28 / 28
28
しおりを挟む
あれから、一年。
王都には、穏やかな時間が流れていた。
「……うーん、どうも、焦げ目がつきすぎますわね」
ヴァリエ公爵邸の厨房で、一人の女性が、腕を組んで唸っていた。
アリスティードと結婚し、ヴァリエ公爵夫人となったマーブルである。
彼女は、公爵夫人の仕事の傍ら、最近新しい趣味に没頭していた。それは城下町で食べた美味しいお菓子の再現だ。
今日の挑戦は、『ハチミツと木の実のタルト』。
しかし、オーブンの火加減が難しいのか、出来上がったそれは、見事なまでに黒焦げだった。
「あらあら、奥様。また、盛大にやってしまわれましたね」
厨房の料理長が、呆れながらもどこか楽しそうに笑う。
公爵夫人が自ら厨房に立つのも、今では、この屋敷ではすっかりお馴染みの光景となっていた。
「む……。これは、これで香ばしくて美味しいのです!」
負け惜しみを言うマーブルの背後から、すっと大きな影が伸びる。
「何やら、香ばしい匂いがするな」
振り返ると、そこにいたのは騎士団の公務から戻ったばかりの夫のアリスティードだった。
「!あ、あなた!おかえりなさいませ!」
「ただいま。……それは、今日の成果か?」
アリスティードは、黒焦げのタルトを指差して真顔で尋ねる。
マーブルは、うっと言葉に詰まった。
「こ、これは、試作品ですわ!本番はこれからよ!」
「そうか。……だが、俺はこれも嫌いではない」
そう言うと、アリスティードは黒焦げのタルトの欠片を、ひょいとつまんで口に放り込んだ。
そして、ゆっくりと咀嚼する。
「……どう?苦いでしょう?」
マーブルが、おずおずと尋ねる。
アリスティードは、いつも通りの無表情な顔で答えた。
「……悪くない。君が、俺のために作ってくれたものだからな」
その、不器用な愛情表現。
マーブルは、もうその言葉が彼にとって最上級の賛辞であることを知っていた。
「……もう!素直じゃないんだから!」
マーブルは、顔を真っ赤にしながら彼の胸をぽかぽかと叩いた。
アリスティードは、そんな彼女を優しく抱きしめる。
こんな、何気ない温かい日常。
それこそが、二人が共に手に入れたかけがえのない宝物だった。
悪役令嬢、と呼ばれたマーブルの評判は今や完全に過去のものとなった。
今の彼女は、『氷血公爵を、笑顔にさせることができる、唯一の女性』として社交界でも羨望の的となっている。
そして、彼女自身もかつての趣味を活かし、王都の一角に小さな焼き菓子店を開いていた。身分を隠した、ささやかな店だがその味はたちまち評判を呼びいつも多くの人々で賑わっている。
ある晴れた日の午後。
二人は、久しぶりに昔のようにお忍びで城下町を散策していた。
もちろん、今では少し離れた場所をカイン率いる護衛の騎士たちがこっそりと見守っているのだが。
大通りを歩いていると、ふと向かいから見覚えのある人物が歩いてくるのが目に入った。
ジュリアン元王子。
彼は、王位継承権を剥奪された後、今は王宮の書庫を管理するという閑職に就いている。
かつての、傲慢な輝きは完全に消え失せ今はただ疲れた顔で書類の束を抱えているだけだった。
ジュリアンも、二人の存在に気づきびくりと肩を震わせた。
そして、慌てて道の端に寄り深々と頭を下げて二人が通り過ぎるのを待っている。
マーブルは、そんな彼の姿を一瞥した。
そこに、憎しみも哀れみももはやない。
ただ、過去にそんな人間がいたという事実があるだけ。
彼女は、すぐに視線を隣を歩く愛する夫へと戻した。
自分の居場所は、もうここなのだから。
「ねえ、アリスティード」
「なんだ」
「東の地区に、新しく熱々のパイを売るお店ができたそうですわ。……次のお休みにはそこへまいりませんこと?」
マーブルが、悪戯っぽく笑いながら上目遣いに夫を見上げる。
アリスティードは、マーブルがかつて贈ってくれた少しだけ不格好な革の手袋を嵌めた手で、彼女の手を優しく握り返した。
そして、その顔に彼女だけに見せる柔らかな笑みを浮かべて言った。
「無論だ。……君の護衛は、俺の生涯を懸けた最も重要な任務だからな」
その言葉に、マーブルは世界で一番幸せな笑顔で答えた。
悪役令嬢と呼ばれた少女の物語は、ここで終わる。
だが、公爵夫妻の甘くて少しだけ騒がしい幸せな日常はこれからもずっとずっと続いていく。
王都には、穏やかな時間が流れていた。
「……うーん、どうも、焦げ目がつきすぎますわね」
ヴァリエ公爵邸の厨房で、一人の女性が、腕を組んで唸っていた。
アリスティードと結婚し、ヴァリエ公爵夫人となったマーブルである。
彼女は、公爵夫人の仕事の傍ら、最近新しい趣味に没頭していた。それは城下町で食べた美味しいお菓子の再現だ。
今日の挑戦は、『ハチミツと木の実のタルト』。
しかし、オーブンの火加減が難しいのか、出来上がったそれは、見事なまでに黒焦げだった。
「あらあら、奥様。また、盛大にやってしまわれましたね」
厨房の料理長が、呆れながらもどこか楽しそうに笑う。
公爵夫人が自ら厨房に立つのも、今では、この屋敷ではすっかりお馴染みの光景となっていた。
「む……。これは、これで香ばしくて美味しいのです!」
負け惜しみを言うマーブルの背後から、すっと大きな影が伸びる。
「何やら、香ばしい匂いがするな」
振り返ると、そこにいたのは騎士団の公務から戻ったばかりの夫のアリスティードだった。
「!あ、あなた!おかえりなさいませ!」
「ただいま。……それは、今日の成果か?」
アリスティードは、黒焦げのタルトを指差して真顔で尋ねる。
マーブルは、うっと言葉に詰まった。
「こ、これは、試作品ですわ!本番はこれからよ!」
「そうか。……だが、俺はこれも嫌いではない」
そう言うと、アリスティードは黒焦げのタルトの欠片を、ひょいとつまんで口に放り込んだ。
そして、ゆっくりと咀嚼する。
「……どう?苦いでしょう?」
マーブルが、おずおずと尋ねる。
アリスティードは、いつも通りの無表情な顔で答えた。
「……悪くない。君が、俺のために作ってくれたものだからな」
その、不器用な愛情表現。
マーブルは、もうその言葉が彼にとって最上級の賛辞であることを知っていた。
「……もう!素直じゃないんだから!」
マーブルは、顔を真っ赤にしながら彼の胸をぽかぽかと叩いた。
アリスティードは、そんな彼女を優しく抱きしめる。
こんな、何気ない温かい日常。
それこそが、二人が共に手に入れたかけがえのない宝物だった。
悪役令嬢、と呼ばれたマーブルの評判は今や完全に過去のものとなった。
今の彼女は、『氷血公爵を、笑顔にさせることができる、唯一の女性』として社交界でも羨望の的となっている。
そして、彼女自身もかつての趣味を活かし、王都の一角に小さな焼き菓子店を開いていた。身分を隠した、ささやかな店だがその味はたちまち評判を呼びいつも多くの人々で賑わっている。
ある晴れた日の午後。
二人は、久しぶりに昔のようにお忍びで城下町を散策していた。
もちろん、今では少し離れた場所をカイン率いる護衛の騎士たちがこっそりと見守っているのだが。
大通りを歩いていると、ふと向かいから見覚えのある人物が歩いてくるのが目に入った。
ジュリアン元王子。
彼は、王位継承権を剥奪された後、今は王宮の書庫を管理するという閑職に就いている。
かつての、傲慢な輝きは完全に消え失せ今はただ疲れた顔で書類の束を抱えているだけだった。
ジュリアンも、二人の存在に気づきびくりと肩を震わせた。
そして、慌てて道の端に寄り深々と頭を下げて二人が通り過ぎるのを待っている。
マーブルは、そんな彼の姿を一瞥した。
そこに、憎しみも哀れみももはやない。
ただ、過去にそんな人間がいたという事実があるだけ。
彼女は、すぐに視線を隣を歩く愛する夫へと戻した。
自分の居場所は、もうここなのだから。
「ねえ、アリスティード」
「なんだ」
「東の地区に、新しく熱々のパイを売るお店ができたそうですわ。……次のお休みにはそこへまいりませんこと?」
マーブルが、悪戯っぽく笑いながら上目遣いに夫を見上げる。
アリスティードは、マーブルがかつて贈ってくれた少しだけ不格好な革の手袋を嵌めた手で、彼女の手を優しく握り返した。
そして、その顔に彼女だけに見せる柔らかな笑みを浮かべて言った。
「無論だ。……君の護衛は、俺の生涯を懸けた最も重要な任務だからな」
その言葉に、マーブルは世界で一番幸せな笑顔で答えた。
悪役令嬢と呼ばれた少女の物語は、ここで終わる。
だが、公爵夫妻の甘くて少しだけ騒がしい幸せな日常はこれからもずっとずっと続いていく。
911
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(4件)
あなたにおすすめの小説
公爵家の家政を10年回した私が出ていったら、3ヶ月で領地が破綻しました
歩人
ファンタジー
エレナは公爵家に嫁いで10年、夫は愛人に入れ込み、義母には「家政婦代わり」と
罵られた。だが領地の財務も、商会との交渉も、使用人の管理も、全部エレナが
やっていた。ある日、義母から「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言われ、
エレナは静かに離縁届を出した。「では、代わりの方にお任せください」
辺境の町で小さな商会を開いたエレナ。10年間の実務経験は伊達ではなかった。
商会はたちまち繁盛する。一方、エレナがいなくなった公爵家は3ヶ月で経営破綻。
元夫が「戻ってこい」と泣きつくが——
「お断りです。あと、10年分の未払い給金を請求いたしますね」
婚約破棄されたけど、どうして王子が泣きながら戻ってくるんですか?
ほーみ
恋愛
「――よって、リリアーヌ・アルフェン嬢との婚約は、ここに破棄とする!」
華やかな夜会の真っ最中。
王子の口から堂々と告げられたその言葉に、場は静まり返った。
「……あ、そうなんですね」
私はにこやかにワイングラスを口元に運ぶ。周囲の貴族たちがどよめく中、口をぽかんと開けたままの王子に、私は笑顔でさらに一言添えた。
「で? 次のご予定は?」
「……は?」
婚約破棄されたので、前世の知識で無双しますね?
ほーみ
恋愛
「……よって、君との婚約は破棄させてもらう!」
華やかな舞踏会の最中、婚約者である王太子アルベルト様が高らかに宣言した。
目の前には、涙ぐみながら私を見つめる金髪碧眼の美しい令嬢。確か侯爵家の三女、リリア・フォン・クラウゼルだったかしら。
──あら、デジャヴ?
「……なるほど」
私を見下していた婚約者が破滅する未来が見えましたので、静かに離縁いたします
ほーみ
恋愛
その日、私は十六歳の誕生日を迎えた。
そして目を覚ました瞬間――未来の記憶を手に入れていた。
冷たい床に倒れ込んでいる私の姿。
誰にも手を差し伸べられることなく、泥水をすするように生きる未来。
それだけなら、まだ耐えられたかもしれない。
だが、彼の言葉は、決定的だった。
「――君のような役立たずが、僕の婚約者だったことが恥ずかしい」
悪役令嬢ですが、今日も元婚約者とヒロインにざまぁされました(なお、全員私を溺愛しています)
ほーみ
恋愛
「レティシア・エルフォード! お前との婚約は破棄する!」
王太子アレクシス・ヴォルフェンがそう宣言した瞬間、広間はざわめいた。私は静かに紅茶を口にしながら、その言葉を聞き流す。どうやら、今日もまた「ざまぁ」される日らしい。
ここは王宮の舞踏会場。華やかな装飾と甘い香りが漂う中、私はまたしても断罪劇の主役に据えられていた。目の前では、王太子が優雅に微笑みながら、私に婚約破棄を突きつけている。その隣には、栗色の髪をふわりと揺らした少女――リリア・エヴァンスが涙ぐんでいた。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
「身分が違う」って言ったのはそっちでしょ?今さら泣いても遅いです
ほーみ
恋愛
「お前のような平民と、未来を共にできるわけがない」
その言葉を最後に、彼は私を冷たく突き放した。
──王都の学園で、私は彼と出会った。
彼の名はレオン・ハイゼル。王国の名門貴族家の嫡男であり、次期宰相候補とまで呼ばれる才子。
貧しい出自ながら奨学生として入学した私・リリアは、最初こそ彼に軽んじられていた。けれど成績で彼を追い抜き、共に課題をこなすうちに、いつしか惹かれ合うようになったのだ。
婚約破棄?はい、どうぞお好きに!悪役令嬢は忙しいんです
ほーみ
恋愛
王国アスティリア最大の劇場──もとい、王立学園の大講堂にて。
本日上演されるのは、わたくしリリアーナ・ヴァレンティアを断罪する、王太子殿下主催の茶番劇である。
壇上には、舞台の主役を気取った王太子アレクシス。その隣には、純白のドレスをひらつかせた侯爵令嬢エリーナ。
そして観客席には、好奇心で目を輝かせる学生たち。ざわめき、ひそひそ声、侮蔑の視線。
ふふ……完璧な舞台準備ね。
「リリアーナ・ヴァレンティア! そなたの悪行はすでに暴かれた!」
王太子の声が響く。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
ふぅ〜〜~一気に読んでしまいました!楽しかったです😊
こんにちは。ランキングで見つけまして、とても面白くて、一気に読み切りました!!長編とありましたが、本当に面白くて、ハラハラしながら全く長編を感じさせない内容でたまらなかったです✨✨
完結まで一気に読めるのもとても嬉しいです。素敵な作品をありがとうございました🥰