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公爵邸の最上階。
主寝室の重厚な扉が閉ざされた瞬間、そこは外界から隔絶された「密室」となった。
「……ふぅ」
アイザック様は、私をお姫様抱っこしたまま、ベッドの縁に優しく降ろした。
「やっと二人きりになれたな」
彼はネクタイを緩めながら、獲物を追い詰めた狼のような目で私を見下ろした。
その瞳は、シャンデリアの光を反射して怪しく揺らめいている。
「……アイザック様。とりあえず、離れてください」
私はベッドの上でジリジリと後退した。
「なぜだ? 夫婦だぞ」
「近すぎます。酸素濃度が低下しています」
「人工呼吸が必要か?」
「結構です」
私は彼を制し、努めて冷静な口調で提案した。
「さて、本日のスケジュールを確認しましょう。現在は午後10時。疲労も蓄積しています。効率的に入浴を済ませ、速やかに睡眠を取るのが最適解です」
「そうだな。一緒に入ろうか」
「は?」
「効率的だろう? 湯船も一つで済むし、背中も流し合える。水道代と時間の節約だ」
アイザック様はニヤリと笑い、私のドレスの背中の紐に手を掛けた。
「なっ……! 却下します! 風紀が乱れます!」
「夫婦間で風紀も何もない。……ほら、じっとしてろ。その『最強の戦闘服』を解除してやる」
「ひゃっ……!」
彼の手先は器用だった。
複雑な編み上げ紐が、魔法のようにスルスルと解けていく。
コルセットが緩み、私は大きく息を吸い込んだ。
「……ふぅっ」
「いい肌だ。……結婚式の間、他の男たちが君のこの背中を見ていたと思うと、嫉妬でドレスを引き裂きたくなったが」
アイザック様は、露わになった私の肩に、熱い口付けを落とした。
「これからは、俺だけの特権だ」
「……っ」
背筋に電気が走る。
まずい。
このままでは、彼のペースに飲み込まれる。
私は必死に思考を巡らせた。
この空気を変えなければならない。
ロマンチックな雰囲気を破壊し、健全な睡眠へと誘導するための話題は……。
「……そ、そうです、アイザック様!」
私はガバッと振り返り、彼の顔を真っ直ぐに見た。
「ん? なんだ、急に?」
「領地の『下水道整備計画』についてですが!」
「……は?」
アイザック様の手が止まった。
「式の間ずっと考えていたのです。北部の排水管の老朽化が深刻です。早急に予算を組んで、魔導ポンプ式の最新設備に入れ替えるべきかと!」
私は早口でまくし立てた。
新婚初夜のベッドの上で、下水の話をする花嫁。
これで百年の恋も冷めるはずだ。
さあ、引くがいい! 「ムードのない女だ」と呆れて寝るがいい!
しかし。
アイザック様は、きょとんとした後……ふわりと優しく微笑んだ。
「……可愛いな、ローゼンは」
「へ?」
「緊張しているのか? そんなに必死に仕事の話をして、俺を遠ざけようとして」
見抜かれている。
しかも、全く冷めていない。
「ち、違います! 緊急の課題だからです!」
「わかった、わかった。……じゃあ、聞こうか。その下水計画」
「えっ、聞くんですか?」
「ああ。君の話なら、どんな内容でも子守唄より心地いい」
彼はベッドに腰掛け、私を膝の上に引き寄せた。
「さあ、話してくれ。ポンプの出力係数は? 配管の直径は? ……その間、俺は君の耳を甘噛みさせてもらうが」
「……っ!? ひ、非効率的です!」
「マルチタスクだ。君は仕事の話をする。俺は君を愛でる。ウィンウィンだろう?」
「全然ウィンじゃありません……っ! んっ……!」
私が「配管の……材質は……ミスリル合金で……」と説明しようとするたびに、彼が首筋や耳元にキスをする。
思考がまとまらない。
声が震える。
「……あ、アイザック様……くすぐったい……」
「いい声だ。……その声で、予算の話をされると、逆にゾクゾクするな」
「へ、変態……!」
「否定はしない」
アイザック様は私をベッドに押し倒した。
ふかふかの羽毛布団に沈み込む。
上から覆いかぶさる彼の体温と重みが、逃げ場を完全に塞いだ。
「……ローゼン」
彼の瞳が、至近距離で私を捕らえた。
もう、笑っていなかった。
真剣で、熱く、切実な男の目。
「もう、誤魔化すのは終わりだ」
「……うぅ」
「下水の話も、予算の話も、明日の朝いくらでも聞いてやる。……だが今は」
彼の手が、私の頬を撫で、唇をなぞる。
「君の声で、俺の名前を呼んでくれ。……仕事の報告じゃなく、俺を求める声を」
「……無理です。恥ずかしくて死にます」
「死なせない。俺が人工呼吸をする」
彼は有無を言わせず、唇を重ねてきた。
深く、甘く、溶かすようなキス。
頭の中の計算式が、ガラガラと崩れ去っていく。
(……ああ、もう)
抵抗する手が、いつの間にか彼の背中に回っていた。
この男には勝てない。
合理性も、論理も、この圧倒的な「愛」の前では無力だ。
「……んっ……はぁ……」
唇が離れた時、私は酸素不足で荒い息を吐いていた。
アイザック様が、とろんとした目で私を見下ろしている。
「……アイザック……様……」
私が掠れた声で名前を呼ぶと、彼は満足げに喉を鳴らした。
「よくできました。……ご褒美だ」
「……まだするんですか?」
「これからが本番だ。……言っただろう? 朝まで寝かせないと」
「……労働基準法違反です……」
「ここは俺の国(ベッド)だ。法律は俺が決める」
彼は私の寝巻き(になるはずだったドレス)を完全に脱がしにかかった。
肌に触れる空気が冷たいはずなのに、彼の熱で熱くてたまらない。
「……優しくしてくださいね。……修理費(治療費)が高いですから」
私が精一杯の強がり(という名のデレ)を言うと、アイザック様は愛おしそうに私の額にキスをした。
「ああ。……世界で一番、大切に扱うよ。俺の愛しい宝石」
夜は長い。
公爵邸の寝室の灯りが消え、月だけが二人を見守っていた。
下水道計画の話は、結局、翌日の昼過ぎまで持ち越しとなった。
そして翌朝、私が腰を押さえながら食堂に現れた時、使用人たちがニヤニヤしながら「赤飯」を用意していたのは、また別の話である。
主寝室の重厚な扉が閉ざされた瞬間、そこは外界から隔絶された「密室」となった。
「……ふぅ」
アイザック様は、私をお姫様抱っこしたまま、ベッドの縁に優しく降ろした。
「やっと二人きりになれたな」
彼はネクタイを緩めながら、獲物を追い詰めた狼のような目で私を見下ろした。
その瞳は、シャンデリアの光を反射して怪しく揺らめいている。
「……アイザック様。とりあえず、離れてください」
私はベッドの上でジリジリと後退した。
「なぜだ? 夫婦だぞ」
「近すぎます。酸素濃度が低下しています」
「人工呼吸が必要か?」
「結構です」
私は彼を制し、努めて冷静な口調で提案した。
「さて、本日のスケジュールを確認しましょう。現在は午後10時。疲労も蓄積しています。効率的に入浴を済ませ、速やかに睡眠を取るのが最適解です」
「そうだな。一緒に入ろうか」
「は?」
「効率的だろう? 湯船も一つで済むし、背中も流し合える。水道代と時間の節約だ」
アイザック様はニヤリと笑い、私のドレスの背中の紐に手を掛けた。
「なっ……! 却下します! 風紀が乱れます!」
「夫婦間で風紀も何もない。……ほら、じっとしてろ。その『最強の戦闘服』を解除してやる」
「ひゃっ……!」
彼の手先は器用だった。
複雑な編み上げ紐が、魔法のようにスルスルと解けていく。
コルセットが緩み、私は大きく息を吸い込んだ。
「……ふぅっ」
「いい肌だ。……結婚式の間、他の男たちが君のこの背中を見ていたと思うと、嫉妬でドレスを引き裂きたくなったが」
アイザック様は、露わになった私の肩に、熱い口付けを落とした。
「これからは、俺だけの特権だ」
「……っ」
背筋に電気が走る。
まずい。
このままでは、彼のペースに飲み込まれる。
私は必死に思考を巡らせた。
この空気を変えなければならない。
ロマンチックな雰囲気を破壊し、健全な睡眠へと誘導するための話題は……。
「……そ、そうです、アイザック様!」
私はガバッと振り返り、彼の顔を真っ直ぐに見た。
「ん? なんだ、急に?」
「領地の『下水道整備計画』についてですが!」
「……は?」
アイザック様の手が止まった。
「式の間ずっと考えていたのです。北部の排水管の老朽化が深刻です。早急に予算を組んで、魔導ポンプ式の最新設備に入れ替えるべきかと!」
私は早口でまくし立てた。
新婚初夜のベッドの上で、下水の話をする花嫁。
これで百年の恋も冷めるはずだ。
さあ、引くがいい! 「ムードのない女だ」と呆れて寝るがいい!
しかし。
アイザック様は、きょとんとした後……ふわりと優しく微笑んだ。
「……可愛いな、ローゼンは」
「へ?」
「緊張しているのか? そんなに必死に仕事の話をして、俺を遠ざけようとして」
見抜かれている。
しかも、全く冷めていない。
「ち、違います! 緊急の課題だからです!」
「わかった、わかった。……じゃあ、聞こうか。その下水計画」
「えっ、聞くんですか?」
「ああ。君の話なら、どんな内容でも子守唄より心地いい」
彼はベッドに腰掛け、私を膝の上に引き寄せた。
「さあ、話してくれ。ポンプの出力係数は? 配管の直径は? ……その間、俺は君の耳を甘噛みさせてもらうが」
「……っ!? ひ、非効率的です!」
「マルチタスクだ。君は仕事の話をする。俺は君を愛でる。ウィンウィンだろう?」
「全然ウィンじゃありません……っ! んっ……!」
私が「配管の……材質は……ミスリル合金で……」と説明しようとするたびに、彼が首筋や耳元にキスをする。
思考がまとまらない。
声が震える。
「……あ、アイザック様……くすぐったい……」
「いい声だ。……その声で、予算の話をされると、逆にゾクゾクするな」
「へ、変態……!」
「否定はしない」
アイザック様は私をベッドに押し倒した。
ふかふかの羽毛布団に沈み込む。
上から覆いかぶさる彼の体温と重みが、逃げ場を完全に塞いだ。
「……ローゼン」
彼の瞳が、至近距離で私を捕らえた。
もう、笑っていなかった。
真剣で、熱く、切実な男の目。
「もう、誤魔化すのは終わりだ」
「……うぅ」
「下水の話も、予算の話も、明日の朝いくらでも聞いてやる。……だが今は」
彼の手が、私の頬を撫で、唇をなぞる。
「君の声で、俺の名前を呼んでくれ。……仕事の報告じゃなく、俺を求める声を」
「……無理です。恥ずかしくて死にます」
「死なせない。俺が人工呼吸をする」
彼は有無を言わせず、唇を重ねてきた。
深く、甘く、溶かすようなキス。
頭の中の計算式が、ガラガラと崩れ去っていく。
(……ああ、もう)
抵抗する手が、いつの間にか彼の背中に回っていた。
この男には勝てない。
合理性も、論理も、この圧倒的な「愛」の前では無力だ。
「……んっ……はぁ……」
唇が離れた時、私は酸素不足で荒い息を吐いていた。
アイザック様が、とろんとした目で私を見下ろしている。
「……アイザック……様……」
私が掠れた声で名前を呼ぶと、彼は満足げに喉を鳴らした。
「よくできました。……ご褒美だ」
「……まだするんですか?」
「これからが本番だ。……言っただろう? 朝まで寝かせないと」
「……労働基準法違反です……」
「ここは俺の国(ベッド)だ。法律は俺が決める」
彼は私の寝巻き(になるはずだったドレス)を完全に脱がしにかかった。
肌に触れる空気が冷たいはずなのに、彼の熱で熱くてたまらない。
「……優しくしてくださいね。……修理費(治療費)が高いですから」
私が精一杯の強がり(という名のデレ)を言うと、アイザック様は愛おしそうに私の額にキスをした。
「ああ。……世界で一番、大切に扱うよ。俺の愛しい宝石」
夜は長い。
公爵邸の寝室の灯りが消え、月だけが二人を見守っていた。
下水道計画の話は、結局、翌日の昼過ぎまで持ち越しとなった。
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