婚約破棄? 断罪? どうでもいいですわ!

パリパリかぷちーの

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「……ふぅ。長かったわね」

重厚な扉が閉まり、私たちはようやく二人きりになった。
王城の最上階にある、新婚夫婦のために用意されたスイートルーム。
床には深紅の絨毯が敷き詰められ、天蓋付きの巨大なベッドには、これでもかというほど大量のバラの花びらが散らされている。

「お疲れ様、ニアン。素晴らしい式だった」

ジェラルドが上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。
その仕草一つとっても、大人の色気が漂っていて絵になる。
普通の令嬢なら、ここで恥じらって俯くか、あるいは期待に胸を膨らませてベッドに腰掛けるところだろう。

しかし。

「ストップ! そこから動かないで!」

私はジェラルドに向かって、掌(てのひら)を突き出した。

「……は?」

ジェラルドが、ボタンを外しかけた手で固まる。

「どうした? 何か忘れ物か?」

「違うわ。これから私の『聖域(サンクチュアリ)』の扉を開く儀式があるの。部外者は立ち入り禁止よ」

私はドレッサーの前に座り、厳かに宣言した。

「今からメイクを落とすわ。所要時間は約二時間。その間、貴方は壁のシミになって気配を消していなさい」

「に、二時間……?」

ジェラルドが絶句する。

「今日は特別に濃いメイクをしているのよ。『発光ファンデーション』を三層も塗り重ねているんだから、落とすのも一苦労なの。肌への負担を最小限にするために、最高級のオイルで優しく、かつ執拗にマッサージをしなければならないわ」

「いや、それは分かるが……。今日は初夜だぞ? もう少しこう、ムードというものが……」

「ムード? そんな不確かなものより、肌の治安維持の方が重要よ」

私はコットンを手に取り、クレンジングオイルをたっぷりと染み込ませた。

「いいこと、ジェラルド。私がなぜ、いつ見ても美しいか知っている? それは、誰にも見せない裏での努力があるからよ。スッピンを見せるなんて、武器を持たずに戦場に出るようなものだわ」

「夫婦なんだから、武器なんていらないだろう」

ジェラルドが背後から近づいてくる。

「武装解除しろ、ニアン。俺は飾らないお前が見たいんだ」

「きゃあッ! やめて!」

私は手鏡で顔を隠し、叫んだ。

「見ないで! 今、マスカラが半分落ちてパンダみたいになっているの! こんな不完全な顔を見られたら、私の美学が死んでしまう!」

「……お前、本当に面倒くさいな」

ジェラルドは深いため息をつき、ベッドに腰を下ろした。

「分かった。メイク落としは待ってやる。だが、その後はどうするつもりだ? まさか、フルメイクで寝る気じゃないだろうな?」

「当然よ」

私は即答した。

「は?」

「寝顔を見せるなんて、言語道断だわ」

私はクルリと椅子を回転させ、パンダ目のまま(手鏡で隠しているが)力説した。

「人間が一番無防備で、かつ醜態を晒す時間が『睡眠』よ。口が開くかもしれない。ヨダレが出るかもしれない。白目を剥く可能性だってゼロじゃないわ」

「……お前、そんな寝方するのか?」

「したことないわ! 私は『睡眠中も微動だにしないトレーニング』を積んでいるもの! でも、万が一ということがあるでしょう!?」

私は立ち上がり、拳を握りしめた。

「もし私が、貴方の前で『グガー』なんていびきをかいたらどうするの? 百年の恋も冷めるわ。私の完璧なブランドイメージが崩壊してしまう!」

「いびきくらいで冷めないよ」

「私が許せないの! だから今夜は、私はこの椅子で、ポーズを決めたまま仮眠を取ることにするわ。貴方はベッドで先に寝ていいわよ」

「……正気か?」

ジェラルドは呆れ果てて天井を仰いだ。
新婚初夜に、花嫁がドレッサーの椅子で座り寝を宣言する。
前代未聞の事態だ。

「ニアン。こっちへ来い」

「嫌よ。重力が怖いの。横になったら頬の肉が重力で垂れるじゃない」

「いいから来い」

ジェラルドは立ち上がり、有無を言わさず私を抱き上げた。
いわゆるお姫様抱っこだ。

「ちょ、ちょっと! 乱暴よ! 衣装がシワになるわ!」

「ドレスは脱がせてやる。メイクも俺が落としてやる」

彼は私をベッドに優しく下ろし、覆いかぶさるような体勢になった。
至近距離にある彼の顔。
アイスブルーの瞳が、逃がさないとばかりに私を捕らえている。

「……ジェラルド」

「俺はな、ニアン。お前の『完璧』が好きなわけじゃないんだ」

彼は私の頬に触れ、親指で落ちかけのマスカラを拭った。

「完璧であろうとする、その心意気は好きだ。だが、俺が愛しているのは、生身の『ニアン』だ。化粧が崩れても、いびきをかいても、ヨダレを垂らしても、お前はお前だろ」

「……美しくないわ」

私は拗(す)ねたように顔を背けた。

「美しくないものを愛するなんて、貴方の美的センスを疑うわ」

「俺のセンスは世界一だと、お前が言ったはずだが?」

「うっ……」

痛いところを突かれた。
確かに、私を選んだ彼の審美眼は国宝級だと認めてしまった。

「それに、考えてもみろ。世界中の誰もが見ることのできない、お前の『無防備な寝顔』を独占できる権利。これはファンクラブ会長として、最高の特権じゃないか?」

「……特権?」

「ああ。完璧なニアン様は、国民全員のものだ。だが、隙だらけで、ちょっとマヌケな寝顔のニアンは、俺だけのものだ」

ジェラルドはニヤリと笑った。

「レア度で言えば、スッピンの方が高いぞ? 俺にだけ、そのレアな姿を拝ませてくれないか?」

「……レア度……」

その言葉に、私の心が揺らいだ。
希少価値。
限定公開。
プレミアムコンテンツ。
ナルシストの琴線に触れるキーワードだ。

「……そうね。確かに、私のスッピンは『選ばれし者』だけが目にすることを許される、伝説の秘宝みたいなものかもしれないわ」

「その通りだ」

「貴方には高い会費(結納金やドレス代)を払ってもらったし、特別に見せてあげなくもないわ」

「感謝するよ」

ジェラルドは安堵の息を吐き、私の髪に挿されたピンを一本ずつ抜き始めた。
プラチナブロンドの髪が、サラリと枕に広がる。

「……でも、条件があるわ」

「なんだ?」

「もし私が寝言で変なことを言ったら、それは『異次元と交信している高尚な言語』だと解釈すること」

「了解した」

「いびきをかいたら、『ライオンのような勇ましさ』と褒めること」

「……努力する」

「あと、朝起きたら一番に『おはよう、スッピンの君も最高に可愛いよ』と言うこと。これ絶対」

「お安い御用だ」

ジェラルドは手際よく私のドレスの紐を解き、濡れタオル(いつの間に用意したのかしら)で私の顔を拭き始めた。
温かいタオルが、肌の上を滑る。
化粧という鎧が剥がされ、素の私が露わになっていく。

正直、怖い。
鏡のない状態で、他人に素顔を見られるなんて。
けれど、ジェラルドの瞳は、化粧をしていた時よりも優しく、愛おしそうに私を見ていた。

「……綺麗だ」

彼は素顔の私を見て、ポツリと呟いた。

「そばかすが少しあるのも、目尻に笑い皺(じわ)があるのも、全部人間らしくていい。俺はこっちの方が好きかもしれないな」

「……あら、趣味が変わっているわね」

私は照れ隠しに、彼の胸を軽く叩いた。

「でも、貴方がそう言うなら、私のスッピンも『新たな美の基準』として認定してあげるわ」

「光栄だ」

夜は更けていく。
私たちは互いの体温を感じながら、静かな時間を過ごした。
攻防戦は、私の完全敗北……いいえ、戦略的撤退からの和解という形で幕を閉じた。

「ねえジェラルド」

「ん?」

「電気を消して。真っ暗にしないと、成長ホルモンが分泌されないの」

「はいはい」

彼が明かりを消すと、部屋は闇に包まれた。
視覚情報が遮断され、残るのは触覚と聴覚、そして嗅覚だけ。

「……おやすみ、ニアン」

額にキスが落とされる。

「おやすみ、ジェラルド。……いい夢を見なさい。私の夢をね」

私は彼の腕の中に潜り込み、目を閉じた。
不思議と、いつもの「微動だにしないトレーニング」をする必要は感じなかった。
彼に預けてしまえばいい。
私の体重も、プライドも、そして無防備な寝顔も。

数分後。
私が寝落ちる直前、ジェラルドが耳元で小さく囁いたのが聞こえた。

「……本当にお前は、手のかかる最高の宝石だな」

ふふっ。
当然よ。
手がかかるからこそ、愛し甲斐があるというもの。
貴方は一生、この甘い苦労から逃れられないんだから。

私は満足げに微笑みながら、深い眠りへと落ちていった。
明日の朝、目覚めた瞬間に彼がどんな賛辞をくれるかを楽しみにしながら。
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