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「カフェ・ミュレット」が開店してから、一週間が過ぎた。
その間の客は、変わらずゼノン・グレイフォードただ一人。
彼は毎日、任務が終わると律儀にこの裏路地のカフェを訪れた。そして、アミュレットがその日の気分で作ったお茶とお菓子を、至上の喜びといった顔で味わい、短い感謝の言葉を残して帰っていく。
アミュレットにとって、それは悪くない日常だった。
誰にも邪魔されず、自分のためだけに厨房に立つ。新しいレシピを試し、完璧な味を追求する。そして、それを心から美味いと感じてくれる、たった一人の客がいる。経営という観点から見れば落第点だが、彼女の「退屈しのぎ」としては上々だった。
しかし、このあまりに平和な状況に、我慢の限界を迎えている存在がいた。
聖剣アルドゥインである。
その日、ゼノンはアミュレットが試作したばかりの、熱々のアップルパイを堪能していた。キャラメリゼされたリンゴの甘酸っぱさと、サクサクのパイ生地、そして添えられた冷たいアイスクリームの組み合わせは、まさに悪魔的な美味しさだった。
『……ゼノンよ』
ゼノンの脳内に、どこか不満げなアルドゥインの声が響く。
(なんだ。今、集中している。邪魔をするな)
『このままではいかんぞ!』
(何がだ。毎日これほど美味しい菓子が食べられて、何の不満がある)
『否! 断じて否! この神の如き味が、我ら二人だけにしか知られていないなど、あってはならんことだ! これは世界にとっての、いや、全人類にとっての重大な損失である!』
(大袈裟なやつだ)
『それだけではない! 我はもっと見たいのだ! この味を初めて知った人間たちの、驚きと感動に打ち震える顔を! その魂の輝きこそが、我ら聖剣にとって最高の栄養となるのだ!』
要するに、もっと注目されたいし、他人の反応を見て楽しみたい、ということらしい。聖剣の威厳など欠片もない。
ゼノンはアルドゥインの戯言を無視し、最後の一口を名残惜しそうに味わった。
『……ちっ、この朴念仁め。お前が動かぬなら、我が動くまでのこと!』
(おい、何を……)
ゼノンの制止も虚しく、アルドゥインは独断でその力を解放した。
店の外、大通りを歩いていた恰幅のいい商人風の男の脳内に、突如として荘厳な声が響き渡った。
『そこのお主! そう、赤いターバンを巻いたお主だ! その忙しない足を、今すぐ止めるがいい!』
「ひっ!? だ、誰だ!?」
商人は驚いてあたりを見回すが、誰も彼に話しかけた様子はない。
『お主の人生には、まだ味わうべき至福が残されているぞ! このまま通り過ぎるは、あまりに愚か!』
幻聴か、あるいは疲れているのか。商人は首を傾げたが、その声には不思議と逆らえない力があった。
『さあ、恐れるな! その角を曲がり、細い路地へと進むのだ! そこに、お主の運命を変えるパイがある!』
「運命を変える……パイ……?」
商人は、まるで何かに導かれるように、ふらふらと裏路地へと足を踏み入れてしまった。
アルドゥインの客引きは、それだけでは終わらない。
買い物帰りの主婦二人組にも、その声は届けられた。
『おお、か弱き乙女たちよ! 日々の生活に疲れてはおらぬか?』
「きゃっ!」「な、今の声は!?」
『癒しを求めるのなら、我が指し示す光の道へ! そこには、どんな宝石よりも甘美なタルトが、あなた方を待っている!』
二人の主婦は顔を見合わせ、恐怖と好奇心に揺れながらも、ゆっくりと路地へ入っていく。
その結果、静かだった「カフェ・ミュレット」のドアが、立て続けに開かれることになった。
「あ、あのう……」
おずおずと入ってきたのは、商人風の男と、主婦二人組だった。
厨房で片付けをしていたアミュレットは、初めて見る客の顔に、ぴたりと動きを止める。そして、彼女の口から出た第一声は、歓迎の言葉ではなかった。
「……何か?」
そのあまりに無愛想な対応に、三人の客はびくりと肩を震わせる。
(客……? 面倒だわ)
それがアミュレットの偽らざる本音だった。
一方、ゼノンは目の前の光景に愕然としていた。
(アルドゥイン……貴様、本当にやりやがったな……!)
客たちは、あまりの塩対応に帰ろうかとも思ったが、店内にふわりと残る甘い香りに引き留められる。
「あ、あの……何か、温かいものと、甘いものを……いただけませんか」
商人が、勇気を振り絞ってそう言った。
アミュレットは小さく、本当に小さな溜息をつくと、無言で頷いた。
「……コーヒーと、アップルパイでよろしいですね」
やがて、三人の前に、先ほどゼノンが食べていたものと同じアップルパイと、淹れたてのコーヒーが置かれた。
客たちは、無愛想な美人の店主を前に緊張しながらも、恐る恐るパイを口に運ぶ。
そして、次の瞬間。三人の顔が、驚愕と、歓喜と、至福に彩られた。
「なっ……! なんだこれは! 美味い! 美味すぎるぞ!」
「まあ……! こんな美味しいアップルパイ、生まれて初めて食べたわ!」
「天国って、ここのことだったのね……!」
彼らの魂が放つ輝きに、アルドゥインは『ふっふっふ、そうだろうそうだろう』と満足げに頷いている。
アミュレットは、その騒ぎを少し離れた場所から無表情に眺めているだけだった。
その日、店を出た三人は口々に語り合った。「裏路地に、謎の天啓に導かれてたどり着ける店がある」「店主は氷のように美しいが、驚くほど無愛想だ」「しかし、そこ菓子の味は、間違いなく天国の味だ」と。
王都の片隅で、奇妙で魅力的なカフェの噂が、こうして静かに広まり始めたのだった。
その間の客は、変わらずゼノン・グレイフォードただ一人。
彼は毎日、任務が終わると律儀にこの裏路地のカフェを訪れた。そして、アミュレットがその日の気分で作ったお茶とお菓子を、至上の喜びといった顔で味わい、短い感謝の言葉を残して帰っていく。
アミュレットにとって、それは悪くない日常だった。
誰にも邪魔されず、自分のためだけに厨房に立つ。新しいレシピを試し、完璧な味を追求する。そして、それを心から美味いと感じてくれる、たった一人の客がいる。経営という観点から見れば落第点だが、彼女の「退屈しのぎ」としては上々だった。
しかし、このあまりに平和な状況に、我慢の限界を迎えている存在がいた。
聖剣アルドゥインである。
その日、ゼノンはアミュレットが試作したばかりの、熱々のアップルパイを堪能していた。キャラメリゼされたリンゴの甘酸っぱさと、サクサクのパイ生地、そして添えられた冷たいアイスクリームの組み合わせは、まさに悪魔的な美味しさだった。
『……ゼノンよ』
ゼノンの脳内に、どこか不満げなアルドゥインの声が響く。
(なんだ。今、集中している。邪魔をするな)
『このままではいかんぞ!』
(何がだ。毎日これほど美味しい菓子が食べられて、何の不満がある)
『否! 断じて否! この神の如き味が、我ら二人だけにしか知られていないなど、あってはならんことだ! これは世界にとっての、いや、全人類にとっての重大な損失である!』
(大袈裟なやつだ)
『それだけではない! 我はもっと見たいのだ! この味を初めて知った人間たちの、驚きと感動に打ち震える顔を! その魂の輝きこそが、我ら聖剣にとって最高の栄養となるのだ!』
要するに、もっと注目されたいし、他人の反応を見て楽しみたい、ということらしい。聖剣の威厳など欠片もない。
ゼノンはアルドゥインの戯言を無視し、最後の一口を名残惜しそうに味わった。
『……ちっ、この朴念仁め。お前が動かぬなら、我が動くまでのこと!』
(おい、何を……)
ゼノンの制止も虚しく、アルドゥインは独断でその力を解放した。
店の外、大通りを歩いていた恰幅のいい商人風の男の脳内に、突如として荘厳な声が響き渡った。
『そこのお主! そう、赤いターバンを巻いたお主だ! その忙しない足を、今すぐ止めるがいい!』
「ひっ!? だ、誰だ!?」
商人は驚いてあたりを見回すが、誰も彼に話しかけた様子はない。
『お主の人生には、まだ味わうべき至福が残されているぞ! このまま通り過ぎるは、あまりに愚か!』
幻聴か、あるいは疲れているのか。商人は首を傾げたが、その声には不思議と逆らえない力があった。
『さあ、恐れるな! その角を曲がり、細い路地へと進むのだ! そこに、お主の運命を変えるパイがある!』
「運命を変える……パイ……?」
商人は、まるで何かに導かれるように、ふらふらと裏路地へと足を踏み入れてしまった。
アルドゥインの客引きは、それだけでは終わらない。
買い物帰りの主婦二人組にも、その声は届けられた。
『おお、か弱き乙女たちよ! 日々の生活に疲れてはおらぬか?』
「きゃっ!」「な、今の声は!?」
『癒しを求めるのなら、我が指し示す光の道へ! そこには、どんな宝石よりも甘美なタルトが、あなた方を待っている!』
二人の主婦は顔を見合わせ、恐怖と好奇心に揺れながらも、ゆっくりと路地へ入っていく。
その結果、静かだった「カフェ・ミュレット」のドアが、立て続けに開かれることになった。
「あ、あのう……」
おずおずと入ってきたのは、商人風の男と、主婦二人組だった。
厨房で片付けをしていたアミュレットは、初めて見る客の顔に、ぴたりと動きを止める。そして、彼女の口から出た第一声は、歓迎の言葉ではなかった。
「……何か?」
そのあまりに無愛想な対応に、三人の客はびくりと肩を震わせる。
(客……? 面倒だわ)
それがアミュレットの偽らざる本音だった。
一方、ゼノンは目の前の光景に愕然としていた。
(アルドゥイン……貴様、本当にやりやがったな……!)
客たちは、あまりの塩対応に帰ろうかとも思ったが、店内にふわりと残る甘い香りに引き留められる。
「あ、あの……何か、温かいものと、甘いものを……いただけませんか」
商人が、勇気を振り絞ってそう言った。
アミュレットは小さく、本当に小さな溜息をつくと、無言で頷いた。
「……コーヒーと、アップルパイでよろしいですね」
やがて、三人の前に、先ほどゼノンが食べていたものと同じアップルパイと、淹れたてのコーヒーが置かれた。
客たちは、無愛想な美人の店主を前に緊張しながらも、恐る恐るパイを口に運ぶ。
そして、次の瞬間。三人の顔が、驚愕と、歓喜と、至福に彩られた。
「なっ……! なんだこれは! 美味い! 美味すぎるぞ!」
「まあ……! こんな美味しいアップルパイ、生まれて初めて食べたわ!」
「天国って、ここのことだったのね……!」
彼らの魂が放つ輝きに、アルドゥインは『ふっふっふ、そうだろうそうだろう』と満足げに頷いている。
アミュレットは、その騒ぎを少し離れた場所から無表情に眺めているだけだった。
その日、店を出た三人は口々に語り合った。「裏路地に、謎の天啓に導かれてたどり着ける店がある」「店主は氷のように美しいが、驚くほど無愛想だ」「しかし、そこ菓子の味は、間違いなく天国の味だ」と。
王都の片隅で、奇妙で魅力的なカフェの噂が、こうして静かに広まり始めたのだった。
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