婚約破棄されましたが、特に問題ありません。

パリパリかぷちーの

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辺境の砦は、穏やかな、しかし確実に、変わりつつあった。

砦の東側では、ヨミの新しい『研究棟』の建設が、着々と進んでいる。

ヨミは、図面を片手に、現場監督さながらに作業員たちへ指示を飛ばしていた。

「そこ!配管の角度が、設計図とコンマ一度違いますわ!やり直しなさい!」

「ひぃ!た、たったコンマ一度で!?」

「そのわずかな傾斜が、廃液の逆流を招くのです!私の研究を、台無しにする気ですの!?」

「も、申し訳ございません!」

作業員たちは、王都から来た『魔女』であり、今やこの砦の『未来の女主人』であるヨミに、恐怖と尊敬の念を抱きながら、必死で働いていた。

カイン・ヴェルデは、砦の塔の上から、その光景を腕組みしながら眺めていた。

「……領主様。よろしいのですか」

副官が、恐る恐る尋ねる。

「あの『研究棟』。砦の年間予算の、実に三分の二を、既に投入しておりますが」

「構わん」

カインは、即答した。

「あの女の『知識』は、それだけの価値がある。いや、予算の三倍でも、安いぐらいだ」

彼の体調は、もはや万全だ。

ヨミが開発した『スーパー・スッキリ・ポーション(改良版)』を定期的に服用することで、彼は、生まれて初めて、病に怯えることのない日々を送っていた。

(あの女が、俺に『投資』した知識だ。俺も、あの女に『投資』する。それだけのことだ)

カインの視線の先で、ヨミが、新しい薬草のサンプル(兵士が採取してきた)を見て、子供のようにはしゃいでいる。

(……投資、だけか?)

カインは、自分の胸の奥が、あの女を見るたびに、温かくなるのを感じた。

だが、その感情の名前を、彼は、まだ口に出そうとはしなかった。

---

その夜。

ヨミは、まだ完成していない研究棟の、基礎部分に腰掛け、月を眺めていた。

手には、びっしりと数式が書き込まれた、新しい研究ノートが握られている。

(『瘴気の銀』の、分子構造までは、ほぼ解明できた)

(だが、これを、カイン様の体質に、一切の負荷なく、完全に分解する『完治薬』となると……)

(まだ、触媒となる『何か』が足りない)

「……こんな所で、何をしている」

低い声に、ヨミは顔を上げた。

カインが、執務を終え、ヨミを探しに来たようだった。

「カイン様。ちょうどよかった。少し、ご相談が」

「研究棟の予算なら、これ以上は無理だぞ」

「違いますわ。もっと、重要な、学術的な問題です」

ヨミは、立ち上がると、カインの前に立ち、その顔を、真剣な眼差しで、じっと見つめた。

「……なんだ」

カインは、その、あまりにも真っ直ぐな研究者の瞳に、少し、たじろいだ。

「私、この辺境に来て、多くのことを学びました」

「……ああ」

「薬草学、鉱物学、そして、あなたの『毒素』に関する病理学。私の知識は、飛躍的に向上しましたわ」

「それは、結構なことだ」

「ですが」

ヨミは、なぜか、わずかに頬を染め、視線を泳がせた。

「……どうにも、知識が不足している『分野』が、一つだけ、あることに気づいてしまったのです」

「……不足?」

カインは、眉をひそめた。

(この女に、不足している知識だと……?)

「ええ」

ヨミは、意を決したように、カインを見上げた。

「アカデミーでも、座学ばかりで、実践的な講義が、ほとんどなかった分野ですわ」

「……」

「私たちも、近々、正式に『夫婦』となります。ならば、この知識(データ)の不足は、致命的かと」

「……おい、ヨミ。お前、一体、何の話を」

カインの、万年無表情な顔に、初めて、焦りのようなものが浮かんだ。

ヨミは、真面目な顔で、カインに一歩、近づいた。

そして、彼女の研究ノートの、新しいページを、カインに見せつけた。

そこには、大きく、こう書かれていた。

『研究テーマ:媚薬(Aphrodisiac)の化学的考察と、その臨床応用について』

「……」

カイン・ヴェルデは、固まった。

「今度は、『媚薬』の研究ですの」

ヨミは、あくまで、真剣な研究者の顔で、告げた。

「……なっ!?」

カインの顔が、砦の鍛冶場の炉のように、カッと赤く染まった。

「び、び、び、媚薬だと!?」

「ええ。ご存知ですの?古代文献によれば、『月光草』の特定の成分には、神経伝達物質を活性化させ、いわゆる『催淫(さいいん)作用』を……」

「貴様!俺を、モルモットにする気か!」

カインは、思わず、ヨミの両肩を、がしりと掴んだ。

「まあ、失礼ですわね!モルモットではなく、『共同研究者』ですわ!」

ヨミは、カインの赤い顔を、不思議そうに見つめた。

(……検体(カイン)の、体温急上昇を確認。顔面紅潮。これは……『羞恥(しゅうち)』の反応?)

(興味深いですわ……!)

カインは、肩を掴んだまま、震えるヨミ(カインにはそう見えた)を見下ろした。

(こ、こいつ……。こんな、恐ろしいことを、真顔で……!)

だが、カインは、すぐに、ヨミの瞳の奥に、いつもの『研究者の狂気』と、ほんの少しの『好奇心』が混じっていることに、気づいた。

カインは、深く、息を吐いた。

そして。

彼は、その赤い顔のまま、不敵な、獰猛(どうもう)な笑みを、浮かべた。

「……なるほどな。ヨミ」

「……?(反応パターンが、変わりましたわ?)」

「『媚薬』の研究。結構だ」

カインは、ヨミの肩を掴んでいた手を、そのまま、彼女の細い腰に回し、一気に、自分の胸へと引き寄せた。

「きゃあっ!?」

ヨミは、初めて、研究とは関係のない、素の悲鳴を上げた。

「な、何を……!暴力反対ですわ!検体の分際で……!」

「黙れ」

カインは、ヨミの耳元で、低い声で、囁いた。

「研究には、順番がある。まずは、その『薬』とやらが、本当に『必要』かどうか」

「……?」

「それを、確かめるのが、先だろう」

「……確かめる?」

「ああ」

カインは、ヨミの顎(あご)を、そっと持ち上げた。

ヨミの顔も、カインの顔と同じくらい、真っ赤に染まっていた。

((だ、ダメですわ!データが!心拍数が!測定不能(エラー)に!)

((この『毒』は、強すぎる……!)

ヨミは、必死に、最後の抵抗を試みた。

「ふ、ふふ……」

「……?」

「じょ、冗談ですわ!」

「……は?」

「『媚薬』など!そんな、非効率的なものに頼らずとも……!」

ヨミは、震える手で、カインの黒い正装の胸倉を、ぎゅっと掴んだ。

彼女は、カインを睨み上げた。

その瞳は、涙目で、潤んでいたが、その奥には、確かに、カインと同じ『熱』が宿っていた。

「……まずは」

ヨミは、声を振り絞った。

「……あなたのことから、もっと、もっと……」

「……」

「『研究』させてくださいましね。……カイン様」

その言葉は、もはや、研究者のものではなかった。

一人の女の、不器用な、愛の告白だった。

カインは、その顔を見て、心の底から、愛おしそうに、笑った。

「……望む、ところだ」

彼は、ヨミの言葉を、最後まで聞かずに、その唇を、自らのもので、塞いだ。

辺境の砦の、冷たい夜空の下。

新しく建てられる『研究棟』の基礎の上で、二人の、長くて、熱い『共同研究』が、静かに始まった。

婚約破棄から始まった、毒婦令嬢の物語。

彼女が、本当に手に入れたかったのは、王妃の地位でも、名誉でもない。

ただ一つの、自分の研究を理解し、その『毒』ごと、愛してくれる、不器用な男(検体)だけだったのだ。
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