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公爵邸に戻ったゼノンは、その夜、初めて安らかな眠りを得た。
聖剣アルドゥインが、明日のスコーンへの期待で満たされ、珍しく静かだったからだ。
一方、アミュレットもまた、自室のベッドで物思いに耽っていた。
(毎日、いらっしゃるのかしら、あの騎士様は)
社交辞令という雰囲気ではなかった。彼のあの真剣な眼差しは本物だろう。
(だとしたら、もう少し居心地の良い空間にしなくては)
埃っぽい店内で、試作品のスコーンを出すのは彼女の美学に反する。どうせやるなら、完璧な環境で、完璧なお茶とお菓子を味わいたい。それがアミュレットの流儀だった。
翌朝、彼女は侍女のハンナに驚くべき命令を下した。
「ハンナ。掃除道具一式と、動きやすい服を用意してちょうだい。それから、あなたも来るのよ」
「は、はい? いったいどちらへ……」
「わたくしの新しいお店へ」
ハンナは、裏路地に連れてこられた瞬間、言葉を失った。目の前には、どう見ても廃屋にしか見えない古びた建物。
「お、お嬢様!? まさか、このような場所を……?」
「ええ、買い取りましたわ。さあ、中に入って。やることはたくさんあるのだから」
アミュレットはためらいなく扉を開ける。昨日よりも濃くなった埃の匂いに、ハンナは顔をしかめた。
「ご自分で掃除をなさるなど、とんでもないことでございます! すぐに使用人を手配いたします!」
「いいのよ、大事にする必要はないわ。それに、自分の城を自分の手で整えるのも、悪くないでしょう?」
アミュレットはそう言うと、持参したエプロンを身につけ、自ら雑巾を手に取った。その姿を見て、ハンナは腰を抜かしそうになりながらも、慌てて主の後を追うのだった。
それから数日間、アミュレットのささやかな城作りが続いた。
窓を磨き、床を掃き、蜘蛛の巣を払う。テーブルや椅子も一つ一つ丁寧に磨き上げた。公爵令嬢のやることとは思えない作業だったが、アミュレットは文句一つ言わず、黙々と手を動かした。その姿は、どこか楽しげですらあった。
厨房の道具もすべて洗い直し、足りないものは王都の市場で匿名で買い揃えた。
すっかり綺麗になった店内で、アミュレットは壁に掛けられた古い店の看板を見つめる。
(陽だまり亭……。良い名前だけれど、わたくしのお店ではないわね)
彼女は新しい木の板を用意させると、そこにシンプルで美しい筆記体の文字を書き込んだ。
『Café Mulet』
自分の名前、アミュレットから取ったその響きが、彼女は気に入った。
そして、その下に小さく『Open』と書き加えた札を用意し、古びたドアノブにそっと掛ける。
これが、彼女の店の、静かな開店の合図だった。
その日の夕刻、約束通り、店のドアがゆっくりと開いた。
「……失礼する」
現れたのは、騎士服をきっちりと着こなしたゼノンだった。彼は、数日前とは見違えるように綺麗になった店内を見回し、少しだけ驚いたように目を見開く。
「……片付いている」
「最低限は。あなた、毎日いらっしゃるのでしょう? 少しは快適な方がよろしいかと思いまして」
カウンターの奥で紅茶の準備をしながら、アミュレットはこともなげに言った。
「さあ、そちらへどうぞ」
促されるまま、ゼノンは磨かれたテーブルにつく。
今日の試作品ですわ、と言ってアミュレットが出したのは、美しい焼き色のついたレモンタルトと、ベルガモットの香りが爽やかなアールグレイティーだった。
ゼノンは息をのむ。タルトの上に乗った艶やかなレモンカードが、夕日を受けてきらりと光った。
『おお……! なんという芸術品! 昨日の素朴なスコーンとはまた違う、洗練された美しさだ!』
脳内で騒ぐアルドゥインを黙らせ、ゼノンはフォークを手に取った。
タルトを一口運ぶ。サクサクの生地、甘酸っぱく滑らかなレモンカード、そしてふんわりと軽いメレンゲ。三つの食感と味が完璧な調和を生み出し、口の中で溶けていく。
(……美味い)
昨日とは違う、爽やかで鮮烈な感動が全身を駆け巡った。
『ゼノンよ! 我は泣きそうだ! この世にこれほどの美味が存在したとは! 生きていてよかった!』
ゼノンは夢中でタルトを味わい、アールグレイティーで口の中をリフレッシュする。その繰り返しは、まさに至福の時間だった。
しかし、その日、ゼノンの後に店のドアを開ける者はいなかった。
次の日も、そのまた次の日も、客はゼノン一人だけ。
アミュレットは特に気にする様子もなく、毎日違う試作品のお茶菓子を作り、ゼノンはそれを至福の表情で味わう。
裏路地の片隅で、世界で一番客の少ないカフェが、ひっそりと営業を始めた。
二人と一振りだけの、奇妙で穏やかな日常が、こうして静かに幕を開けたのだった。
聖剣アルドゥインが、明日のスコーンへの期待で満たされ、珍しく静かだったからだ。
一方、アミュレットもまた、自室のベッドで物思いに耽っていた。
(毎日、いらっしゃるのかしら、あの騎士様は)
社交辞令という雰囲気ではなかった。彼のあの真剣な眼差しは本物だろう。
(だとしたら、もう少し居心地の良い空間にしなくては)
埃っぽい店内で、試作品のスコーンを出すのは彼女の美学に反する。どうせやるなら、完璧な環境で、完璧なお茶とお菓子を味わいたい。それがアミュレットの流儀だった。
翌朝、彼女は侍女のハンナに驚くべき命令を下した。
「ハンナ。掃除道具一式と、動きやすい服を用意してちょうだい。それから、あなたも来るのよ」
「は、はい? いったいどちらへ……」
「わたくしの新しいお店へ」
ハンナは、裏路地に連れてこられた瞬間、言葉を失った。目の前には、どう見ても廃屋にしか見えない古びた建物。
「お、お嬢様!? まさか、このような場所を……?」
「ええ、買い取りましたわ。さあ、中に入って。やることはたくさんあるのだから」
アミュレットはためらいなく扉を開ける。昨日よりも濃くなった埃の匂いに、ハンナは顔をしかめた。
「ご自分で掃除をなさるなど、とんでもないことでございます! すぐに使用人を手配いたします!」
「いいのよ、大事にする必要はないわ。それに、自分の城を自分の手で整えるのも、悪くないでしょう?」
アミュレットはそう言うと、持参したエプロンを身につけ、自ら雑巾を手に取った。その姿を見て、ハンナは腰を抜かしそうになりながらも、慌てて主の後を追うのだった。
それから数日間、アミュレットのささやかな城作りが続いた。
窓を磨き、床を掃き、蜘蛛の巣を払う。テーブルや椅子も一つ一つ丁寧に磨き上げた。公爵令嬢のやることとは思えない作業だったが、アミュレットは文句一つ言わず、黙々と手を動かした。その姿は、どこか楽しげですらあった。
厨房の道具もすべて洗い直し、足りないものは王都の市場で匿名で買い揃えた。
すっかり綺麗になった店内で、アミュレットは壁に掛けられた古い店の看板を見つめる。
(陽だまり亭……。良い名前だけれど、わたくしのお店ではないわね)
彼女は新しい木の板を用意させると、そこにシンプルで美しい筆記体の文字を書き込んだ。
『Café Mulet』
自分の名前、アミュレットから取ったその響きが、彼女は気に入った。
そして、その下に小さく『Open』と書き加えた札を用意し、古びたドアノブにそっと掛ける。
これが、彼女の店の、静かな開店の合図だった。
その日の夕刻、約束通り、店のドアがゆっくりと開いた。
「……失礼する」
現れたのは、騎士服をきっちりと着こなしたゼノンだった。彼は、数日前とは見違えるように綺麗になった店内を見回し、少しだけ驚いたように目を見開く。
「……片付いている」
「最低限は。あなた、毎日いらっしゃるのでしょう? 少しは快適な方がよろしいかと思いまして」
カウンターの奥で紅茶の準備をしながら、アミュレットはこともなげに言った。
「さあ、そちらへどうぞ」
促されるまま、ゼノンは磨かれたテーブルにつく。
今日の試作品ですわ、と言ってアミュレットが出したのは、美しい焼き色のついたレモンタルトと、ベルガモットの香りが爽やかなアールグレイティーだった。
ゼノンは息をのむ。タルトの上に乗った艶やかなレモンカードが、夕日を受けてきらりと光った。
『おお……! なんという芸術品! 昨日の素朴なスコーンとはまた違う、洗練された美しさだ!』
脳内で騒ぐアルドゥインを黙らせ、ゼノンはフォークを手に取った。
タルトを一口運ぶ。サクサクの生地、甘酸っぱく滑らかなレモンカード、そしてふんわりと軽いメレンゲ。三つの食感と味が完璧な調和を生み出し、口の中で溶けていく。
(……美味い)
昨日とは違う、爽やかで鮮烈な感動が全身を駆け巡った。
『ゼノンよ! 我は泣きそうだ! この世にこれほどの美味が存在したとは! 生きていてよかった!』
ゼノンは夢中でタルトを味わい、アールグレイティーで口の中をリフレッシュする。その繰り返しは、まさに至福の時間だった。
しかし、その日、ゼノンの後に店のドアを開ける者はいなかった。
次の日も、そのまた次の日も、客はゼノン一人だけ。
アミュレットは特に気にする様子もなく、毎日違う試作品のお茶菓子を作り、ゼノンはそれを至福の表情で味わう。
裏路地の片隅で、世界で一番客の少ないカフェが、ひっそりと営業を始めた。
二人と一振りだけの、奇妙で穏やかな日常が、こうして静かに幕を開けたのだった。
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