婚約破棄されたので、とりあえず王太子のことは忘れます!

パリパリかぷちーの

文字の大きさ
26 / 28

26

ジークフリートが離宮を訪れた嵐のような一日から、数週間が過ぎた。
特効薬は順調に量産され、隣国ガルニア王国へと供給が始まり、壊滅状態だったかの国にも、ようやく復興の兆しが見え始めていた。

王国に、そしてリーチュの心に、本当の意味での平穏が戻ってきた。
離宮のテラスで開かれる、リーチュとアシュトンのお茶会も、すっかり以前の穏やかさを取り戻していた。
いや、以前よりもずっと、その空気は甘く、満ち足りたものになっていたが。

しかし、その日のアシュトンは、どこか様子がおかしかった。

「……アシュトン?」

「なんだ」

「今日のこのクッキー、お口に合いませんでしたか? ほとんど手がついていませんけれど」

リーチュが、心配そうに尋ねる。
今日の新作は、ピリリとした黒胡椒を効かせた、チーズクッキーだ。
自信作だったのだが、アシュトンは、いつものように黙々と食べ進めるのではなく、三枚ほど口にしたきり、どこか上の空でハーブティーを啜っている。

「いや、美味い。……いつも通り、美味い」

彼は、そう短く答えるが、その視線は、リーチュの顔と、テーブルの上と、遠い空とを行ったり来たりして、全く落ち着きがない。
何かを言いかけては口ごもり、またハーブティーを飲む。
その姿は、まるで初めて実戦に出る前の、若い新米騎士のようだった。

(本当に、どうしてしまったのかしら……?)

リーチュが、不思議そうに彼を見つめている、その時だった。
アシュトンは、ごとり、と音を立ててティーカップをソーサーに置くと、まるで何かを振り払うかのように、すっくと席を立ったのだ。

そして、彼は、ためらうことなくリーチュの座る椅子の前まで歩み寄ると、驚きに見開かれる彼女の目の前で、騎士が王に忠誠を誓う時のように、厳かに、その場に片膝をついた。

「え……? あ、アシュトン……?」

突然の、あまりに格式張った行動に、リーチュは目を丸くする。
彼が一体、何をしようとしているのか、全く見当もつかない。

アシュトンは、リーチュの、少し土で汚れた指先を、そっと、しかし力強く、その両手で包み込んだ。
そして、いつもは鉄仮面のように無表情な顔に、彼が持ちうる限りの、精一杯の真剣な色を浮かべて、ゆっくりと語り始めた。

「リーチュ。君と出会うまで、俺の世界には、色がなかった」

「……え」

「食事も、風景も、人の感情も、全てが俺にとっては無味乾燥な、ただの記号のようなものだった。俺の人生は、まるで味のしない、ただ熱いだけのお茶のようなものだと思っていたんだ」

彼の、低く、真摯な声が、静かな午後のテラスに響く。

「だが、君が、俺の世界に『味』というものを教えてくれた。君の淹れる苦いお茶、君が作る甘くない菓子、そして……君が隣にいる、この時間。その全てが、俺の味気ない人生に、初めて鮮やかな彩りを与えてくれた」

彼は、そこで一度言葉を切ると、リーチュの瞳を、その灰色の瞳で、真っ直ぐに射抜いた。
その視線は、熱く、そしてどこまでも誠実だった。

「リーチュ。俺の、この味気ない人生に、君という、唯一無二の彩りを、添えてはくれないだろうか」

「……!」

「生涯をかけて、君を守る。君の作る薬草園を、誰にも邪魔させはしない。だから……」

彼は、一瞬、言葉に詰まった。
そして、絞り出すように、最後の言葉を紡いだ。

「毎日、君の淹れたお茶が、飲みたい」

それは、甘い愛の言葉などではなかった。
不器用で、飾り気のない、しかし、彼という人間の全てが込められた、最高のプロポーズだった。

リーチュは、驚きと、喜びと、そして照れくささのあまり、顔を真っ赤に染めていた。
胸がいっぱいで、息が苦しい。
何かを言わなければと思うのに、声が出ない。
彼の大きな手に包まれた自分の手が、かすかに震えているのがわかった。

しばらくの、永遠にも感じられる沈黙。
やがて、リーチュは、溢れそうになる涙をぐっと堪えると、精一杯の、意地悪そうな笑みを浮かべてみせた。

「……仕方ありませんわね」

震える声で、彼女は言った。

「あなたのような味音痴に、毎日まずいお茶を飲まされては、王国騎士団の皆さんが、お気の毒でなりませんもの」

そして、彼女は、最高の笑顔で続けた。

「わたくしが、生涯かけて、世界で一番美味しいお茶を淹れて差し上げますわ。……ですから、アシュトン。その代わり、わたくしの薬草園作りを、生涯、手伝っていただきますからね」

それは、彼女らしい、最高にひねくれていて、そして、最高に愛情のこもった、承諾の返事だった。

「……ああ」

アシュトンは、安堵と、そして、込み上げてくる喜びに、今までに誰一人として見たことのない、優しい、優しい笑顔を見せた。
彼は、リーチュの手を恭しく持ち上げると、その指の甲に、誓うように、そっと口づけを落とした。

その瞬間。
少し離れた庭の茂みの中から、わあっ、という歓声と、盛大な拍手が沸き起こった。
見ると、ハンナをはじめとする離宮の使用人たちが、泣きながら、笑いながら、こちらに手を振っている。

その光景に、二人は顔を見合わせ、幸せそうに笑い合った。
穏やかな午後の陽光が、未来を誓った二人を、どこまでも優しく、祝福するように、包み込んでいた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった

歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。 だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」 追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。 一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。 誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。 「その言葉は、もう翻訳できません」

悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう
恋愛
 王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。  磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。  その中心に、私は立っていた。  ――今日、この瞬間のために。 「エレノア・フォン・リーベルト嬢」  高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。

何もしなかっただけです

希臘楽園
ファンタジー
公爵令嬢であり王太子の婚約者であった私は、「地味だ」という理由で婚約を破棄され、王宮を去った。 それまで私が担っていた役目を、誰も知らないまま。 ――ただ何もしなくなっただけで、すべては静かに崩れていく。 AIに書かせてみた第14弾は、「追放ざまぁ」系の短編。

婚約破棄された悪役令嬢ですが、面倒なので全部放置します

かきんとう
恋愛
 王都の大広間に、どよめきが広がった。  天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を反射し、きらきらと輝いている。その光の中心に立つ私は、妙に他人事のような気分で、その場の空気を眺めていた。 「エレノア・フォン・リーベルト! 私は貴様との婚約をここに破棄する!」  高らかに宣言したのは、第一王子であり私の婚約者でもあったアルベルト殿下だった。  周囲の貴族たちが一斉に息を呑み、次の瞬間には小声のざわめきが連鎖のように広がっていく。  ――ああ、ついに来たのね。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

悪役令嬢に仕立て上げて婚約破棄したあなたへ、最大級のざまぁを贈ります

かきんとう
恋愛
「エレノア・ヴァレンティア公爵令嬢。貴様との婚約を、この場で破棄する!」 王宮の大広間に、第一王子レオンハルト殿下の高らかな声が響き渡った。 祝宴のために集まっていた貴族たちがざわめき、数百の視線が一斉に私へと突き刺さる。 ……ああ、ついに来たのね。 私は静かに目を伏せた。 この瞬間が訪れることを、何度も夢で見てきた。いや、夢というより——予感と言った方が正しい。

「退屈な女だ」と婚約破棄されたので去りましたが、翌日から国政が止まったそうです。え、私はもう存じませんけど?

にたまご
恋愛
公爵令嬢クラーラは、ユリウス王太子殿下に婚約を破棄された。 「退屈な女だ」「何の取り柄もない」と。 否定はしない。 けれど殿下が知らないだけで、通商条約も予算案も外交書簡も、この国の政務の大半を六年間匿名で回していたのは──この「退屈な女」だ。 婚約破棄の翌朝、宰相補佐官のレオンが焼き菓子と四十二件の緊急報告を携えて公爵邸を訪れる。 「貴女がいなくなった王宮は、控えめに申し上げて、地獄です」 ──存じません。私はもう、ただの無職ですので。

婚約破棄ありがとう!と笑ったら、元婚約者が泣きながら復縁を迫ってきました

ほーみ
恋愛
「――婚約を破棄する!」  大広間に響いたその宣告は、きっと誰もが予想していたことだったのだろう。  けれど、当事者である私――エリス・ローレンツの胸の内には、不思議なほどの安堵しかなかった。  王太子殿下であるレオンハルト様に、婚約を破棄される。  婚約者として彼に尽くした八年間の努力は、彼のたった一言で終わった。  だが、私の唇からこぼれたのは悲鳴でも涙でもなく――。