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いつからだろうか。
聖剣アルドゥインに急かされるまでもなく、自分の足がこの裏路地へ自然と向かうようになったのは。
王宮騎士団副団長、ゼノン・グレイフォードは、もはや日課となったカフェへの道を歩きながら、自問自答していた。
最初は、聖剣の命令だった。あの衝撃的なスコーンの味に、やかましい相棒が魅入られたのが始まりだ。
だが、今は違う。
もちろん、アミュレットの作る菓子が絶品であることに変わりはない。彼女の淹れる紅茶は、一日の疲れを芯から癒してくれる。
しかし、理由はそれだけではないことに、ゼノンは気づき始めていた。
厨房に立つ彼女の真剣な横顔。
新しいレシピが上手くいった時に、ほんの僅かに緩む口元。
客の喧騒に、少しだけ面倒そうに細められる紫の瞳。
その一つ一つを、自分が目で追ってしまっているという事実に。
(……いや、俺はただ、ここの静かな雰囲気が気に入っているだけだ)
ゼノンは無理やり自分の心を納得させようとする。
『ふん、朴念仁め。まだ自分の気持ちに気づかぬか。あるいは、気づかぬふりをしているだけか』
脳内で、アルドゥインが呆れたように呟いた。
その日、ゼノンが「カフェ・ミュレット」の前に着いたのは、いつもより少し早い時間だった。店のドアはまだ『Close』の札が掛かっている。
少し待っていようかと辺りを見回した時、店の裏手の方から、微かに人の気配がした。
(誰かいるのか?)
先日のチンピラの一件が脳裏をよぎり、ゼノンは警戒しながら、音を立てずにそっと裏手へ回る。
そして、彼はそこで信じられない光景を目にした。
壁際に、アミュレットがしゃがみ込んでいたのだ。
彼女の足元には、一匹の痩せた子猫がいた。アミュレットは、その子猫の前に置いた小さな皿に、ミルクを注いでやっている。
「……早くお飲みなさい。体が冷えてしまいますよ」
その声は、ゼノンが今まで聞いたことのないほど、優しく穏やかな響きを持っていた。店で聞く、あの平坦で感情の読めない声とは全く違う。
子猫が夢中でミルクを飲むのを、彼女は静かに見守っている。その横顔は、まるで慈母のようだった。
やがて子猫がミルクを飲み干すと、アミュレットはそっと手を伸ばし、その小さな頭を、少しだけ不器用に、一度だけ撫でた。
「……仕方のない子ですね。ほら、もうお行きなさい。明日もまた、ここにいればあげますから」
その瞬間、ゼノンの心臓が、大きく音を立てて跳ねた。
(……これが、彼女の)
これが、あの氷の令嬢の、本当の姿なのか。
誰にも見せない場所で、小さな命に優しさを注ぐ姿。いつもは完璧に整えられている彼女の、ほんの少しだけ無防備な表情。
その全てが、あまりに愛おしいと、そう感じてしまった。
どくん、どくん、と自分の鼓動がうるさい。顔が熱い。
これは、恋だ。
ゼノンは、ついに認めざるを得なかった。自分は、アミュレット・フォン・クラインに惹かれているのだと。
『見たか! 見たかゼノンよ!』
その時、脳内でアルドゥインが、まるで自分の手柄のように大騒ぎを始めた。
『あれこそが! 世に言う『ギャップ萌え』というやつだ! でかしたぞ子猫! お前には後で王宮から最高級の煮干しを取り寄せてやろう!』
(……うるさい)
『さあ、どうなのだゼノン! 今のを見て、何も感じぬとは言わせんぞ! お前はもう、アミュレット殿にベタ惚れなのだ! 素直に認めんか、この朴念仁が!』
ゼノンは、熱くなった顔を隠すように俯いた。アルドゥインの言う通りだった。もはや、ごまかしは効かない。
やがて、アミュレットは立ち上がると、ゼノンの存在に気づかないまま店の中へと入っていった。
しばらくして、ゼノンも気持ちを落ち着かせ、店の正面へと回る。ドアの札が『Open』に変わっていた。
カラン、とベルの音を鳴らして店に入る。
「……いらっしゃいませ」
カウンターの内側に立つアミュレットは、もういつもの彼女に戻っていた。
しかし、ゼノンにはもう、彼女が以前と同じには見えなかった。あの冷たい塩対応の裏に隠された、温かく優しい光が見えるような気がした。
「……何か? わたくしの顔に、今日のメニューでも書いてありますか」
じっと見つめてくるゼノンに、アミュレットが怪訝そうに言った。
「い、いや……何でもない」
慌てて視線を逸らすゼノン。
彼は、自分の恋心を自覚した途端、彼女とまともに顔を合わせることすらできなくなってしまった自分に、内心で深く溜息をつくのだった。
聖剣アルドゥインに急かされるまでもなく、自分の足がこの裏路地へ自然と向かうようになったのは。
王宮騎士団副団長、ゼノン・グレイフォードは、もはや日課となったカフェへの道を歩きながら、自問自答していた。
最初は、聖剣の命令だった。あの衝撃的なスコーンの味に、やかましい相棒が魅入られたのが始まりだ。
だが、今は違う。
もちろん、アミュレットの作る菓子が絶品であることに変わりはない。彼女の淹れる紅茶は、一日の疲れを芯から癒してくれる。
しかし、理由はそれだけではないことに、ゼノンは気づき始めていた。
厨房に立つ彼女の真剣な横顔。
新しいレシピが上手くいった時に、ほんの僅かに緩む口元。
客の喧騒に、少しだけ面倒そうに細められる紫の瞳。
その一つ一つを、自分が目で追ってしまっているという事実に。
(……いや、俺はただ、ここの静かな雰囲気が気に入っているだけだ)
ゼノンは無理やり自分の心を納得させようとする。
『ふん、朴念仁め。まだ自分の気持ちに気づかぬか。あるいは、気づかぬふりをしているだけか』
脳内で、アルドゥインが呆れたように呟いた。
その日、ゼノンが「カフェ・ミュレット」の前に着いたのは、いつもより少し早い時間だった。店のドアはまだ『Close』の札が掛かっている。
少し待っていようかと辺りを見回した時、店の裏手の方から、微かに人の気配がした。
(誰かいるのか?)
先日のチンピラの一件が脳裏をよぎり、ゼノンは警戒しながら、音を立てずにそっと裏手へ回る。
そして、彼はそこで信じられない光景を目にした。
壁際に、アミュレットがしゃがみ込んでいたのだ。
彼女の足元には、一匹の痩せた子猫がいた。アミュレットは、その子猫の前に置いた小さな皿に、ミルクを注いでやっている。
「……早くお飲みなさい。体が冷えてしまいますよ」
その声は、ゼノンが今まで聞いたことのないほど、優しく穏やかな響きを持っていた。店で聞く、あの平坦で感情の読めない声とは全く違う。
子猫が夢中でミルクを飲むのを、彼女は静かに見守っている。その横顔は、まるで慈母のようだった。
やがて子猫がミルクを飲み干すと、アミュレットはそっと手を伸ばし、その小さな頭を、少しだけ不器用に、一度だけ撫でた。
「……仕方のない子ですね。ほら、もうお行きなさい。明日もまた、ここにいればあげますから」
その瞬間、ゼノンの心臓が、大きく音を立てて跳ねた。
(……これが、彼女の)
これが、あの氷の令嬢の、本当の姿なのか。
誰にも見せない場所で、小さな命に優しさを注ぐ姿。いつもは完璧に整えられている彼女の、ほんの少しだけ無防備な表情。
その全てが、あまりに愛おしいと、そう感じてしまった。
どくん、どくん、と自分の鼓動がうるさい。顔が熱い。
これは、恋だ。
ゼノンは、ついに認めざるを得なかった。自分は、アミュレット・フォン・クラインに惹かれているのだと。
『見たか! 見たかゼノンよ!』
その時、脳内でアルドゥインが、まるで自分の手柄のように大騒ぎを始めた。
『あれこそが! 世に言う『ギャップ萌え』というやつだ! でかしたぞ子猫! お前には後で王宮から最高級の煮干しを取り寄せてやろう!』
(……うるさい)
『さあ、どうなのだゼノン! 今のを見て、何も感じぬとは言わせんぞ! お前はもう、アミュレット殿にベタ惚れなのだ! 素直に認めんか、この朴念仁が!』
ゼノンは、熱くなった顔を隠すように俯いた。アルドゥインの言う通りだった。もはや、ごまかしは効かない。
やがて、アミュレットは立ち上がると、ゼノンの存在に気づかないまま店の中へと入っていった。
しばらくして、ゼノンも気持ちを落ち着かせ、店の正面へと回る。ドアの札が『Open』に変わっていた。
カラン、とベルの音を鳴らして店に入る。
「……いらっしゃいませ」
カウンターの内側に立つアミュレットは、もういつもの彼女に戻っていた。
しかし、ゼノンにはもう、彼女が以前と同じには見えなかった。あの冷たい塩対応の裏に隠された、温かく優しい光が見えるような気がした。
「……何か? わたくしの顔に、今日のメニューでも書いてありますか」
じっと見つめてくるゼノンに、アミュレットが怪訝そうに言った。
「い、いや……何でもない」
慌てて視線を逸らすゼノン。
彼は、自分の恋心を自覚した途端、彼女とまともに顔を合わせることすらできなくなってしまった自分に、内心で深く溜息をつくのだった。
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