5 / 28
5
しおりを挟む
「……おはようございます、バルマ王国の生ける伝説。もとい、歩く愛の電波塔」
翌朝、自室のベッドで目を覚ました私を待っていたのは、冷え切った紅茶と、さらに冷え切ったセシルの視線だった。
私は昨夜の記憶がフラッシュバックし、再び枕に顔を埋めた。
「殺して……。いっそ殺してセシル……。殿下に『押し倒されたい』なんて電波を送ったスパイなんて、組織の面汚しもいいところだわ……」
「殺しませんよ、手間が増えるだけです。それよりも、本国から緊急の通信が入りました。『お前の恋路はどうでもいいから、一回くらいは王子を本気で怒らせろ』だそうです」
「……本国も私の体たらくに気づき始めてるのね」
私は這い上がるようにして起き上がった。
セシルは鏡の前で私の髪を整えながら、淡々とした口調で次の作戦を告げる。
「いいですか、アーニー。これまではあなたが『何かをする』から、王子の超常的なポジティブフィルターに変換されてしまったのです。ならば、次は『何もしない』。これに尽きます」
「何もしない……?」
「ええ。徹底的な『無視』です。彼が話しかけても生返事。彼が近づいても読書に没頭。どれだけ愛されていると自惚れている王子でも、存在そのものを否定され続ければ、流石にプライドが傷つき、あなたを疎ましく思うはずです」
セシルの言葉に、私は目から鱗が落ちる思いだった。
そうだ。私が何かを仕掛けるから、彼はそれを「愛の裏返し」だと解釈してしまうのだ。
存在を無視する冷淡な女――。それこそ、悪役令嬢の真骨頂ではないか。
「わかったわ、セシル。今日こそ私は、氷の彫刻になるわ! 殿下がどれだけ甘い言葉を囁こうと、私は一文字も聞き取らない!」
数時間後、王宮のサンルーム。
私は約束通り、アルフレッド殿下の隣に座っていた。
しかし、今日の手には一冊の分厚い本。タイトルは『バルマ王国における土壌の変遷とミミズの生態について』。
これ以上ないほど色気のない本を、私は一心不乱に読み耽るフリをした。
「アーニー、見てごらん。君のために珍しい青いラナンキュラスを用意したんだ。花言葉は『晴れやかな魅力』。まさに今の君のことだね」
殿下が隣から、ふわりと花の香りを漂わせて囁いてくる。
いつもなら「まあ、素敵!」と飛びついて、そのまま彼の胸にダイブするところだが、今日の私は違う。
「……はぁ。土壌の三層構造が……」
「アーニー? 聞こえているかな? 今日は風が心地いいから、後で馬車を出して湖まで行かないかい?」
殿下が私の顔を覗き込もうとする。
私はあえて視線を本に固定したまま、冷たく言い放った。
「……ミミズの生息密度が……。……あ、何かおっしゃいました? 今、非常に重要な『土』の勉強をしていますの。お静かにお願いしますわ」
よし! 言ったわ!
王子様を「お静かに」と一蹴する公爵令嬢。
これは流石に、傲慢不遜の極みでしょう!
殿下は一瞬、絶句したように黙り込んだ。
……そうよ。怒りなさい。呆れなさい。
「本よりも僕を優先できない女など、王妃に相応しくない」と、その冷たい口を動かすがいいわ!
しかし、数分の沈黙のあと、聞こえてきたのは「クスクス」という忍び笑いだった。
「……っ、ふふ。あははは! ああ、ごめんよアーニー。まさかそこまでだとは思わなかった」
「……なんですの? 何がおかしいんですの?」
私は思わず本から顔を上げてしまった。
すると、殿下は愛おしそうに私の目尻に指を這わせた。
「君は、僕たちの将来をそこまで真剣に考えてくれていたんだね。……感動したよ」
「……は?」
「この国の農業の基盤である『土壌』、そして『ミミズ』。一見、地味で貴族が目を向けないような場所にこそ、国力の源泉がある。……君は、僕が王位を継いだあと、内助の功としてこの国を支えるために、あえて自分を律して学びに没頭しているんだろう?」
殿下は私の手から本をそっと取り上げ、胸に抱きしめた。
その瞳には、熱い涙さえ浮かんでいる。
「僕がデートに誘って、君の心を乱してしまったね。すまない。君のその『求道者』のような姿勢……。遊びを断ち切り、愛する人との時間さえ犠牲にして国を思うその姿こそ、真の聖女だ」
「ち、違いますわ! 私はただ、殿下を無視したくて、適当にそこらへんにあった本を……!」
「いいんだ、隠さなくて。君はいつも『悪役』を演じることで、自分の功績を隠そうとする。……今の冷たい態度も、僕が君に甘えすぎないようにするための『試練』なんだろう? 自立した王と王妃になるための……孤独な愛のトレーニングだね!」
殿下はガタッと椅子を立ち上がると、私の両肩を掴んで宣言した。
「わかったよ、アーニー! 僕も君に負けていられない。君がミミズを学ぶなら、僕は灌漑治水を極めてみせる! 僕たちが手を取り合えば、この国は歴史上もっとも豊かな実りを迎えるはずだ!」
「……で、殿下ぁ……」
ダメだ。この人、無敵すぎる。
「無視」すらも「高度な教育的配慮」として処理されてしまった。
私の冷淡な態度は、いつの間にか「国を憂う高潔な精神」にランクアップしている。
通信機から、セシルの呪詛のような声が漏れる。
『アーニー……。あなたのせいで、王子の趣味が「治水」になりました。次は何をしますか? いっそ王宮の壁でも殴りますか?』
「……殿下。あの、ミミズの本、返してくださいまし……」
「ああ! 共に学ぼう、アーニー! 君が土を語り、僕が水を語る。なんてロマンチックな午後なんだ!」
殿下と並んでミミズの図解を眺めることになった私の午後は、ちっとも冷たくなかった。
むしろ、殿下の熱弁によって、サンルームの温度は昨日よりも上昇している気がする。
スパイとしての私のプライドは、今やバルマ王国の豊かな土壌の一部として、ミミズに分解されようとしていた。
帰りたい。でも、このキラキラした笑顔の隣から離れる方法を、私はもう、一つも思いつけないのだった。
翌朝、自室のベッドで目を覚ました私を待っていたのは、冷え切った紅茶と、さらに冷え切ったセシルの視線だった。
私は昨夜の記憶がフラッシュバックし、再び枕に顔を埋めた。
「殺して……。いっそ殺してセシル……。殿下に『押し倒されたい』なんて電波を送ったスパイなんて、組織の面汚しもいいところだわ……」
「殺しませんよ、手間が増えるだけです。それよりも、本国から緊急の通信が入りました。『お前の恋路はどうでもいいから、一回くらいは王子を本気で怒らせろ』だそうです」
「……本国も私の体たらくに気づき始めてるのね」
私は這い上がるようにして起き上がった。
セシルは鏡の前で私の髪を整えながら、淡々とした口調で次の作戦を告げる。
「いいですか、アーニー。これまではあなたが『何かをする』から、王子の超常的なポジティブフィルターに変換されてしまったのです。ならば、次は『何もしない』。これに尽きます」
「何もしない……?」
「ええ。徹底的な『無視』です。彼が話しかけても生返事。彼が近づいても読書に没頭。どれだけ愛されていると自惚れている王子でも、存在そのものを否定され続ければ、流石にプライドが傷つき、あなたを疎ましく思うはずです」
セシルの言葉に、私は目から鱗が落ちる思いだった。
そうだ。私が何かを仕掛けるから、彼はそれを「愛の裏返し」だと解釈してしまうのだ。
存在を無視する冷淡な女――。それこそ、悪役令嬢の真骨頂ではないか。
「わかったわ、セシル。今日こそ私は、氷の彫刻になるわ! 殿下がどれだけ甘い言葉を囁こうと、私は一文字も聞き取らない!」
数時間後、王宮のサンルーム。
私は約束通り、アルフレッド殿下の隣に座っていた。
しかし、今日の手には一冊の分厚い本。タイトルは『バルマ王国における土壌の変遷とミミズの生態について』。
これ以上ないほど色気のない本を、私は一心不乱に読み耽るフリをした。
「アーニー、見てごらん。君のために珍しい青いラナンキュラスを用意したんだ。花言葉は『晴れやかな魅力』。まさに今の君のことだね」
殿下が隣から、ふわりと花の香りを漂わせて囁いてくる。
いつもなら「まあ、素敵!」と飛びついて、そのまま彼の胸にダイブするところだが、今日の私は違う。
「……はぁ。土壌の三層構造が……」
「アーニー? 聞こえているかな? 今日は風が心地いいから、後で馬車を出して湖まで行かないかい?」
殿下が私の顔を覗き込もうとする。
私はあえて視線を本に固定したまま、冷たく言い放った。
「……ミミズの生息密度が……。……あ、何かおっしゃいました? 今、非常に重要な『土』の勉強をしていますの。お静かにお願いしますわ」
よし! 言ったわ!
王子様を「お静かに」と一蹴する公爵令嬢。
これは流石に、傲慢不遜の極みでしょう!
殿下は一瞬、絶句したように黙り込んだ。
……そうよ。怒りなさい。呆れなさい。
「本よりも僕を優先できない女など、王妃に相応しくない」と、その冷たい口を動かすがいいわ!
しかし、数分の沈黙のあと、聞こえてきたのは「クスクス」という忍び笑いだった。
「……っ、ふふ。あははは! ああ、ごめんよアーニー。まさかそこまでだとは思わなかった」
「……なんですの? 何がおかしいんですの?」
私は思わず本から顔を上げてしまった。
すると、殿下は愛おしそうに私の目尻に指を這わせた。
「君は、僕たちの将来をそこまで真剣に考えてくれていたんだね。……感動したよ」
「……は?」
「この国の農業の基盤である『土壌』、そして『ミミズ』。一見、地味で貴族が目を向けないような場所にこそ、国力の源泉がある。……君は、僕が王位を継いだあと、内助の功としてこの国を支えるために、あえて自分を律して学びに没頭しているんだろう?」
殿下は私の手から本をそっと取り上げ、胸に抱きしめた。
その瞳には、熱い涙さえ浮かんでいる。
「僕がデートに誘って、君の心を乱してしまったね。すまない。君のその『求道者』のような姿勢……。遊びを断ち切り、愛する人との時間さえ犠牲にして国を思うその姿こそ、真の聖女だ」
「ち、違いますわ! 私はただ、殿下を無視したくて、適当にそこらへんにあった本を……!」
「いいんだ、隠さなくて。君はいつも『悪役』を演じることで、自分の功績を隠そうとする。……今の冷たい態度も、僕が君に甘えすぎないようにするための『試練』なんだろう? 自立した王と王妃になるための……孤独な愛のトレーニングだね!」
殿下はガタッと椅子を立ち上がると、私の両肩を掴んで宣言した。
「わかったよ、アーニー! 僕も君に負けていられない。君がミミズを学ぶなら、僕は灌漑治水を極めてみせる! 僕たちが手を取り合えば、この国は歴史上もっとも豊かな実りを迎えるはずだ!」
「……で、殿下ぁ……」
ダメだ。この人、無敵すぎる。
「無視」すらも「高度な教育的配慮」として処理されてしまった。
私の冷淡な態度は、いつの間にか「国を憂う高潔な精神」にランクアップしている。
通信機から、セシルの呪詛のような声が漏れる。
『アーニー……。あなたのせいで、王子の趣味が「治水」になりました。次は何をしますか? いっそ王宮の壁でも殴りますか?』
「……殿下。あの、ミミズの本、返してくださいまし……」
「ああ! 共に学ぼう、アーニー! 君が土を語り、僕が水を語る。なんてロマンチックな午後なんだ!」
殿下と並んでミミズの図解を眺めることになった私の午後は、ちっとも冷たくなかった。
むしろ、殿下の熱弁によって、サンルームの温度は昨日よりも上昇している気がする。
スパイとしての私のプライドは、今やバルマ王国の豊かな土壌の一部として、ミミズに分解されようとしていた。
帰りたい。でも、このキラキラした笑顔の隣から離れる方法を、私はもう、一つも思いつけないのだった。
10
あなたにおすすめの小説
私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―
喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。
そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。
二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。
最初は手紙も返ってきていたのに、
いつからか音信不通に。
あんなにうっとうしいほど構ってきた男が――
なぜ突然、私を無視するの?
不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、
突然ルイスが帰還した。
ボロボロの身体。
そして隣には――見知らぬ女。
勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、
私の中で何かが壊れた。
混乱、絶望、そして……再起。
すがりつく女は、みっともないだけ。
私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。
「私を簡単に捨てられるとでも?
――君が望んでも、離さない」
呪いを自ら解き放ち、
彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。
すれ違い、誤解、呪い、執着、
そして狂おしいほどの愛――
二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。
過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!
ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」
それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。
挙げ句の果てに、
「用が済んだなら早く帰れっ!」
と追い返されてしまいました。
そして夜、屋敷に戻って来た夫は───
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
彼は亡国の令嬢を愛せない
黒猫子猫
恋愛
セシリアの祖国が滅んだ。もはや妻としておく価値もないと、夫から離縁を言い渡されたセシリアは、五年ぶりに祖国の地を踏もうとしている。その先に待つのは、敵国による処刑だ。夫に愛されることも、子を産むことも、祖国で生きることもできなかったセシリアの願いはたった一つ。長年傍に仕えてくれていた人々を守る事だ。その願いは、一人の男の手によって叶えられた。
ただ、男が見返りに求めてきたものは、セシリアの想像をはるかに超えるものだった。
※同一世界観の関連作がありますが、これのみで読めます。本シリーズ初の長編作品です。
※ヒーローはスパダリ時々ポンコツです。口も悪いです。
【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました
よどら文鳥
恋愛
ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。
ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。
ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。
更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。
再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。
ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。
後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。
ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
【完結】ドアマットに気付かない系夫の謝罪は死んだ妻には届かない
堀 和三盆
恋愛
一年にわたる長期出張から戻ると、愛する妻のシェルタが帰らぬ人になっていた。流行病に罹ったらしく、感染を避けるためにと火葬をされて骨になった妻は墓の下。
信じられなかった。
母を責め使用人を責めて暴れ回って、僕は自らの身に降りかかった突然の不幸を嘆いた。まだ、結婚して3年もたっていないというのに……。
そんな中。僕は遺品の整理中に隠すようにして仕舞われていた妻の日記帳を見つけてしまう。愛する妻が最後に何を考えていたのかを知る手段になるかもしれない。そんな軽い気持ちで日記を開いて戦慄した。
日記には妻がこの家に嫁いでから病に倒れるまでの――母や使用人からの壮絶な嫌がらせの数々が綴られていたのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる