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約束通り、アミュレットの朝食には焼きたてのスコーンが並んだ。
二つに割った温かいスコーンに濃厚なクロテッドクリームと自家製の苺ジャムをたっぷり乗せる。湯気の立つアッサムのミルクティーを一口含み、その完璧な組み合わせをゆっくりと味わった。
「……素晴らしいわ」
思わず感嘆の声が漏れる。これこそが至福。これこそがアミュレットの求める日常だった。
食堂に同席した両親はそんな娘を生きた化石でも見るような目で見ていたが、アミュレットは気にしない。父の溜息も母の心配そうな視線も、美味しい朝食の前では些細なことだった。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
朝食の後、公爵邸には弔問客のように次々と貴族たちが訪れた。アミュレットを慰めるため、あるいはただゴシップを嗅ぎつけるため。どちらにせよ面倒なことに変わりはない。
「まあアミュレット様、お可哀想に……」
「クライン公爵家も大変ですな……」
彼らの紋切り型の同情に、アミュレットはただ無表情に会釈を返すだけ。内心では大きなあくびを噛み殺していた。
(ああ、退屈だわ。これなら王妃教育の方がまだましだったかもしれない)
そんな思考が浮かんだことに自分でも驚く。よほど、今の状況は彼女の性に合わないらしい。
「少し、気分転換に出かけてまいります」
昼過ぎ、客足が途絶えた隙を見て、アミュレットは両親にそう告げた。
「一人では危険だ! 護衛を!」
「いいえ、お父様。大事にする必要はありません。侍女のハンナだけ連れて、王都の紅茶専門店に行くだけですわ」
これ以上騒ぎが大きくなるのは御免だった。
結局、最低限の護衛を一人だけ付けるという条件で、彼女の外出は許可された。
久しぶりに乗る、紋章のないシンプルな馬車。アミュレットはそれが心地よかった。
王都の中央広場で馬車を降り、ハンナと護衛騎士を伴って歩き始める。道行く人々がアミュレットの姿に気づき、ひそひそと囁きを交わすのが分かった。昨夜のパーティーの主役だったのだから当然だろう。
「お嬢様、やはり馬車でお店の前まで……」
心配するハンナに、アミュレットは首を横に振る。
「いいのよ。少し歩きたい気分なの」
他人の視線など彼女にとっては無も同然だ。それよりも、久しぶりに自分の足で歩く王都の街並みのほうがよほど興味を引いた。
目的の紅茶専門店でいくつかの新しい茶葉を購入し、近くのベンチで一休みする。
「さて、どうしましょうか」
このまま真っ直ぐ屋敷に帰るのは少し惜しい気がした。せっかく手に入れた自由な時間だ。
「ハンナ。少しだけ、一人で散策しても?」
「め、滅相もございません! 何かあっては大変です!」
「大丈夫よ。すぐに戻るわ。あなたはここで待っていてちょうだい」
アミュレットはそう言うと、有無を言わさぬ足取りで歩き出す。慌ててついてこようとする護衛騎士を手で制した。
「あなたもよ。わたくしが目立つから人が寄ってくるのです。少し離れていなさい」
有無を言わせぬその態度に、騎士は苦い顔で頷くしかなかった。
人混みを抜け、アミュレットは気の向くままに足を運ぶ。大通りから一本外れた道、さらにそこから伸びる細い路地。いつもなら決して通らないような場所に、彼女はなぜか惹きつけられていた。
石畳のその道は、少しひび割れていて、建物の間から差し込む光がまだらに地面を照らしている。王都の喧騒が嘘のように遠ざかり、静かな時間が流れていた。
そして、彼女は一つの建物の前で足を止めた。
それは二階建ての小さな建物だった。煤けたレンガの壁には蔦が絡まり、窓枠のペンキは剥げ落ちている。軒先には錆びた看板がぶら下がっていたが、文字は掠れてほとんど読めない。
おそらく、長いこと使われていない空き店舗なのだろう。
だが、不思議と陰気な印象はなかった。むしろ、長い年月を静かに過ごしてきた老人のような、どこか穏やかで温かい空気を纏っているように感じられた。
「……お店、だったのかしら」
アミュレットは独りごち、古びたガラス窓にそっと手を触れる。
中は埃っぽく、いくつかのテーブルと椅子が乱雑に置かれているのが見えた。カウンターの奥には厨房らしき空間もある。
窓に描かれた、消えかかったカップの絵。
「カフェ……だったのね」
その言葉が、すんなりと胸に落ちた。
なぜだろう。この寂れた建物が、ひどく魅力的に見えた。無駄がなく、誰にも媚びず、ただそこに在る。その姿が、自分と少しだけ重なる気がした。
(ここで、自分だけの時間を過ごせたら)
(誰にも邪魔されず、最高の紅茶を淹れて、静かに本を読む)
そんな光景が、ふと頭に浮かんだ。
アミュレットは、自分でも気づかないうちに、その唇に微かな笑みを浮かべていた。
「悪くないわね」
その呟きは、裏路地の静けさに溶けていった。
彼女の退屈だった日常が、ほんの少しだけ色づき始めた瞬間だった。
二つに割った温かいスコーンに濃厚なクロテッドクリームと自家製の苺ジャムをたっぷり乗せる。湯気の立つアッサムのミルクティーを一口含み、その完璧な組み合わせをゆっくりと味わった。
「……素晴らしいわ」
思わず感嘆の声が漏れる。これこそが至福。これこそがアミュレットの求める日常だった。
食堂に同席した両親はそんな娘を生きた化石でも見るような目で見ていたが、アミュレットは気にしない。父の溜息も母の心配そうな視線も、美味しい朝食の前では些細なことだった。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
朝食の後、公爵邸には弔問客のように次々と貴族たちが訪れた。アミュレットを慰めるため、あるいはただゴシップを嗅ぎつけるため。どちらにせよ面倒なことに変わりはない。
「まあアミュレット様、お可哀想に……」
「クライン公爵家も大変ですな……」
彼らの紋切り型の同情に、アミュレットはただ無表情に会釈を返すだけ。内心では大きなあくびを噛み殺していた。
(ああ、退屈だわ。これなら王妃教育の方がまだましだったかもしれない)
そんな思考が浮かんだことに自分でも驚く。よほど、今の状況は彼女の性に合わないらしい。
「少し、気分転換に出かけてまいります」
昼過ぎ、客足が途絶えた隙を見て、アミュレットは両親にそう告げた。
「一人では危険だ! 護衛を!」
「いいえ、お父様。大事にする必要はありません。侍女のハンナだけ連れて、王都の紅茶専門店に行くだけですわ」
これ以上騒ぎが大きくなるのは御免だった。
結局、最低限の護衛を一人だけ付けるという条件で、彼女の外出は許可された。
久しぶりに乗る、紋章のないシンプルな馬車。アミュレットはそれが心地よかった。
王都の中央広場で馬車を降り、ハンナと護衛騎士を伴って歩き始める。道行く人々がアミュレットの姿に気づき、ひそひそと囁きを交わすのが分かった。昨夜のパーティーの主役だったのだから当然だろう。
「お嬢様、やはり馬車でお店の前まで……」
心配するハンナに、アミュレットは首を横に振る。
「いいのよ。少し歩きたい気分なの」
他人の視線など彼女にとっては無も同然だ。それよりも、久しぶりに自分の足で歩く王都の街並みのほうがよほど興味を引いた。
目的の紅茶専門店でいくつかの新しい茶葉を購入し、近くのベンチで一休みする。
「さて、どうしましょうか」
このまま真っ直ぐ屋敷に帰るのは少し惜しい気がした。せっかく手に入れた自由な時間だ。
「ハンナ。少しだけ、一人で散策しても?」
「め、滅相もございません! 何かあっては大変です!」
「大丈夫よ。すぐに戻るわ。あなたはここで待っていてちょうだい」
アミュレットはそう言うと、有無を言わさぬ足取りで歩き出す。慌ててついてこようとする護衛騎士を手で制した。
「あなたもよ。わたくしが目立つから人が寄ってくるのです。少し離れていなさい」
有無を言わせぬその態度に、騎士は苦い顔で頷くしかなかった。
人混みを抜け、アミュレットは気の向くままに足を運ぶ。大通りから一本外れた道、さらにそこから伸びる細い路地。いつもなら決して通らないような場所に、彼女はなぜか惹きつけられていた。
石畳のその道は、少しひび割れていて、建物の間から差し込む光がまだらに地面を照らしている。王都の喧騒が嘘のように遠ざかり、静かな時間が流れていた。
そして、彼女は一つの建物の前で足を止めた。
それは二階建ての小さな建物だった。煤けたレンガの壁には蔦が絡まり、窓枠のペンキは剥げ落ちている。軒先には錆びた看板がぶら下がっていたが、文字は掠れてほとんど読めない。
おそらく、長いこと使われていない空き店舗なのだろう。
だが、不思議と陰気な印象はなかった。むしろ、長い年月を静かに過ごしてきた老人のような、どこか穏やかで温かい空気を纏っているように感じられた。
「……お店、だったのかしら」
アミュレットは独りごち、古びたガラス窓にそっと手を触れる。
中は埃っぽく、いくつかのテーブルと椅子が乱雑に置かれているのが見えた。カウンターの奥には厨房らしき空間もある。
窓に描かれた、消えかかったカップの絵。
「カフェ……だったのね」
その言葉が、すんなりと胸に落ちた。
なぜだろう。この寂れた建物が、ひどく魅力的に見えた。無駄がなく、誰にも媚びず、ただそこに在る。その姿が、自分と少しだけ重なる気がした。
(ここで、自分だけの時間を過ごせたら)
(誰にも邪魔されず、最高の紅茶を淹れて、静かに本を読む)
そんな光景が、ふと頭に浮かんだ。
アミュレットは、自分でも気づかないうちに、その唇に微かな笑みを浮かべていた。
「悪くないわね」
その呟きは、裏路地の静けさに溶けていった。
彼女の退屈だった日常が、ほんの少しだけ色づき始めた瞬間だった。
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