうね」

「左様でございますね。クロナ様が深夜まで代わりに作成した政務の報告書も、全て自分の手柄だと思い込んでいらっしゃいますから」

「いい経験になったわ。あんな無能でも、飾り方次第で王子に見えるという素晴らしい社会実験だったもの」

屋敷に到着するなり、クロナは自室の書斎に籠もった。
山のように積まれた資料の中から、彼女が取り出したのは一通の密書だった。

「サーシャ、隣国のアルトワ公爵家から届いた返信は?」

「こちらに。ゼクス公爵閣下は、お嬢様の提案に非常に興味を示しておられます。ただし、『直接会って、その価値を証明せよ』とのことです」

「厳しいわね。でも、やりがいがあるわ。あのアイスドールと名高いゼクス閣下を納得させられれば、私の第二の人生は安泰よ」

クロナはペンを執り、猛然と書類を作成し始めた。
まずは、ジュリアン王子に叩きつける「婚約解消合意書(案)」。
そして、自分を不当に貶めようとした場合の「カウンター訴訟準備書面」。
さらに、ロベール侯爵家がこれまで国に納めてきた多額の献上金の「返還請求予備軍」。

「……ふふ、あははは!」

静かな部屋に、クロナの乾いた笑い声が響く。

「お嬢様、少々笑い方が悪役令嬢じみておりますよ」

「失礼ね。私はただ、正当な権利を主張しようとしている善良な市民よ。……さあ、リリィ様。貴女が愛してやまないあの王子様を、借金まみれのただの男にして差し上げますわ」

彼女の頭の中には、すでに卒業パーティーでの完璧なシナリオが出来上がっていた。
王子の浮気を嘆き悲しむ令嬢の姿など、どこにもない。

「泣く暇があったら算盤を弾け。これがロベール家の家訓(自称)ですもの」

「お嬢様、その家訓、たった今作りましたよね?」

「細かいことは気にしないで。それよりサーシャ、明日の朝一番で宝石商を呼んでちょうだい。殿下からもらった(と言っても私のお金で買ったようなものだけど)婚約指輪の査定をさせるわ」

「承知いたしました」

一週間。
普通なら絶望に打ちひしがれる期間だが、クロナにとっては「大掃除」の準備期間に過ぎなかった。

「待っていなさい、ジュリアン。貴方の『真実の愛』が、現実の金貨何枚分の価値があるのか、骨の髄まで教えてあげるわ」

クロナの瞳が、月明かりを浴びて鋭く光った。
こうして、史上最も合理的で容赦のない「婚約破棄(される前)劇」の幕が上がったのである。
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