君のような悪女とは婚約破棄だ!と言われたので帰ります

パリパリかぷちーの

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王宮の長い廊下を、私は競歩選手のような速さで進んでいました。

ヒールの音が高らかに鳴り響きますが、気にしてなんかいられません。

「セバスチャン、もっと速く歩けないの?」

「お嬢様、これ以上は走ることになります。貴族の歩き方ではございません」

隣を涼しい顔でついてくる執事のセバスチャンが、呆れたように言いました。

「背に腹は代えられないわ。あのアレン様のことよ、数分後には『やっぱり牢屋に入れてやる』とか『土下座すれば許してやる』とか言い出すに決まってるもの」

「確かに。殿下の情緒不安定さは、春の天候よりも予測不能でございますからな」

「でしょう? だから今のうちに既成事実を作ってしまうのよ。『私は実家に帰りました』という事実をね!」

私は扇をバッと開き、口元を隠してニヤリと笑いました。

「それにしても『追放』だなんて、最高の響きじゃない?」

「左様でございますか?」

「ええ、そうよ! 考えてもみて。もう毎朝4時に起きて王子の身支度チェックをしなくていいの。ダンスのステップを間違える王子の足を踏まないように気を使う必要もない。そして何より……あの甘ったるい香水の匂いを嗅がなくて済むのよ!」

私は両手を広げて、廊下の空気を胸いっぱいに吸い込みました。

「ここは自由への滑走路よ!」

「お声が大きゅうございます、お嬢様。すれ違う衛兵がギョッとしております」

衛兵たちが壁際で直立不動のまま、不審者を見るような目でこちらを見ていました。

私は彼らに向かって優雅に手を振ります。

「ごきげんよう。私は今から『悪役』として追放されるところですので、お気になさらず」

衛兵たちはポカンと口を開けていました。

そんなやり取りをしている間に、私たちは王宮の裏口にある馬車止めに到着しました。

そこには既に、我がベルンシュタイン公爵家の紋章が入った漆黒の馬車が停まっていました。

そして、その横には積み上げられたトランクの山。

「……セバスチャン?」

「はい」

「これ、全部私の荷物?」

「左様でございます。お嬢様のドレス、宝石、靴、愛読書、そして一週間分のおやつ。すべて積み込み済みでございます」

「仕事が早すぎて怖いくらいね」

「お嬢様がいつ婚約破棄されてもいいように、一ヶ月前からシミュレーションしておりましたので」

「最高の執事ね、あなた」

私が感心していると、馬車の影から一人の男が姿を現しました。

その瞬間、周りの空気が一度下がるのを感じました。

身長は百九十センチ近くあるでしょうか。

鍛え上げられた体躯を漆黒の騎士服に包み、腰には身の丈ほどもある大剣を佩いています。

そして何より特徴的なのは、その顔立ちでした。

整ってはいるものの、シベリアの永久凍土のように冷徹な無表情。

鋭い眼光は、見る者すべてを射殺せそうな迫力があります。

「……お待たせいたしました」

地を這うような低い声。

彼こそが、王国最強と謳われ、同時に『氷の騎士』と恐れられる騎士団長。

ギルバート・ヴォルファート辺境伯令息その人でした。

(うわあ、本物だわ。近くで見ると本当に怖いわね)

私は心の中で感嘆の声を上げました。

噂では、彼が睨むだけで泣き出す令嬢もいるとか、剣を抜かずに山賊を壊滅させたとか、血も涙もない冷血漢だとか言われています。

しかし、今の私にとって彼は『自由への案内人』に他なりません。

「ギルバート様、護衛の任務ご苦労様ですわ。急な呼び出しで申し訳ありません」

私が笑顔で声をかけると、ギルバート様はピクリと眉を動かしました。

「……ニナリー嬢」

「はい?」

「泣かないのですか」

「へ?」

彼は無表情のまま、少しだけ首を傾げました。

「婚約破棄をされたと聞きました。普通のご令嬢ならば、今は泣き崩れている頃かと」

「あら」

私は扇で口元を隠し、コロコロと笑いました。

「涙というのは、悲しい時に流すものですわ。今の私は、長年の便秘が解消されたような清々しい気分なのですもの。泣く理由がありませんわ」

「……便秘」

ギルバート様が絶句しました。

公爵令嬢の口から出る単語ではなかったかもしれません。

「失礼、例えが悪かったですわね。とにかく、私は元気一杯ということです。さあ、参りましょう! アレン様が追いかけてくる前に!」

私は御者の手を借りることなく、軽やかに馬車のステップを上がりました。

その時です。

王宮のバルコニーから、あのアレン王子の叫び声が聞こえてきました。

「ニナリー! ニナリー・ベルンシュタイン! まだ話は終わっていないぞおおおお!」

随分と遠くからですが、執念を感じる大声です。

ギルバート様が険しい顔でバルコニーを見上げ、剣の柄に手をかけました。

「……殿下が呼んでおられますが。戻りますか?」

「いいえ! 聞こえません! 何も聞こえませんわ! ただの雑音です!」

私は馬車の窓をピシャリと閉め、カーテンも引きました。

「セバスチャン、出して! 全速力で!」

「御意」

セバスチャンが御者台に飛び乗り、鞭を振るいます。

「ハイッ!」

馬がいななき、車輪が勢いよく回り始めました。

ガタゴトと馬車が揺れ、王宮の景色が後ろへと流れていきます。

遠ざかるアレン王子の「覚えてろよー!」という捨て台詞を聞きながら、私は座席に深く沈み込みました。

「ふゥ……。危ないところでしたわ」

脱走成功です。

私は安堵のため息をつき、向かいの席を見ました。

そこには、護衛として同乗したギルバート様が、石像のように微動だにせず座っています。

狭い馬車の中に、巨大な氷山があるような圧迫感。

(……気まずい)

沈黙が痛いほどに重くのしかかります。

彼は膝の上で拳を握り締め、前を見据えたまま一言も発しません。

怒っているのでしょうか。

それとも、婚約破棄された傷物の令嬢など、口をきく価値もないと思っているのでしょうか。

(まあ、いいわ。国境までの数日間の辛抱よ)

私は気まずさを誤魔化すように、手元のバスケットを開けました。

「ギルバート様」

「……何でしょう」

「お一つ、いかが?」

私が差し出したのは、セバスチャン特製の焼き菓子が入った袋です。

ギルバート様はゆっくりと視線を動かし、私の手元を見ました。

その目が、一瞬だけ見開かれたのを私は見逃しませんでした。

「……それは?」

「クッキーですわ。甘いものはお嫌いかしら?」

彼は数秒間、クッキーを凝視していました。

まるで、この世で最も重要な戦略物資を見定めるかのように。

そして、重々しく口を開きます。

「……任務中ですが」

「毒見だと思ってくだされば結構ですわ」

「……では」

彼は分厚い手袋を外し、太い指で慎重にクッキーを一枚つまみ上げました。

そして、パクりと口に入れます。

サクサクと咀嚼する音が、静かな車内に響きました。

(……あれ?)

私は首を傾げました。

今、一瞬だけ。

本当に一瞬だけですが、氷の騎士様の口元が緩んだような気がしたのです。

「いかが?」

「……悪くない」

彼は短くそう言うと、再び腕を組んで石像に戻りました。

ですが、その視線がチラチラと私のバスケットに向けられていることに、私は気づいてしまいました。

(もしかして……)

この強面騎士様、実は甘党なのでしょうか。

私はバスケットの中身を確認しながら、ある計画を思いつきました。

これから始まる長い旅路。

ただ座っているだけでは退屈です。

この氷の騎士様の仮面を、美味しいお菓子で剥がしてみるのも一興かもしれません。

馬車は王都の門をくぐり、広大な平原へと走り出しました。

私の新しい人生の始まりを祝福するかのように、空は突き抜けるような青色でした。
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