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王宮からの帰り道、デュクロワ公爵家の紋章が刻まれた馬車の中は、奇妙な沈黙に包まれていた。
カタカタと、車輪が石畳を叩く音だけが、やけに大きく響いている。
「…………」
「…………」
向かいの席に座る侍女のリリーが、泣きそうな、それでいて怒っているような、複雑な表情で、こちらを何度も窺っているのが視界の端に入る。
(言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに)
マーブルは、馬車の窓から外の景色を眺めながら、内心で苦笑した。
リリーは、幼い頃からマーブルに仕える、乳姉妹にも等しい存在だ。主従関係ではあるが、二人きりの時には、砕けた口調になることも多い。
そのリリーが、ここまで押し黙っている。無理もないだろう。
なんせ、彼女の主人は、つい先ほど、国中の貴族たちの前で、王太子殿下から婚約を破棄されたのだから。
「……お嬢様」
沈黙を破ったのは、リリーの方だった。
「何かしら、リリー」
「何かしら、ではございません!とんでもないことになったのですよ!」
ついに、堪忍袋の緒が切れたらしい。リリーが、身を乗り出して詰め寄ってくる。
「あんな……。あんな屈辱的な形で婚約破棄を言い渡されて!お嬢様のお気持ちを考えると、わたくしは……!」
「私の気持ち?」
「はい!きっと、今は気丈に振る舞っておられますが、お部屋にお戻りになったら、枕を濡らして……」
「わたくし、今すぐシャンパンを開けたい気分なのだけれど」
「……はい?」
リリーが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
「だって、考えてもみて。これでようやく、あのうんざりする妃教育から解放されるのよ?毎朝早くから歴史学だの、帝王学だの、紋章学だの……。正直、もう飽き飽きしていたところだわ」
「し、しかし、お嬢様のこれからのご縁談に、差し障りが……」
「あら、それこそ好都合じゃない。あんな愚かな王子の元婚約者、なんていう傷物のわたくしを欲しがる殿方なんて、ろくな相手ではないでしょうし。これからは、自分の好きなように生きられるわ」
きっぱりと言い放つマーブルに、リリーは呆気に取られている。
「……お嬢様は、本当に、よろしいのですか?」
「ええ。わたくし、生まれてから十八年間、ずっと『ジュリアン殿下の婚約者』だった。これからは、ただの『マーブル・デュクロワ』になれるのよ。こんなに晴れ晴れした気分は、初めてだわ」
そう言って微笑むマーブルの顔は、いつになくすっきりとしていて、本当に嬉しそうだった。リリーは、それ以上、何も言えなかった。
やがて馬車は、壮麗なデュクロワ公爵邸の前に到着した。
リリーに手を借りて馬車を降りると、出迎えた執事が、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「お、お嬢様!お早いお帰りで……。その、噂は、本当でございますか……?」
「ええ、本当よ。わたくし、晴れて自由の身となりました」
マーブルがにこやかに言うと、執事はますます顔色を悪くして、「旦那様が、書斎でお待ちでございます……」と、震える声で告げた。
(さて、最後の関門ね)
父、アルマン・デュクロワ公爵。
娘であるマーブルを溺愛しているが、同時に、貴族としての誇りを何よりも重んじる厳格な人物だ。
王家との縁組は、デュクロワ家にとっても悲願だったはず。いくらマーブル自身が良くても、父がどう思うかは、別問題だ。
さすがのマーブルも、少しだけ緊張しながら、重厚な書斎の扉をノックした。
「入れ」
中から、低く、威厳のある声が響く。
マーブルは覚悟を決めて、扉を開けた。
書斎の中央、大きな執務机の向こうに、父アルマンが、厳しい顔で座っていた。その表情からは、感情が一切読み取れない。
「……ただいま戻りました、お父様」
「うむ。……聞いたぞ、マーブル。夜会でのこと」
地を這うような低い声。空気が、張り詰める。
「弁解の言葉は、あるか」
「いいえ。全て、事実でございます」
マーブルは、毅然として父の目を見つめ返した。どんな罰でも、受け入れる覚悟だった。
公爵家の恥として、領地の修道院に送られるかもしれない。それでも、あの王子と結婚するよりは、ずっといい。
アルマンは、娘の顔をしばらく無言で見つめていたが、やがて、重々しく口を開いた。
「……そうか」
ごくり、とマーブルは唾を飲み込む。
次の瞬間。
「――よくやった、マーブル!それでこそ、我が娘だ!!」
アルマンは、ガタリと椅子から立ち上がると、満面の笑みで叫んだ。
「へ……?」
マーブルは、目をぱちくりさせる。
「いやあ、いつかお前が愛想を尽かすとは思っていたが、まさか向こうから破棄してくれるとはな!手間が省けたというものだ!」
そう言うと、アルマンは書斎の隅にある棚から、年代物の高級そうなブランデーのボトルとグラスを取り出した。
「祝杯だ、祝杯!長年の懸案事項が、ようやく片付いた!」
「お、お父様……?よろしいのですか?王家との縁が……」
「あんな愚図な王子と親戚になるなど、こちらから願い下げだ!人の見る目もなく、甘言を弄する女にうつつを抜かすような男に、この国の未来を任せられるか!」
アルマンは、心底愉快そうに笑い飛ばす。
「お前が生まれる前に、先王陛下と交わした約束だったからな。無碍にもできずにいたが……。これでせいせいしたわ!」
そう言って、ブランデーをグラスに注ぎ高々と掲げる。
「マーブル、お前の新たな門出に、乾杯だ!これからは好きに生きなさい。この父が全て許す!」
呆然とする娘に、公爵はウィンクしてみせた。
その豪快な笑顔を見て、マーブルの胸にじわりと温かいものが広がっていく。
ああ、本当に自由になったのだ。
誰にも縛られない、自分の人生が今始まる。
マーブルは、父が差し出してくれたジュースの入ったグラスを手に取りこつんと合わせた。
「ありがとう、お父様」
その夜、マーブルは久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
カタカタと、車輪が石畳を叩く音だけが、やけに大きく響いている。
「…………」
「…………」
向かいの席に座る侍女のリリーが、泣きそうな、それでいて怒っているような、複雑な表情で、こちらを何度も窺っているのが視界の端に入る。
(言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに)
マーブルは、馬車の窓から外の景色を眺めながら、内心で苦笑した。
リリーは、幼い頃からマーブルに仕える、乳姉妹にも等しい存在だ。主従関係ではあるが、二人きりの時には、砕けた口調になることも多い。
そのリリーが、ここまで押し黙っている。無理もないだろう。
なんせ、彼女の主人は、つい先ほど、国中の貴族たちの前で、王太子殿下から婚約を破棄されたのだから。
「……お嬢様」
沈黙を破ったのは、リリーの方だった。
「何かしら、リリー」
「何かしら、ではございません!とんでもないことになったのですよ!」
ついに、堪忍袋の緒が切れたらしい。リリーが、身を乗り出して詰め寄ってくる。
「あんな……。あんな屈辱的な形で婚約破棄を言い渡されて!お嬢様のお気持ちを考えると、わたくしは……!」
「私の気持ち?」
「はい!きっと、今は気丈に振る舞っておられますが、お部屋にお戻りになったら、枕を濡らして……」
「わたくし、今すぐシャンパンを開けたい気分なのだけれど」
「……はい?」
リリーが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。
「だって、考えてもみて。これでようやく、あのうんざりする妃教育から解放されるのよ?毎朝早くから歴史学だの、帝王学だの、紋章学だの……。正直、もう飽き飽きしていたところだわ」
「し、しかし、お嬢様のこれからのご縁談に、差し障りが……」
「あら、それこそ好都合じゃない。あんな愚かな王子の元婚約者、なんていう傷物のわたくしを欲しがる殿方なんて、ろくな相手ではないでしょうし。これからは、自分の好きなように生きられるわ」
きっぱりと言い放つマーブルに、リリーは呆気に取られている。
「……お嬢様は、本当に、よろしいのですか?」
「ええ。わたくし、生まれてから十八年間、ずっと『ジュリアン殿下の婚約者』だった。これからは、ただの『マーブル・デュクロワ』になれるのよ。こんなに晴れ晴れした気分は、初めてだわ」
そう言って微笑むマーブルの顔は、いつになくすっきりとしていて、本当に嬉しそうだった。リリーは、それ以上、何も言えなかった。
やがて馬車は、壮麗なデュクロワ公爵邸の前に到着した。
リリーに手を借りて馬車を降りると、出迎えた執事が、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「お、お嬢様!お早いお帰りで……。その、噂は、本当でございますか……?」
「ええ、本当よ。わたくし、晴れて自由の身となりました」
マーブルがにこやかに言うと、執事はますます顔色を悪くして、「旦那様が、書斎でお待ちでございます……」と、震える声で告げた。
(さて、最後の関門ね)
父、アルマン・デュクロワ公爵。
娘であるマーブルを溺愛しているが、同時に、貴族としての誇りを何よりも重んじる厳格な人物だ。
王家との縁組は、デュクロワ家にとっても悲願だったはず。いくらマーブル自身が良くても、父がどう思うかは、別問題だ。
さすがのマーブルも、少しだけ緊張しながら、重厚な書斎の扉をノックした。
「入れ」
中から、低く、威厳のある声が響く。
マーブルは覚悟を決めて、扉を開けた。
書斎の中央、大きな執務机の向こうに、父アルマンが、厳しい顔で座っていた。その表情からは、感情が一切読み取れない。
「……ただいま戻りました、お父様」
「うむ。……聞いたぞ、マーブル。夜会でのこと」
地を這うような低い声。空気が、張り詰める。
「弁解の言葉は、あるか」
「いいえ。全て、事実でございます」
マーブルは、毅然として父の目を見つめ返した。どんな罰でも、受け入れる覚悟だった。
公爵家の恥として、領地の修道院に送られるかもしれない。それでも、あの王子と結婚するよりは、ずっといい。
アルマンは、娘の顔をしばらく無言で見つめていたが、やがて、重々しく口を開いた。
「……そうか」
ごくり、とマーブルは唾を飲み込む。
次の瞬間。
「――よくやった、マーブル!それでこそ、我が娘だ!!」
アルマンは、ガタリと椅子から立ち上がると、満面の笑みで叫んだ。
「へ……?」
マーブルは、目をぱちくりさせる。
「いやあ、いつかお前が愛想を尽かすとは思っていたが、まさか向こうから破棄してくれるとはな!手間が省けたというものだ!」
そう言うと、アルマンは書斎の隅にある棚から、年代物の高級そうなブランデーのボトルとグラスを取り出した。
「祝杯だ、祝杯!長年の懸案事項が、ようやく片付いた!」
「お、お父様……?よろしいのですか?王家との縁が……」
「あんな愚図な王子と親戚になるなど、こちらから願い下げだ!人の見る目もなく、甘言を弄する女にうつつを抜かすような男に、この国の未来を任せられるか!」
アルマンは、心底愉快そうに笑い飛ばす。
「お前が生まれる前に、先王陛下と交わした約束だったからな。無碍にもできずにいたが……。これでせいせいしたわ!」
そう言って、ブランデーをグラスに注ぎ高々と掲げる。
「マーブル、お前の新たな門出に、乾杯だ!これからは好きに生きなさい。この父が全て許す!」
呆然とする娘に、公爵はウィンクしてみせた。
その豪快な笑顔を見て、マーブルの胸にじわりと温かいものが広がっていく。
ああ、本当に自由になったのだ。
誰にも縛られない、自分の人生が今始まる。
マーブルは、父が差し出してくれたジュースの入ったグラスを手に取りこつんと合わせた。
「ありがとう、お父様」
その夜、マーブルは久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
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