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ジークフリートが離宮を訪れた嵐のような一日から、数週間が過ぎた。
特効薬は順調に量産され、隣国ガルニア王国へと供給が始まり、壊滅状態だったかの国にも、ようやく復興の兆しが見え始めていた。
王国に、そしてリーチュの心に、本当の意味での平穏が戻ってきた。
離宮のテラスで開かれる、リーチュとアシュトンのお茶会も、すっかり以前の穏やかさを取り戻していた。
いや、以前よりもずっと、その空気は甘く、満ち足りたものになっていたが。
しかし、その日のアシュトンは、どこか様子がおかしかった。
「……アシュトン?」
「なんだ」
「今日のこのクッキー、お口に合いませんでしたか? ほとんど手がついていませんけれど」
リーチュが、心配そうに尋ねる。
今日の新作は、ピリリとした黒胡椒を効かせた、チーズクッキーだ。
自信作だったのだが、アシュトンは、いつものように黙々と食べ進めるのではなく、三枚ほど口にしたきり、どこか上の空でハーブティーを啜っている。
「いや、美味い。……いつも通り、美味い」
彼は、そう短く答えるが、その視線は、リーチュの顔と、テーブルの上と、遠い空とを行ったり来たりして、全く落ち着きがない。
何かを言いかけては口ごもり、またハーブティーを飲む。
その姿は、まるで初めて実戦に出る前の、若い新米騎士のようだった。
(本当に、どうしてしまったのかしら……?)
リーチュが、不思議そうに彼を見つめている、その時だった。
アシュトンは、ごとり、と音を立ててティーカップをソーサーに置くと、まるで何かを振り払うかのように、すっくと席を立ったのだ。
そして、彼は、ためらうことなくリーチュの座る椅子の前まで歩み寄ると、驚きに見開かれる彼女の目の前で、騎士が王に忠誠を誓う時のように、厳かに、その場に片膝をついた。
「え……? あ、アシュトン……?」
突然の、あまりに格式張った行動に、リーチュは目を丸くする。
彼が一体、何をしようとしているのか、全く見当もつかない。
アシュトンは、リーチュの、少し土で汚れた指先を、そっと、しかし力強く、その両手で包み込んだ。
そして、いつもは鉄仮面のように無表情な顔に、彼が持ちうる限りの、精一杯の真剣な色を浮かべて、ゆっくりと語り始めた。
「リーチュ。君と出会うまで、俺の世界には、色がなかった」
「……え」
「食事も、風景も、人の感情も、全てが俺にとっては無味乾燥な、ただの記号のようなものだった。俺の人生は、まるで味のしない、ただ熱いだけのお茶のようなものだと思っていたんだ」
彼の、低く、真摯な声が、静かな午後のテラスに響く。
「だが、君が、俺の世界に『味』というものを教えてくれた。君の淹れる苦いお茶、君が作る甘くない菓子、そして……君が隣にいる、この時間。その全てが、俺の味気ない人生に、初めて鮮やかな彩りを与えてくれた」
彼は、そこで一度言葉を切ると、リーチュの瞳を、その灰色の瞳で、真っ直ぐに射抜いた。
その視線は、熱く、そしてどこまでも誠実だった。
「リーチュ。俺の、この味気ない人生に、君という、唯一無二の彩りを、添えてはくれないだろうか」
「……!」
「生涯をかけて、君を守る。君の作る薬草園を、誰にも邪魔させはしない。だから……」
彼は、一瞬、言葉に詰まった。
そして、絞り出すように、最後の言葉を紡いだ。
「毎日、君の淹れたお茶が、飲みたい」
それは、甘い愛の言葉などではなかった。
不器用で、飾り気のない、しかし、彼という人間の全てが込められた、最高のプロポーズだった。
リーチュは、驚きと、喜びと、そして照れくささのあまり、顔を真っ赤に染めていた。
胸がいっぱいで、息が苦しい。
何かを言わなければと思うのに、声が出ない。
彼の大きな手に包まれた自分の手が、かすかに震えているのがわかった。
しばらくの、永遠にも感じられる沈黙。
やがて、リーチュは、溢れそうになる涙をぐっと堪えると、精一杯の、意地悪そうな笑みを浮かべてみせた。
「……仕方ありませんわね」
震える声で、彼女は言った。
「あなたのような味音痴に、毎日まずいお茶を飲まされては、王国騎士団の皆さんが、お気の毒でなりませんもの」
そして、彼女は、最高の笑顔で続けた。
「わたくしが、生涯かけて、世界で一番美味しいお茶を淹れて差し上げますわ。……ですから、アシュトン。その代わり、わたくしの薬草園作りを、生涯、手伝っていただきますからね」
それは、彼女らしい、最高にひねくれていて、そして、最高に愛情のこもった、承諾の返事だった。
「……ああ」
アシュトンは、安堵と、そして、込み上げてくる喜びに、今までに誰一人として見たことのない、優しい、優しい笑顔を見せた。
彼は、リーチュの手を恭しく持ち上げると、その指の甲に、誓うように、そっと口づけを落とした。
その瞬間。
少し離れた庭の茂みの中から、わあっ、という歓声と、盛大な拍手が沸き起こった。
見ると、ハンナをはじめとする離宮の使用人たちが、泣きながら、笑いながら、こちらに手を振っている。
その光景に、二人は顔を見合わせ、幸せそうに笑い合った。
穏やかな午後の陽光が、未来を誓った二人を、どこまでも優しく、祝福するように、包み込んでいた。
特効薬は順調に量産され、隣国ガルニア王国へと供給が始まり、壊滅状態だったかの国にも、ようやく復興の兆しが見え始めていた。
王国に、そしてリーチュの心に、本当の意味での平穏が戻ってきた。
離宮のテラスで開かれる、リーチュとアシュトンのお茶会も、すっかり以前の穏やかさを取り戻していた。
いや、以前よりもずっと、その空気は甘く、満ち足りたものになっていたが。
しかし、その日のアシュトンは、どこか様子がおかしかった。
「……アシュトン?」
「なんだ」
「今日のこのクッキー、お口に合いませんでしたか? ほとんど手がついていませんけれど」
リーチュが、心配そうに尋ねる。
今日の新作は、ピリリとした黒胡椒を効かせた、チーズクッキーだ。
自信作だったのだが、アシュトンは、いつものように黙々と食べ進めるのではなく、三枚ほど口にしたきり、どこか上の空でハーブティーを啜っている。
「いや、美味い。……いつも通り、美味い」
彼は、そう短く答えるが、その視線は、リーチュの顔と、テーブルの上と、遠い空とを行ったり来たりして、全く落ち着きがない。
何かを言いかけては口ごもり、またハーブティーを飲む。
その姿は、まるで初めて実戦に出る前の、若い新米騎士のようだった。
(本当に、どうしてしまったのかしら……?)
リーチュが、不思議そうに彼を見つめている、その時だった。
アシュトンは、ごとり、と音を立ててティーカップをソーサーに置くと、まるで何かを振り払うかのように、すっくと席を立ったのだ。
そして、彼は、ためらうことなくリーチュの座る椅子の前まで歩み寄ると、驚きに見開かれる彼女の目の前で、騎士が王に忠誠を誓う時のように、厳かに、その場に片膝をついた。
「え……? あ、アシュトン……?」
突然の、あまりに格式張った行動に、リーチュは目を丸くする。
彼が一体、何をしようとしているのか、全く見当もつかない。
アシュトンは、リーチュの、少し土で汚れた指先を、そっと、しかし力強く、その両手で包み込んだ。
そして、いつもは鉄仮面のように無表情な顔に、彼が持ちうる限りの、精一杯の真剣な色を浮かべて、ゆっくりと語り始めた。
「リーチュ。君と出会うまで、俺の世界には、色がなかった」
「……え」
「食事も、風景も、人の感情も、全てが俺にとっては無味乾燥な、ただの記号のようなものだった。俺の人生は、まるで味のしない、ただ熱いだけのお茶のようなものだと思っていたんだ」
彼の、低く、真摯な声が、静かな午後のテラスに響く。
「だが、君が、俺の世界に『味』というものを教えてくれた。君の淹れる苦いお茶、君が作る甘くない菓子、そして……君が隣にいる、この時間。その全てが、俺の味気ない人生に、初めて鮮やかな彩りを与えてくれた」
彼は、そこで一度言葉を切ると、リーチュの瞳を、その灰色の瞳で、真っ直ぐに射抜いた。
その視線は、熱く、そしてどこまでも誠実だった。
「リーチュ。俺の、この味気ない人生に、君という、唯一無二の彩りを、添えてはくれないだろうか」
「……!」
「生涯をかけて、君を守る。君の作る薬草園を、誰にも邪魔させはしない。だから……」
彼は、一瞬、言葉に詰まった。
そして、絞り出すように、最後の言葉を紡いだ。
「毎日、君の淹れたお茶が、飲みたい」
それは、甘い愛の言葉などではなかった。
不器用で、飾り気のない、しかし、彼という人間の全てが込められた、最高のプロポーズだった。
リーチュは、驚きと、喜びと、そして照れくささのあまり、顔を真っ赤に染めていた。
胸がいっぱいで、息が苦しい。
何かを言わなければと思うのに、声が出ない。
彼の大きな手に包まれた自分の手が、かすかに震えているのがわかった。
しばらくの、永遠にも感じられる沈黙。
やがて、リーチュは、溢れそうになる涙をぐっと堪えると、精一杯の、意地悪そうな笑みを浮かべてみせた。
「……仕方ありませんわね」
震える声で、彼女は言った。
「あなたのような味音痴に、毎日まずいお茶を飲まされては、王国騎士団の皆さんが、お気の毒でなりませんもの」
そして、彼女は、最高の笑顔で続けた。
「わたくしが、生涯かけて、世界で一番美味しいお茶を淹れて差し上げますわ。……ですから、アシュトン。その代わり、わたくしの薬草園作りを、生涯、手伝っていただきますからね」
それは、彼女らしい、最高にひねくれていて、そして、最高に愛情のこもった、承諾の返事だった。
「……ああ」
アシュトンは、安堵と、そして、込み上げてくる喜びに、今までに誰一人として見たことのない、優しい、優しい笑顔を見せた。
彼は、リーチュの手を恭しく持ち上げると、その指の甲に、誓うように、そっと口づけを落とした。
その瞬間。
少し離れた庭の茂みの中から、わあっ、という歓声と、盛大な拍手が沸き起こった。
見ると、ハンナをはじめとする離宮の使用人たちが、泣きながら、笑いながら、こちらに手を振っている。
その光景に、二人は顔を見合わせ、幸せそうに笑い合った。
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