婚約破棄されましたが、特に問題ありません。

パリパリかぷちーの

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王都をあとにした馬車が、再びヴェルデ辺境領の無骨な砦の門をくぐったのは、それから十数日後のことだった。

「お、お帰りなさいませ!領主様!」

「お帰りなさいませ!ヨミ様!」

出迎えた兵士たちの声は、以前よりも明らかに大きく、そして揃っていた。

だが、その表情は「歓迎」というよりも「畏怖(いふ)」と「緊張」に満ちている。

彼らの視線は、カインとその隣に立つヨミの間を、行ったり来たりしていた。

((領主様が、あの『魔女』様を、正式に、つ、妻に……!?))

((王都で、王子様を完膚なきまでに叩きのめして、帰ってきたそうだ……))

((俺たちの辺境領、これからどうなっちまうんだ……))

「ハンナ!荷解きを!」

ヨミは、そんな兵士たちの視線など一切意に介さず、馬車から飛び降りるなり、指示を飛ばした。

「王都から取り寄せた、新しい魔力測定器!すぐに私の研究室へ!」

「は、はいぃ!お嬢様!」

ハンナも、王都での一件を経て、すっかり逞しくなっていた。

「待て、ヨミ殿」

カインが、ヨミの肩を掴んだ。

「なんですの。機材のセッティングが」

「貴様の研究室は、もう、あそこではない」

「……は?」

カインは、砦の東側、中庭を抜けた先の一等地を、顎(あご)で示した。

そこは、以前はただの空き地だったはずの場所に、真新しい『基礎』が組まれ、多くの作業員たちが慌ただしく働いていた。

「……!」

ヨミの目が、見開かれる。

「あれは……」

「貴様の『研究棟』だ」

カインは、さも当然のように言った。

「王都で、貴様が王子の『解毒薬』を作っている間に、手配させた。設計図は、貴様が前に書き殴っていたメモを元にした」

「……」

「換気(ドラフト)と排水設備は、王都のギルドに最高等級のものを発注済みだ。……これで、契約(・・)通りだな」

「あ……」

ヨミは、その広大な基礎工事の現場を、恍惚(こうこつ)として見つめていた。

(私の……研究棟……!)

(契約(けいやく)……!ああ、なんて、誠実な『取引相手』なのでしょう!)

ヨミは、カインに向き直ると、その無骨な手を、両手でがしりと掴んだ。

「カイン殿!」

「……なんだ」

「あなた、最高ですわ!」

「……」

カインの、万年無表情だった顔が、その直球の(研究者としての)賛辞に、わずかに、本当にわずかに、赤らんだ。

「(きゃー!お嬢様、今のは、ほぼ告白でございますー!)」

ハンナが、機材の木箱の陰で、一人悶絶していた。

---

その夜。

カインの執務室。

カインは、王都から持ち帰った報告書に目を通していた。

体調が万全になった今、彼の政務処理能力は、以前の数倍になっていた。

コンコン。

扉がノックされ、ヨミが入ってきた。

彼女は、研究室(まだ古い方)での作業を終えたのか、いつものスモックではなく、簡素な室内着(ドレス)に着替えている。

「カイン殿。新しい研究棟の、配管図面についてですが」

ヨミは、部屋に入るなり、巨大な図面を机に広げた。

カインは、報告書から顔を上げず、ペンを走らせたまま、答えた。

「それは、明日にしろ。今は、執務中だ」

「ですが、この排水ルートでは、強酸性の廃液を流した場合、将来的に、土壌汚染(データ)が」

「明日だと言っている」

カインの、有無を言わさぬ低い声。

ヨミは、初めて、唇を尖らせて、不満そうに口を閉じた。

(……検体のくせに、生意気ですわ)

カインは、最後の書類にサインをし終えると、ペンを置き、ようやく、顔を上げた。

彼は、椅子に深く座り直し、ヨミを、じっと見つめた。

「……」

「……なんですの」

「ヨミ」

カインが、初めて、彼女を、呼び捨てにした。

「……!」

ヨミの肩が、ピクリと跳ねた。

「お前は、本当に、良かったのか」

カインの目は、真剣だった。

「俺で」

「……?その質問は、王都でも伺いましたが」

「あの時は、公の場だ。だが、今は、違う」

カインは、立ち上がり、窓辺に立つヨミの前に、ゆっくりと歩み寄った。

「お前は、王妃になれた。俺が、あの時、馬鹿な告白(・・)さえしなければ、お前は、考え直していたかもしれない」

「……」

「レオン王子も、謝罪していた。お前の名誉は、回復されたんだ。王都で、王立研究所で、華々しく研究を続ける道もあったはずだ」

「……」

「なのに、なぜ、こんな、何もない最果ての地を、選んだ」

カインの不器用な問いかけは、彼なりの、最大限の『優しさ』だった。

彼は、ヨミが『研究棟』という言葉に目が眩み、人生を誤ったのではないかと、本気で心配していたのだ。

ヨミは、カインの、その真っ直ぐな瞳を、数秒間、見つめ返した。

そして。

彼女は、心の底から、おかしいというように、小さく、噴き出した。

「ふっ……」

「……何がおかしい」

「カイン様」

ヨミは、カインの黒い正装の胸元を、細い指で、ツン、と突いた。

「あなたは、ご自身の『価値』を、何も分かっていらっしゃらない」

「……なんだと?」

「王妃の地位?王都の研究室?……確かに、魅力的ですわ。ですが」

ヨミは、カインの顔を、いたずらっぽく覗き込んだ。

「それら全てを、足し合わせても。あなたの『検体』としての価値には、遠く及びませんわよ?」

「……」

カインの眉間に、シワが寄る。

「私、気づいてしまったのです。王都で、あの『水虫王子』の、単純な毒素を分析していて」

「……」

「物足りない、と」

「……物足りない?」

「ええ。彼の毒は、原因が単純すぎた。解毒も、簡単すぎた。何の『発見』もありませんでしたわ」

ヨミの目が、再び、あの、研究者の狂気を帯びた輝きを取り戻す。

「ですが、あなたは、違いますわ」

「……」

「『瘴気の銀』。この土地の風土病。あなたは、それを、十数年も、その体に宿し、耐え抜いてきた、特異体質」

「……」

「私のポーションは、確かに、一時的に毒を中和しました。ですが、それは『治療』ではない。根本的な『完治』には、至っていないのです」

カインは、彼女が何を言いたいのか、ようやく理解した。

「……まさか、お前」

「ええ」

ヨミは、満面の笑みを浮かべた。

それは、カインが、彼女にプロポーズした時と、全く同じ、恍惚(こうこつ)とした笑顔だった。

「私、新しい研究テーマが、見つかりましたの」

「……」

「あなたという『検体』を、生涯かけて、研究し尽くす。そして、『瘴気の銀』を、この地から、完全に根絶する『完治薬』を、開発する」

ヨミは、カインの胸に、自分の額を、こつん、と当てた。

「私の研究対象として、あなたは、最高傑作ですわ、カイン様」

「……」

カインは、呆れたように、天を仰いだ。

(……こいつは)

(結局、これか)

だが、そのカインの口元は、確かに、笑っていた。

「……好きにしろ」

カインは、そう言うと、ヨミの頭を、大きな手で、わし掴むように、優しく、撫でた。

「俺の全てを、貴様に、くれてやる」
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