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秘密の取引が成立してから三日後の昼下がり。
マーブルは、自室でそわそわと落ち着きなく過ごしていた。
「……まだかしら」
約束の時間まで、あと半刻(約一時間)ほど。
リリーに手伝ってもらい、すっかり町娘の姿に着替えてはいるものの、どうにも気持ちが浮き足立っている。
「お嬢様、そんなにうろうろしていると、床に穴が開いてしまいますわ」
「だって、リリー!あの氷血公爵との、初めての『お出かけ』なのよ?緊張するなという方が無理だわ!」
「お出かけ、と申しますか……。あれは、取引であり、護衛であり、監視のはずでは……」
「細かいことはいいのよ!」
リリーの的確な指摘を、マーブルは勢いで黙らせる。
今回、リリーは屋敷で留守番だ。アリスティードから「供は不要だ。二人の方が目立たん」と、ご丁寧に手紙で指示があったのだ。
その手紙の文面も、実に彼らしい、簡潔で事務的なものだった。
『本日、鐘が四時を打つ刻。王城南門前の噴水広場にて。遅れるな』
それだけ。まるで部下への指令書だ。
(本当に、可愛げのない人)
そう思いながらも、口元が緩んでしまうのを、マーブルは止められない。
これから始まる、未知の体験。それが、楽しみで仕方なかったのだ。
約束の時刻、きっかりに。
マーブルが噴水広場に到着すると、すでに彼はそこにいた。
壁に寄りかかり、腕を組んで立っている。
今日の彼は、あの物々しい騎士服ではなく、黒を基調とした、飾り気のない平民の服を着ていた。しかし、上質な生地と、そこから滲み出る威圧感は、どうやっても隠しきれていない。
「……あなた、全然お忍べていないわよ」
マーブルは、思わず心の声を漏らした。
「何だと?」
「いえ、独り言ですわ。……それで、本日はどちらへ?」
アリスティードは、まるで任務を開始するかのように、硬い声で尋ねる。
「ふふふ。ついてきてのお楽しみよ」
マーブルは意味深に微笑むと、彼を先導して歩き出した。
目指すは、職人たちが多く住む、少し雑然とした地区。貴族はもちろん、普通の平民もあまり近寄らないような、ディープな場所だ。
「……本当に、こちらで合っているのか」
アリスティードが、不安そうに眉を寄せる。
「失礼ね。わたくしの案内を疑うというの?」
「いや、そうではないが……」
やがて、二人は一軒の古びた建物の前で足を止めた。
『黒猪亭』と書かれた、年季の入った看板がぶら下がっている。中からは、男たちの大きな笑い声や、何かがぶつかるような物騒な音まで聞こえてくる。
アリスティードは、明らかに警戒レベルを引き上げた。
「……酒場、か。昼間から開いているとは、感心せんな」
「まあ、固いこと言わないで。ここの名物料理は、昼にしか食べられない、幻の逸品なのよ」
マーブルは躊躇なく、ギイと音を立てる扉を開けた。
途端に、むわりとした熱気とエールや煮込み料理の匂いが二人を包み込む。
中は薄暗く、屈強な体つきの男たちが木のジョッキを片手に談笑していた。
その視線が、一斉に入り口に立った二人へと注がれる。
アリスティードの全身から、ピリピリとした緊張が発せられているのをマーブルは隣で感じていた。
(あらあら、王国の守護神も、形無しね)
マーブルは面白くなりながら、空いていたカウンター席にずかずかと進み腰を下ろした。
「おやじさん!『猪の角煮込み』、二人前!あと麦のジュースもね!」
「へい、お待ち!」
カウンターの向こうから、髭面のいかつい店主が威勢よく答える。
マーブルは、隣で石像のように固まっているアリスティードの肘をこつんと突いた。
「ほら、あなたも座って。大丈夫よ取って食べられたりはしないから」
「…………」
アリスティードは、無言のまま、汚れた丸椅子に、恐る恐る腰を下ろした。その姿はまるで初めて見る生き物に怯える子供のようだ。
やがて、湯気の立つ陶器の皿が二つの目の前に置かれる。
中には、黒ビールでとろとろになるまで煮込まれた大きな猪肉の塊がごろりと入っていた。
「さあ、どうぞ。熱いうちに」
「…………」
アリスティードは、差し出された木のスプーンを手に取り恐る恐る肉片を口に運んだ。
そして。
そのサファイアの瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
肉は、見た目の武骨さとは裏腹に驚くほど柔らかい。口に入れた瞬間、ほろりと崩れ濃厚な旨味と麦のほのかな苦味がじゅわっと広がる。
(……うまい)
生まれてこの方、口にしてきたどんな高級料理とも違う。素朴で荒々しくて、だが体の芯から力が湧いてくるような滋味深い味わい。
アリスティードは、無言のまま夢中でスプーンを動かし続けた。
その様子を、マーブルは満足げに頬杖をつきながら眺めていた。
「どう?美味しいでしょう?」
「……悪くない」
ぶっきらぼうに答えながらも、彼の口元がほんの少しだけ緩んでいるのをマーブルは見逃さなかった。
この鉄仮面の男の、初めて見る人間らしい表情。
(……なんだか、少し可愛いかもしれないわね)
そんなことを思ってしまい、マーブルは慌てて自分の考えを打ち消した。
こうして、騎士団長の知らない世界を巡る二人の奇妙な遠足の第一回目は大成功のうちに幕を閉じたのだった。
マーブルは、自室でそわそわと落ち着きなく過ごしていた。
「……まだかしら」
約束の時間まで、あと半刻(約一時間)ほど。
リリーに手伝ってもらい、すっかり町娘の姿に着替えてはいるものの、どうにも気持ちが浮き足立っている。
「お嬢様、そんなにうろうろしていると、床に穴が開いてしまいますわ」
「だって、リリー!あの氷血公爵との、初めての『お出かけ』なのよ?緊張するなという方が無理だわ!」
「お出かけ、と申しますか……。あれは、取引であり、護衛であり、監視のはずでは……」
「細かいことはいいのよ!」
リリーの的確な指摘を、マーブルは勢いで黙らせる。
今回、リリーは屋敷で留守番だ。アリスティードから「供は不要だ。二人の方が目立たん」と、ご丁寧に手紙で指示があったのだ。
その手紙の文面も、実に彼らしい、簡潔で事務的なものだった。
『本日、鐘が四時を打つ刻。王城南門前の噴水広場にて。遅れるな』
それだけ。まるで部下への指令書だ。
(本当に、可愛げのない人)
そう思いながらも、口元が緩んでしまうのを、マーブルは止められない。
これから始まる、未知の体験。それが、楽しみで仕方なかったのだ。
約束の時刻、きっかりに。
マーブルが噴水広場に到着すると、すでに彼はそこにいた。
壁に寄りかかり、腕を組んで立っている。
今日の彼は、あの物々しい騎士服ではなく、黒を基調とした、飾り気のない平民の服を着ていた。しかし、上質な生地と、そこから滲み出る威圧感は、どうやっても隠しきれていない。
「……あなた、全然お忍べていないわよ」
マーブルは、思わず心の声を漏らした。
「何だと?」
「いえ、独り言ですわ。……それで、本日はどちらへ?」
アリスティードは、まるで任務を開始するかのように、硬い声で尋ねる。
「ふふふ。ついてきてのお楽しみよ」
マーブルは意味深に微笑むと、彼を先導して歩き出した。
目指すは、職人たちが多く住む、少し雑然とした地区。貴族はもちろん、普通の平民もあまり近寄らないような、ディープな場所だ。
「……本当に、こちらで合っているのか」
アリスティードが、不安そうに眉を寄せる。
「失礼ね。わたくしの案内を疑うというの?」
「いや、そうではないが……」
やがて、二人は一軒の古びた建物の前で足を止めた。
『黒猪亭』と書かれた、年季の入った看板がぶら下がっている。中からは、男たちの大きな笑い声や、何かがぶつかるような物騒な音まで聞こえてくる。
アリスティードは、明らかに警戒レベルを引き上げた。
「……酒場、か。昼間から開いているとは、感心せんな」
「まあ、固いこと言わないで。ここの名物料理は、昼にしか食べられない、幻の逸品なのよ」
マーブルは躊躇なく、ギイと音を立てる扉を開けた。
途端に、むわりとした熱気とエールや煮込み料理の匂いが二人を包み込む。
中は薄暗く、屈強な体つきの男たちが木のジョッキを片手に談笑していた。
その視線が、一斉に入り口に立った二人へと注がれる。
アリスティードの全身から、ピリピリとした緊張が発せられているのをマーブルは隣で感じていた。
(あらあら、王国の守護神も、形無しね)
マーブルは面白くなりながら、空いていたカウンター席にずかずかと進み腰を下ろした。
「おやじさん!『猪の角煮込み』、二人前!あと麦のジュースもね!」
「へい、お待ち!」
カウンターの向こうから、髭面のいかつい店主が威勢よく答える。
マーブルは、隣で石像のように固まっているアリスティードの肘をこつんと突いた。
「ほら、あなたも座って。大丈夫よ取って食べられたりはしないから」
「…………」
アリスティードは、無言のまま、汚れた丸椅子に、恐る恐る腰を下ろした。その姿はまるで初めて見る生き物に怯える子供のようだ。
やがて、湯気の立つ陶器の皿が二つの目の前に置かれる。
中には、黒ビールでとろとろになるまで煮込まれた大きな猪肉の塊がごろりと入っていた。
「さあ、どうぞ。熱いうちに」
「…………」
アリスティードは、差し出された木のスプーンを手に取り恐る恐る肉片を口に運んだ。
そして。
そのサファイアの瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
肉は、見た目の武骨さとは裏腹に驚くほど柔らかい。口に入れた瞬間、ほろりと崩れ濃厚な旨味と麦のほのかな苦味がじゅわっと広がる。
(……うまい)
生まれてこの方、口にしてきたどんな高級料理とも違う。素朴で荒々しくて、だが体の芯から力が湧いてくるような滋味深い味わい。
アリスティードは、無言のまま夢中でスプーンを動かし続けた。
その様子を、マーブルは満足げに頬杖をつきながら眺めていた。
「どう?美味しいでしょう?」
「……悪くない」
ぶっきらぼうに答えながらも、彼の口元がほんの少しだけ緩んでいるのをマーブルは見逃さなかった。
この鉄仮面の男の、初めて見る人間らしい表情。
(……なんだか、少し可愛いかもしれないわね)
そんなことを思ってしまい、マーブルは慌てて自分の考えを打ち消した。
こうして、騎士団長の知らない世界を巡る二人の奇妙な遠足の第一回目は大成功のうちに幕を閉じたのだった。
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