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アミュレットが古びたカフェの前に佇んでいると、不意にギィ、と錆びた蝶番の音がした。
中から現れたのは、腰の曲がった一人の老人だった。白い髪に深い皺。だがその目は穏やかで、優しそうな人柄を滲ませている。
「おや、お嬢さん。このような裏路地でどうかなさいましたかな」
老人は驚いたように目を丸くして、アミュレットに問いかけた。
「こんにちは。こちらの建物が気になりまして、少し拝見しておりました」
アミュレットはいつも通りの平坦な声で答える。
「ほう、この店が。物好きなお嬢さんだ。見ての通りの廃墟同然ですよ」
老人は自嘲気味に笑った。
「元は、カフェだったのですね」
「ええ、よくお分かりで。昔、家内と一緒にやっておりました。『陽だまり亭』という、ありふれた名前の店でしたがね」
老人の目は遠い昔を懐かしむように細められる。
「良い名前ですね」
「ははは、ありがとうございます。ですが、それももう三十年以上前の話。家内が亡くなってからは、ずっとこの通りです。私ももう歳でしてね。そろそろ店を畳んで、田舎の息子のところへ行こうかと考えているところです」
その言葉に、アミュレットの紫の瞳が微かに動いた。
「この店を、誰かに売るご予定は?」
「売る? まさか。こんなボロ屋、誰も買い手など付きませんよ。埃をかぶったガラクタがいくつか残っているだけです」
「では、そのガラクタごと、わたくしに売っていただけませんか」
アミュレットは静かに、しかしはっきりと言った。
老人は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
「……え? い、今、何と仰いましたかな?」
「ですから、このお店をわたくしが買い取ります、と申し上げました」
「いやいや、お嬢さん、ご冗談でしょう。こんな寂れた店……」
「わたくしは冗談を言う性質ではございません。本気です」
アミュレットの真剣な眼差しに、老人はごくりと唾を飲んだ。目の前の少女が、ただの美しい令嬢ではないことを悟ったのだろう。
「しかし、あなたのようなお方が、どうしてまた……」
「少し、退屈しておりまして。ちょうど良い暇つぶしになるかと思いましたの」
悪びれもせずそう言うアミュレットに、老人は呆気にとられていたが、やがて諦めたように息をついた。
「……分かりました。お嬢さんがそこまで仰るのなら。ですが、大した額にはなりませんよ」
「構いません。言い値で結構ですわ」
アミュレットはそう言うと、少し離れた場所で待機させていた護衛騎士を手招きした。
「執事を呼んできてください。すぐに契約を交わします」
「か、畏まりました!」
騎士は驚きながらも、主の命令にすぐさま駆け出していった。
一時間後。
裏路地には不釣り合いなクライン公爵家の馬車が停まり、現れた執事が手際よく契約の準備を整えた。
店の権利譲渡に関する契約書。老人が提示した控えめな金額に対し、アミュレットはその十倍の額を小切手に書き込む。
「お、お嬢様! こんな大金は受け取れません!」
「いいえ、受け取ってください。わたくしの『退屈しのぎ』に対する対価です。それに、このお店が重ねてきた時間への敬意も含まれております」
アミュレットの言葉には、不思議な説得力があった。老人はしばらく逡巡した後、震える手でその小切手を受け取った。
「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「ええ」
契約は滞りなく完了した。老人は店の奥から一本の古びた鍵を取り出し、アミュレットに差し出す。
「これが、この店の鍵です。もう、あなたのものですな」
「確かに、受け取りました」
ずしりと重い鉄の鍵。それはアミュレットにとって、手に入れたばかりの自由の象徴のように感じられた。
老人は深く頭を下げると、荷物をまとめるためだと言って店の奥へと消えていく。その背中は、どこか寂しそうであり、同時に安堵しているようにも見えた。
アミュレットは、手に入れたばかりの鍵をじっと見つめる。
(さて、どうしてくれましょうか、この新しいおもちゃを)
公爵令嬢アミュレット・フォン・クライン、十八歳。
婚約破棄からわずか一日で、彼女は衝動的に、王都の裏路地に自分の城を手に入れたのだった。
中から現れたのは、腰の曲がった一人の老人だった。白い髪に深い皺。だがその目は穏やかで、優しそうな人柄を滲ませている。
「おや、お嬢さん。このような裏路地でどうかなさいましたかな」
老人は驚いたように目を丸くして、アミュレットに問いかけた。
「こんにちは。こちらの建物が気になりまして、少し拝見しておりました」
アミュレットはいつも通りの平坦な声で答える。
「ほう、この店が。物好きなお嬢さんだ。見ての通りの廃墟同然ですよ」
老人は自嘲気味に笑った。
「元は、カフェだったのですね」
「ええ、よくお分かりで。昔、家内と一緒にやっておりました。『陽だまり亭』という、ありふれた名前の店でしたがね」
老人の目は遠い昔を懐かしむように細められる。
「良い名前ですね」
「ははは、ありがとうございます。ですが、それももう三十年以上前の話。家内が亡くなってからは、ずっとこの通りです。私ももう歳でしてね。そろそろ店を畳んで、田舎の息子のところへ行こうかと考えているところです」
その言葉に、アミュレットの紫の瞳が微かに動いた。
「この店を、誰かに売るご予定は?」
「売る? まさか。こんなボロ屋、誰も買い手など付きませんよ。埃をかぶったガラクタがいくつか残っているだけです」
「では、そのガラクタごと、わたくしに売っていただけませんか」
アミュレットは静かに、しかしはっきりと言った。
老人は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
「……え? い、今、何と仰いましたかな?」
「ですから、このお店をわたくしが買い取ります、と申し上げました」
「いやいや、お嬢さん、ご冗談でしょう。こんな寂れた店……」
「わたくしは冗談を言う性質ではございません。本気です」
アミュレットの真剣な眼差しに、老人はごくりと唾を飲んだ。目の前の少女が、ただの美しい令嬢ではないことを悟ったのだろう。
「しかし、あなたのようなお方が、どうしてまた……」
「少し、退屈しておりまして。ちょうど良い暇つぶしになるかと思いましたの」
悪びれもせずそう言うアミュレットに、老人は呆気にとられていたが、やがて諦めたように息をついた。
「……分かりました。お嬢さんがそこまで仰るのなら。ですが、大した額にはなりませんよ」
「構いません。言い値で結構ですわ」
アミュレットはそう言うと、少し離れた場所で待機させていた護衛騎士を手招きした。
「執事を呼んできてください。すぐに契約を交わします」
「か、畏まりました!」
騎士は驚きながらも、主の命令にすぐさま駆け出していった。
一時間後。
裏路地には不釣り合いなクライン公爵家の馬車が停まり、現れた執事が手際よく契約の準備を整えた。
店の権利譲渡に関する契約書。老人が提示した控えめな金額に対し、アミュレットはその十倍の額を小切手に書き込む。
「お、お嬢様! こんな大金は受け取れません!」
「いいえ、受け取ってください。わたくしの『退屈しのぎ』に対する対価です。それに、このお店が重ねてきた時間への敬意も含まれております」
アミュレットの言葉には、不思議な説得力があった。老人はしばらく逡巡した後、震える手でその小切手を受け取った。
「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「ええ」
契約は滞りなく完了した。老人は店の奥から一本の古びた鍵を取り出し、アミュレットに差し出す。
「これが、この店の鍵です。もう、あなたのものですな」
「確かに、受け取りました」
ずしりと重い鉄の鍵。それはアミュレットにとって、手に入れたばかりの自由の象徴のように感じられた。
老人は深く頭を下げると、荷物をまとめるためだと言って店の奥へと消えていく。その背中は、どこか寂しそうであり、同時に安堵しているようにも見えた。
アミュレットは、手に入れたばかりの鍵をじっと見つめる。
(さて、どうしてくれましょうか、この新しいおもちゃを)
公爵令嬢アミュレット・フォン・クライン、十八歳。
婚約破棄からわずか一日で、彼女は衝動的に、王都の裏路地に自分の城を手に入れたのだった。
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