スパイ令嬢は婚約破棄されたい! 王子が甘すぎて任務になりません!

パリパリかぷちーの

文字の大きさ
6 / 28

6

しおりを挟む
「……ミミズの次は、灌漑治水ですか。バルマ王国の農業の未来は明るいですね、アーニー」

翌朝、自室。セシルの声はもはや、冷たさを通り越して無機質な機械のようだった。
私はと言えば、昨日殿下と一緒に眺めた「ミミズの断面図」が夢にまで出てきて、少しばかり寝不足である。

「違うのよセシル。私はただ、殿下を無視して嫌われようとしただけで……」

「結果として王子の向上心を爆発させ、国益に貢献した。スパイとしてこれ以上の屈辱はありません。本国からは『お前はバルマ王国の回し者か』という、大変名誉な疑惑の通信が届いていますよ」

「ひっ……! 冗談抜きで干し肉どころか命が危ないわ!」

私はガタガタと震えながら、セシルの足元に縋りついた。
このままでは、私は帝国軍のスパイとしてではなく、バルマ王国の「慈愛の聖女」として歴史に名を刻んでしまう。
それだけは何としても避けなければならない。

「……安心しなさい。次の作戦は、どれほどお花畑な脳内を持つ王子でも、決して笑って許せないものです。これこそが、貴族社会における最大のタブー……『不貞』です」

セシルの口から飛び出した物騒な単語に、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。

「ふ、不貞!? 浮気をするっていうの!? 相手は誰よ!?」

「本国から、演技派の若手スパイを一人呼び寄せました。コードネームは『ハンス』。彼は今、庭園の東屋で『あなたの真実の恋人』として待機しています」

セシルの指差す先には、確かに見慣れない、しかしなかなかに整った顔立ちの青年が立っていた。
作戦はこうだ。
私がハンスと親密そうに寄り添い、愛を囁き合っている現場を王子に目撃させる。
いかに愛が深くとも、婚約者が別の男と密会していれば、流石に王子も激怒し、婚約を破棄するだろうという算段だ。

「……わかったわ。これが、本当の本当に最後の手ね」

私は覚悟を決め、東屋へと向かった。
内心では「殿下以外の男の人とくっつくなんて、たとえ芝居でも嫌だわ!」という乙女心が叫んでいたが、干し肉と命のためである。我慢するしかない。

「あ、あなたがハンスさんね? よろしくお願いするわ」

「はっ! アーニー様、お噂はかねがね……! あ、いや、恋人役でしたね。ええと……ああ、愛しのアーニー、君に会いたくて、僕は国境を越えてやってきたよ……(棒読み)」

「……ちょっと、ハンス。もう少し感情を込めなさいよ。それじゃ、ただの不法入国者じゃない」

「すみません、緊張してしまって。王子の婚約者を口説くなんて、バレたら即刻首が飛ぶ任務ですから……」

ハンスはガタガタと震えながら、私の肩に手を置いた。
その様子は、恋仲というよりは、借金の取り立てに怯える債務者のようだった。
しかし、私たちはプロのスパイだ。
遠くにアルフレッド殿下のプラチナブロンドが見えた瞬間、私は一気に「不実な女」のスイッチを入れた。

「ああ! ハンス! 私、もう殿下の甘ったるい言葉には飽き飽きしてしまいましたわ! 私が本当に愛しているのは、貴方だけですの!」

私はわざとらしくハンスの胸に飛び込んだ。
ハンスも震える腕で私を抱きしめる。
よし、殿下がこちらに気づいた。足音が近づいてくる。

(さあ、来なさい殿下! 裏切られた怒りに震え、私を罵り、この国から叩き出して!)

私は目を閉じ、王子の怒号を待った。
しかし、聞こえてきたのは、いつものように穏やかで、そしてどこか「感銘を受けた」ような声だった。

「……素晴らしい。なんて胸を打つ光景なんだ」

「……えっ?」

私はハンスの腕の中から顔を上げた。
そこには、怒り狂うどころか、感動のあまり目元を潤ませているアルフレッド殿下が立っていた。

「で、殿下!? ご覧になっていなくて!? 私、このハンスさんと愛し合っておりますのよ!? 貴方なんて、もう眼中にありませんの!」

私は必死にハンスの腕を自分に巻き付けた。
殿下は深く頷くと、一歩、また一歩と私たちに近づいてくる。

「わかっているよ、アーニー。君はまた、僕のためにこんな大掛かりな仕掛けを……。ああ、なんて慈悲深いんだ」

「……はぁ? 仕掛け? 慈悲深い?」

「彼は、帝国から逃れてきた『身寄りのない貧しい青年』だろう? セシルから聞いたよ。君は彼を救うために、あえて『不実な女』という汚名を被ってまで、彼をこの王宮に招き入れ、仕事を与えようとしているんだね」

「セシルぅぅぅ!?」

私は背後で無表情に控えているセシルを睨みつけた。
彼女は平然とした顔で「あ、言ってませんでしたっけ」と小声で呟いた。
どうやらセシルは、王子に対して「アーニー様は最近、身寄りのない若者の支援に熱心でして」と、あらかじめ予防線を張っていたらしい。

「君は、彼が緊張して周囲に馴染めないのを心配して、あえて『自分と親しいフリ』をさせることで、王宮内での彼の地位を確立してあげようとしたんだね。……自分の評価が下がることも厭わずに」

殿下はハンスの手を力強く握りしめた。

「君、いい主人を持ったね。アーニーの期待に応えるべく、精一杯励むんだよ。彼女の優しさを無駄にしないためにも」

「は、はひっ! 精一杯、励みます!」

ハンスは殿下の覇気に押され、全力で敬礼した。
もう「恋人」の雰囲気は微塵もない。ただの、やる気に満ちた新入り使用人である。

「アーニー、君の『慈愛の精神』には、いつも驚かされるよ。不貞を装ってまで弱者を救おうとするなんて、君はもう、聖女を通り越して女神のようだ」

「ち、違いますわ殿下! 私は、本気で浮気を……!」

「いいんだ。君のその、照れ隠しで悪女を演じる癖は、もう十分に理解している。……さあ、彼に仕事の手配をしてこよう。君が目をかけた青年だ、僕の直属の護衛見習いにしよう」

「……えええ!?」

こうして、本国から送り込まれた演技派スパイのハンスは、あろうことか「王子の直属の部下」として、バルマ王国の重要拠点に正式に配属されることになった。
スパイを送り込むという意味では大成功だが、私の「婚約破棄」という意味では、最悪の、これ以上ないほどの大失敗である。

通信機から、セシルの深い溜息が聞こえる。
『アーニー。おめでとうございます。ハンスは先ほど、王子の高潔さに心打たれ、本気でこの国に骨を埋める覚悟を決めたそうです。スパイの離反を招くなんて、流石ですね』

「そんなぁぁぁ……!」

私は、ハンスを連れて意気揚々と歩いていく王子の背中を見つめながら、その場に崩れ落ちた。
私の「不貞」は、いつの間にか「崇高な慈善活動」として、王宮中の語り草になろうとしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―

喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。 そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。 二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。 最初は手紙も返ってきていたのに、 いつからか音信不通に。 あんなにうっとうしいほど構ってきた男が―― なぜ突然、私を無視するの? 不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、 突然ルイスが帰還した。 ボロボロの身体。 そして隣には――見知らぬ女。 勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、 私の中で何かが壊れた。 混乱、絶望、そして……再起。 すがりつく女は、みっともないだけ。 私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。 「私を簡単に捨てられるとでも? ――君が望んでも、離さない」 呪いを自ら解き放ち、 彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。 すれ違い、誤解、呪い、執着、 そして狂おしいほどの愛―― 二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。 過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!

ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」 それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。 挙げ句の果てに、 「用が済んだなら早く帰れっ!」 と追い返されてしまいました。 そして夜、屋敷に戻って来た夫は─── ✻ゆるふわ設定です。 気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。

彼は亡国の令嬢を愛せない

黒猫子猫
恋愛
セシリアの祖国が滅んだ。もはや妻としておく価値もないと、夫から離縁を言い渡されたセシリアは、五年ぶりに祖国の地を踏もうとしている。その先に待つのは、敵国による処刑だ。夫に愛されることも、子を産むことも、祖国で生きることもできなかったセシリアの願いはたった一つ。長年傍に仕えてくれていた人々を守る事だ。その願いは、一人の男の手によって叶えられた。 ただ、男が見返りに求めてきたものは、セシリアの想像をはるかに超えるものだった。 ※同一世界観の関連作がありますが、これのみで読めます。本シリーズ初の長編作品です。 ※ヒーローはスパダリ時々ポンコツです。口も悪いです。

【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました

よどら文鳥
恋愛
 ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。  ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。  ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。  更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。  再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。  ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。  後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。  ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

王太子妃専属侍女の結婚事情

蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。 未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。 相手は王太子の側近セドリック。 ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。 そんな二人の行く末は......。 ☆恋愛色は薄めです。 ☆完結、予約投稿済み。 新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。 ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。 そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 よろしくお願いいたします。

【完結】ドアマットに気付かない系夫の謝罪は死んだ妻には届かない 

堀 和三盆
恋愛
 一年にわたる長期出張から戻ると、愛する妻のシェルタが帰らぬ人になっていた。流行病に罹ったらしく、感染を避けるためにと火葬をされて骨になった妻は墓の下。  信じられなかった。  母を責め使用人を責めて暴れ回って、僕は自らの身に降りかかった突然の不幸を嘆いた。まだ、結婚して3年もたっていないというのに……。  そんな中。僕は遺品の整理中に隠すようにして仕舞われていた妻の日記帳を見つけてしまう。愛する妻が最後に何を考えていたのかを知る手段になるかもしれない。そんな軽い気持ちで日記を開いて戦慄した。  日記には妻がこの家に嫁いでから病に倒れるまでの――母や使用人からの壮絶な嫌がらせの数々が綴られていたのだ。

処理中です...