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その頃、王都にある王宮の一室では、地獄の釜の蓋が開いたような騒ぎになっていました。
場所は、アレン王子の執務室。
かつては清潔で整頓され、窓辺には季節の花が飾られていた美しい部屋です。
しかし現在は、床が見えないほどに書類が散乱し、インクの染みがカーペットを汚し、得体の知れない腐敗臭(おそらく食べかけの菓子)が漂う、ゴミ屋敷と化していました。
「ええい! あの書類はどこだ! 隣国の使節団を迎えるための進行表だ!」
アレン王子が、書類の雪崩に埋もれながら叫びました。
目の下には濃いクマができ、整えられていた髪はボサボサ。
自慢の美貌は見る影もありません。
「も、申し訳ございません殿下! 現在捜索中ですが、見当たりません!」
側近の文官が悲鳴のような声を上げます。
「見当たらないとはどういうことだ! 明日の昼には到着するんだぞ! メニューの確認も、宿舎の手配も、まだ決裁印を押していないじゃないか!」
「そ、それが……これまではニナリー様が、一ヶ月前には全て手配を完了されていたもので……」
文官が恐る恐る口にした名前に、アレン王子の顔が真っ赤に染まりました。
「またその名前か! ニナリー、ニナリー、どいつもこいつもニナリー!」
彼は手近にあった羽ペンを壁に投げつけました。
「あんな陰気な女がいなくたって、公務くらい回るはずだ! 私は王太子だぞ! 優秀な私が本気を出せば、こんな紙切れの山など……!」
「アレン様ぁ~、お疲れじゃないですかぁ?」
その時、部屋の空気を読まない甘ったるい声が響きました。
ドアが開き、フリフリのドレスを着たミューア男爵令嬢が入ってきます。
手にはティーセットが乗ったトレイを持っていました。
「ミューア……」
「みんなカリカリしちゃって、ダメですよぉ。私の淹れた『愛のハーブティー』を飲んで、リラックスしてくださいな☆」
ミューアは書類の山を土足で踏みつけながら、アレン王子の元へ歩み寄ります。
「ああっ! ミューア様、そこは未決裁の重要書類が!」
文官が叫びましたが、時すでに遅し。
「きゃっ!」
ミューアが何もないところで躓き、トレイ上のティーポットが宙を舞いました。
バシャアアア!
熱々のハーブティーが、アレン王子の机の上にぶちまけられます。
そこにあったのは、まさに今探していた『隣国使節団・歓迎式典進行表(原本)』でした。
「ああああああああああ!!」
アレン王子と文官の声が重なりました。
茶色の液体を吸って、羊皮紙の文字が無惨に滲んでいきます。
「あ~あ、こぼしちゃった。ごめんなさぁい。でもぉ、アレン様がキャッチしてくれないからですよぉ?」
ミューアは可愛らしく舌を出してテヘペロポーズを決めました。
普段なら「ドジなところも可愛いよ」とデレデレするアレン王子ですが、さすがに今は頬が引きつっています。
「ミ、ミューア……これは、とても大事な書類で……」
「えー? ただの紙じゃないですかぁ。また書けばいいでしょ?」
「書き直すのに三日はかかるんだ! 式典は明日なんだぞ!」
「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないですかぁ! 私、アレン様のために頑張って淹れたのにぃ……ひどぉい!」
ミューアが嘘泣きを始めました。
アレン王子は頭を抱えました。
ニナリーなら、絶対にこんなミスはしませんでした。
彼女は転ぶどころか、空中でカップをキャッチして一滴もこぼさないような女性でした。
(い、いや、比べるな! あんな可愛げのない女と、天使のようなミューアを比べるな!)
アレン王子は首を振って邪念を追い払いました。
「す、すまないミューア。私が悪かった。……おい、代わりの書類を用意しろ!」
「は、はい! ですが……予備のデータがどこにあるか……」
「それもニナリーが管理していたのか!?」
「は、はい……ニナリー様の記憶力は凄まじく、書庫のどこに何があるか、全て頭に入っておられましたので……索引が存在しません」
「なんだと……?」
アレン王子は呆然としました。
ニナリー・ベルンシュタイン。
彼女は「悪役令嬢」と呼ばれていましたが、その実は「王宮のスーパーコンピューター」だったのです。
彼女が追放された瞬間、王宮の行政機能は脳死状態に陥っていました。
「ど、どうすれば……このままでは国際問題になるぞ……」
冷や汗が止まりません。
そこに、さらに追い討ちをかけるように、財務官が飛び込んできました。
「殿下! 大変です! 予算が足りません!」
「なに!? 何の予算だ!」
「来月開催予定の舞踏会の予算です! ドレスの新調費、会場の装花代、楽団へのギャラ……計算したところ、金庫が空っぽです!」
「バカな! 税収は十分にあったはずだ!」
「それが……その……」
財務官がチラリとミューアの方を見ました。
「ここ数ヶ月、ミューア様への贈り物や、彼女の実家への援助金として、裏帳簿から多額の流用がありまして……」
「なっ!?」
「これまではニナリー様が、ご自身の私財を投じたり、不要な経費を削減したりして、なんとか帳尻を合わせて隠蔽しておられたようなのですが」
「ニナリーが……私の横領を隠していた、だと?」
「はい。『王子の顔に泥を塗るわけにはいきませんから(ため息)』と仰って、完璧に処理されておりました」
アレン王子は椅子に崩れ落ちました。
彼女の口うるさい小言は、ただの嫌がらせではなかった。
あれは、破綻寸前の自分を支えるための、必死の警告だったのです。
「でもぉ、私、新しいドレスが着たいなぁ。アレン様、買ってくれるって約束しましたよねぇ?」
ミューアが無邪気にねだります。
その声が、今の王子には悪魔の囁きのように聞こえました。
「……無理だ」
「え?」
「金がないんだ! 誰のせいで!」
「ひどぉい! 私よりお金が大事なんですかぁ!?」
ギャーギャーと喚くミューア。
オロオロと走り回る文官たち。
増え続けるミスの報告。
アレン王子の精神は、限界を迎えようとしていました。
「……手紙だ」
彼はうわ言のように呟きました。
「手紙?」
「ニナリーに手紙を書く! 今すぐだ!」
彼は新しい羊皮紙をひったくり、インク壺にペンを突き刺しました。
プライドの高い彼のことです。
「助けてくれ」とは書けません。
震える手で、彼が書き殴った内容はこうでした。
『拝啓 ニナリー・ベルンシュタイン
貴様が泣いて詫びるなら、もう一度チャンスをやっていい。
王宮の業務が滞っているのは、貴様が引き継ぎもせずに逃げ出したせいだ。
これは職務怠慢である。
罪を償うため、今すぐ王都へ戻り、書類を整理しろ。
なお、復縁を認めるわけではないので勘違いしないように。
あくまで、私の慈悲である。
追伸:至急戻ってこい。明日までにだ。
アレン』
「……これでよし」
彼は満足げに頷きました。
「これを最速の早馬で届けろ! ベルンシュタイン公爵領なら三日で着くはずだ!」
「は、はい!」
文官が手紙を持って走り去ります。
アレン王子は椅子にふんぞり返りました。
「ふん、ニナリーのことだ。この手紙を見れば、尻尾を振って飛んでくるに違いない。あいつは私のことが好きなんだからな」
「アレン様ぁ、誰のこと考えてるんですかぁ? プンプン!」
「ああ、ごめんよミューア。君が一番だよ。……ニナリーが戻ってきたら、こき使って、君のドレス代を稼がせてやるからね」
「本当? わぁい、アレン様だぁいすき!」
二人はバカップル全開で抱き合いました。
その周りでは、未だに文官たちが「終わらない……」「死ぬ……」と呟きながら書類と格闘しています。
彼らはまだ知りません。
その手紙がニナリーの元に届く頃には、彼女は既に領地改革に夢中で、王子のことなど1ミリも覚えていないということを。
そして、その手紙がニナリーの手によって、熱々の鍋を置くための『鍋敷き』として活用される運命にあることを。
王都の崩壊へのカウントダウンは、誰にも止められないまま、刻一刻と進んでいたのです。
場所は、アレン王子の執務室。
かつては清潔で整頓され、窓辺には季節の花が飾られていた美しい部屋です。
しかし現在は、床が見えないほどに書類が散乱し、インクの染みがカーペットを汚し、得体の知れない腐敗臭(おそらく食べかけの菓子)が漂う、ゴミ屋敷と化していました。
「ええい! あの書類はどこだ! 隣国の使節団を迎えるための進行表だ!」
アレン王子が、書類の雪崩に埋もれながら叫びました。
目の下には濃いクマができ、整えられていた髪はボサボサ。
自慢の美貌は見る影もありません。
「も、申し訳ございません殿下! 現在捜索中ですが、見当たりません!」
側近の文官が悲鳴のような声を上げます。
「見当たらないとはどういうことだ! 明日の昼には到着するんだぞ! メニューの確認も、宿舎の手配も、まだ決裁印を押していないじゃないか!」
「そ、それが……これまではニナリー様が、一ヶ月前には全て手配を完了されていたもので……」
文官が恐る恐る口にした名前に、アレン王子の顔が真っ赤に染まりました。
「またその名前か! ニナリー、ニナリー、どいつもこいつもニナリー!」
彼は手近にあった羽ペンを壁に投げつけました。
「あんな陰気な女がいなくたって、公務くらい回るはずだ! 私は王太子だぞ! 優秀な私が本気を出せば、こんな紙切れの山など……!」
「アレン様ぁ~、お疲れじゃないですかぁ?」
その時、部屋の空気を読まない甘ったるい声が響きました。
ドアが開き、フリフリのドレスを着たミューア男爵令嬢が入ってきます。
手にはティーセットが乗ったトレイを持っていました。
「ミューア……」
「みんなカリカリしちゃって、ダメですよぉ。私の淹れた『愛のハーブティー』を飲んで、リラックスしてくださいな☆」
ミューアは書類の山を土足で踏みつけながら、アレン王子の元へ歩み寄ります。
「ああっ! ミューア様、そこは未決裁の重要書類が!」
文官が叫びましたが、時すでに遅し。
「きゃっ!」
ミューアが何もないところで躓き、トレイ上のティーポットが宙を舞いました。
バシャアアア!
熱々のハーブティーが、アレン王子の机の上にぶちまけられます。
そこにあったのは、まさに今探していた『隣国使節団・歓迎式典進行表(原本)』でした。
「ああああああああああ!!」
アレン王子と文官の声が重なりました。
茶色の液体を吸って、羊皮紙の文字が無惨に滲んでいきます。
「あ~あ、こぼしちゃった。ごめんなさぁい。でもぉ、アレン様がキャッチしてくれないからですよぉ?」
ミューアは可愛らしく舌を出してテヘペロポーズを決めました。
普段なら「ドジなところも可愛いよ」とデレデレするアレン王子ですが、さすがに今は頬が引きつっています。
「ミ、ミューア……これは、とても大事な書類で……」
「えー? ただの紙じゃないですかぁ。また書けばいいでしょ?」
「書き直すのに三日はかかるんだ! 式典は明日なんだぞ!」
「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないですかぁ! 私、アレン様のために頑張って淹れたのにぃ……ひどぉい!」
ミューアが嘘泣きを始めました。
アレン王子は頭を抱えました。
ニナリーなら、絶対にこんなミスはしませんでした。
彼女は転ぶどころか、空中でカップをキャッチして一滴もこぼさないような女性でした。
(い、いや、比べるな! あんな可愛げのない女と、天使のようなミューアを比べるな!)
アレン王子は首を振って邪念を追い払いました。
「す、すまないミューア。私が悪かった。……おい、代わりの書類を用意しろ!」
「は、はい! ですが……予備のデータがどこにあるか……」
「それもニナリーが管理していたのか!?」
「は、はい……ニナリー様の記憶力は凄まじく、書庫のどこに何があるか、全て頭に入っておられましたので……索引が存在しません」
「なんだと……?」
アレン王子は呆然としました。
ニナリー・ベルンシュタイン。
彼女は「悪役令嬢」と呼ばれていましたが、その実は「王宮のスーパーコンピューター」だったのです。
彼女が追放された瞬間、王宮の行政機能は脳死状態に陥っていました。
「ど、どうすれば……このままでは国際問題になるぞ……」
冷や汗が止まりません。
そこに、さらに追い討ちをかけるように、財務官が飛び込んできました。
「殿下! 大変です! 予算が足りません!」
「なに!? 何の予算だ!」
「来月開催予定の舞踏会の予算です! ドレスの新調費、会場の装花代、楽団へのギャラ……計算したところ、金庫が空っぽです!」
「バカな! 税収は十分にあったはずだ!」
「それが……その……」
財務官がチラリとミューアの方を見ました。
「ここ数ヶ月、ミューア様への贈り物や、彼女の実家への援助金として、裏帳簿から多額の流用がありまして……」
「なっ!?」
「これまではニナリー様が、ご自身の私財を投じたり、不要な経費を削減したりして、なんとか帳尻を合わせて隠蔽しておられたようなのですが」
「ニナリーが……私の横領を隠していた、だと?」
「はい。『王子の顔に泥を塗るわけにはいきませんから(ため息)』と仰って、完璧に処理されておりました」
アレン王子は椅子に崩れ落ちました。
彼女の口うるさい小言は、ただの嫌がらせではなかった。
あれは、破綻寸前の自分を支えるための、必死の警告だったのです。
「でもぉ、私、新しいドレスが着たいなぁ。アレン様、買ってくれるって約束しましたよねぇ?」
ミューアが無邪気にねだります。
その声が、今の王子には悪魔の囁きのように聞こえました。
「……無理だ」
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「……手紙だ」
彼はうわ言のように呟きました。
「手紙?」
「ニナリーに手紙を書く! 今すぐだ!」
彼は新しい羊皮紙をひったくり、インク壺にペンを突き刺しました。
プライドの高い彼のことです。
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震える手で、彼が書き殴った内容はこうでした。
『拝啓 ニナリー・ベルンシュタイン
貴様が泣いて詫びるなら、もう一度チャンスをやっていい。
王宮の業務が滞っているのは、貴様が引き継ぎもせずに逃げ出したせいだ。
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罪を償うため、今すぐ王都へ戻り、書類を整理しろ。
なお、復縁を認めるわけではないので勘違いしないように。
あくまで、私の慈悲である。
追伸:至急戻ってこい。明日までにだ。
アレン』
「……これでよし」
彼は満足げに頷きました。
「これを最速の早馬で届けろ! ベルンシュタイン公爵領なら三日で着くはずだ!」
「は、はい!」
文官が手紙を持って走り去ります。
アレン王子は椅子にふんぞり返りました。
「ふん、ニナリーのことだ。この手紙を見れば、尻尾を振って飛んでくるに違いない。あいつは私のことが好きなんだからな」
「アレン様ぁ、誰のこと考えてるんですかぁ? プンプン!」
「ああ、ごめんよミューア。君が一番だよ。……ニナリーが戻ってきたら、こき使って、君のドレス代を稼がせてやるからね」
「本当? わぁい、アレン様だぁいすき!」
二人はバカップル全開で抱き合いました。
その周りでは、未だに文官たちが「終わらない……」「死ぬ……」と呟きながら書類と格闘しています。
彼らはまだ知りません。
その手紙がニナリーの元に届く頃には、彼女は既に領地改革に夢中で、王子のことなど1ミリも覚えていないということを。
そして、その手紙がニナリーの手によって、熱々の鍋を置くための『鍋敷き』として活用される運命にあることを。
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