謹んで、婚約破棄をお受けいたします。

パリパリかぷちーの

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黒い噂が、嘘のように静まってきたのは、アリスティードがマーブルへの信頼を公言してから、数日後のことだった。
『氷血公爵が、自らの目で見た真実のみを信じると断言した』
その事実は、彼の部下たちの口を通して、瞬く間に貴族社会に広まった。

あの、何者にも媚びず、己の信義を貫く騎士団長が、そこまで言うのであれば。
もしかしたら、本当にデュクロワ公爵令嬢は無実なのではないか。
そんな空気が、少しずつしかし確実に生まれ始めていた。

「……ふう」

自室の窓辺で、マーブルは小さな革袋に針を通しながらそっと息を吐いた。
彼女の心は、春の日差しのように穏やかで温かい気持ちで満たされていた。

(あの人が、わたくしを信じてくれた……)

思い出すだけで、胸がきゅんとなる。
あの時の、彼の真っ直ぐな瞳。不器用な優しさ。
その全てが傷ついていたマーブルの心を優しく癒してくれたのだ。

「お嬢様、熱心ですわね。何を縫っていらっしゃるのですか?」

紅茶を運んできたリリーが、マーブルの手元を覗き込む。
彼女が作っていたのは、一組の男性用の革手袋だった。

「まあ、手袋?どちらかへ贈られるのですか?」

「ええ。……その、いつもお世話になっている、あの方へ」

マーブルは顔を少し赤らめながら、ぼそりと答える。
『あの方』が誰なのか、リリーにはすぐに分かった。

「アリスティード様へ、ですわね」

「……っ!な、なぜ分かるのよ!」

「ふふふ。お嬢様のお顔にそう書いてありますもの」

リリーは、楽しそうにクスクスと笑う。

信じてくれた彼への、感謝の気持ち。
それを、どうしても形で伝えたかった。何か、彼のためになるものを、自分の手で作りたかったのだ。
彼のことを思い浮かべた時、真っ先に浮かんだのが、その手だった。
いつも厳しい訓練で鍛えられている、ごつごつとして、少し傷のある、大きな手。その手を守る手袋が、少しだけ古びていたのを、マーブルは覚えていたのだ。

刺繍は得意だが、硬い革を縫うのは、初めての経験だった。
何度も針で指を突き、その度にリリーに心配された。
出来上がった手袋は、お世辞にも、売り物のように完璧とは言えない。縫い目は少し歪んでいるし、革の裁断も、僅かにガタガタしているかもしれない。

けれど、一針一針に、マーブルの感謝の気持ちが、ぎゅっと込められていた。

そして、次回の『遠足』の日。
マーブルは、綺麗にラッピングした小箱を胸に抱き、少しだけ緊張しながら、待ち合わせ場所へと向かった。

その日の行き先は、王都を見下ろせる、小高い丘の上だった。
心地よい風が吹き抜け、眼下には、美しい街並みが広がっている。

「わあ……!綺麗……!」

「君が好きかと思ってな」

アリスティードが、ぽつりと言う。
最近の彼は、マーブルの好みそうな場所を、事前に調べておいてくれるようになった。

しばらく、二人で並んで景色を眺める。
穏やかで、幸せな沈黙。
マーブルは、今だ、と意を決して、胸に抱えていた小箱を、彼の前に差し出した。

「……あの、アリスティード様。これを、受け取ってください」

「……?これは?」

「いつも、その……お世話になっている、お礼です。わたくしの我儘に付き合って、守ってくださった……。本当に、感謝しているんです」

アリスティードは、驚いたようにマーブルと小箱を交互に見ると、ゆっくりとそれを受け取った。
丁寧に包装を解くと、中から現れたのは、一組の黒い革手袋だった。

「……手袋か」

「はい。……その、あまり、上手ではないのですけれど……。あなたの手が、いつも傷だらけなのが、気になっていたので」

俯きながら言うマーブル。
アリスティードは、手袋をじっと見つめている。その縫い目の不器用さに、彼女がどれだけ一生懸命作ってくれたのかが、痛いほど伝わってきた。

彼は、何も言わない。
沈黙が、マーブルにはひどく長く感じられた。

(……もしかして、迷惑だったかしら)

手作りのものなど、かえって重い、と思われたのかもしれない。
マーブルが不安になって、彼の顔をそっと窺った、その時だった。

アリスティードの、いつもは固く結ばれている唇が、ふわり、と。
本当に、ごくわずかに、緩んだのを。

「……え?」

それは、笑み、と呼んでいいのかも分からないほどの、ささやかな変化。
だが、彼の鉄仮面しか知らなかったマーブルにとって、その変化は、どんな雄弁な言葉よりも、心を揺さぶった。

「……ありがとう。大切に使う」

そう言って、アリスティードは、古びた自分の手袋を外し、マーブルが作ったばかりの、新しい手袋を、ゆっくりと嵌めた。
少しだけ、不格好な手袋。
けれど、それは驚くほど、彼のごつごつとした大きな手に、ぴったりと馴染んでいた。

アリスティードは、手袋を嵌めた自分の拳を、開いたり、閉じたりしている。その横顔は、どこか、嬉しそうに見えた。
そして、その顔に浮かんだ、本当に一瞬だけの、はにかんだような、優しい笑みを。

マーブルは、見逃さなかった。

(……笑った)

心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。
顔が、りんごのように、真っ赤に染まっていくのが、自分でも分かった。

あの氷血公爵が、自分のために、笑ってくれた。
その事実だけで、マーブルの世界は、祝福の光に満たされたような気がした。

この温かい気持ちの名前を、もう知らないふりはできない。
マーブルは、アリスティードへの想いが、感謝だけではない、もっと甘くて切ない『恋』なのだとはっきりと自覚したのだった。
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