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「…さあな」
アレクシスの、低く、どこか楽しむような響きさえ含んだ声が、静まり返った王宮の廊下に、妙な余韻を残して響いた。
「…」
ルーナは、その答えに、一瞬、思考が停止した。
(さあな、ですって!?)
彼女は、自分が、まだ、目の前の男の、鋼鉄のように硬い腕を、両手でぎゅっと掴んだままであることに、今さら気づいた。
まるで、熱い鉄にでも触れたかのように、慌てて、その手を、ぱっと離す。
「…!」
アレクシスの腕から、ルーナの体温が、すうっと引いていく。
彼は、そのわずかな「喪失感」を、無表情の下で、確かに感じ取っていた。
廊下には、気まずい沈黙が流れた。
走り去った王子の、惨めな足音は、もう聞こえない。
残されたのは、悪役令嬢(のフリをした女)と、氷の騎士(のフリをしていた男)。
そして、壁際で、必死に「わたくしは空気です」という顔をして、この歴史的(?)瞬間を見守っている、侍女のアンナだけだった。
「…と、ともかく」
ルーナは、この男の真意を測りかねて、咳払いを一つした。
頬が、なぜだか、少し熱い。
(いけませんわ、ルーナ。この男のペースに巻き込まれては)
彼女は、いつもの、ふてぶてしい「悪役令嬢」の仮面を、慌てて被り直した。
「これで、あのしつこい殿下も、ようやく、諦めてくださるでしょう」
ルーナは、アレクシスに向き直り、わざと、挑戦的な笑みを浮かべてみせた。
「助演、感謝いたしますわ、副団長様。まさか、あなた様が、あんな『好ましい』などという、歯の浮くようなセリフで、わたくしの芝居に、乗ってくださるとは。意外と、役者の才能がおありなのね?」
これは、ルーナなりの「牽制」だった。
(さあ、ここはお互い『芝居だった』ということで、手打ちにしましょう)
そう、言外に、告げているのだ。
しかし、アレクシスは、その「手打ち」に乗らなかった。
彼は、ルーナの、からかうような視線を、まっすぐに、その凍てつく青い瞳で、受け止めた。
「…芝居ではない」
「え?」
「俺は、貴様が、好ましい」
「…!」
アレクシスは、繰り返した。
はっきりと。
それは、エリオットに聞かせた時のような、芝居がかったものではない。
ただ、淡々と、事実だけを告げる、彼特有の、低い声だった。
「…あ、あの」
ルーナは、本気で、狼狽(うろた)えた。
スチームコンベクションオーブンを前にした時とは、全く質の違う、心臓の跳ね方だった。
「副団長様、あなた、お疲れなのですわ。王都の面倒ごとに、頭が、やられて…」
「俺は、至って、正気だ」
アレクシスは、ルーナの、しどろもどろの言い訳を、容赦なく遮った。
「貴様の、あの茶番(断罪劇)を、『面倒くさい』の一言で、受け入れた図太さも」
「う…」
「別荘の厨房で、心の底から、楽しそうに、小麦粉にまみれている姿も」
「あ…」
「マルシェで、村の子供に、あの笑顔(・・)を引き出された、貴様の『お菓子』も」
「…」
「そして、今、王子の、あの情けない懇願を、『面倒くさい』と、王妃の座ごと、蹴り飛ばした、その在り方も」
アレクシスは、そこで、一歩、ルーナに、近づいた。
ルーナは、その気迫に、思わず、一歩、後ずさる。
「その全てが、俺の知る、どの『淑女』とも、違っていた」
「……」
「そして、俺は、それを、好ましいと、思った」
それは、恋だの、愛だのという、甘ったるい言葉ではなかった。
だが、この「氷の騎士」アレクシス・ラインフォルトが、これ以上ないほど、誠実に、己の「本心」を、差し出した瞬間だった。
(…うそでしょう)
ルーナは、絶句した。
(この、堅物! 朴念仁! 氷の塊のような男が!)
(わたくしの、お菓子だけでは、なかったと!?)
ルーナの頭は、混乱の極みにあった。
だが、彼女は、アッシュフィールド公爵令嬢だ。
混乱しながらも、彼女の頭脳(主に、悪知恵の働く部分)は、この状況が、自分にとって、どれほど「有利」か、そして、どれほど「面白い」かを、瞬時に計算し始めていた。
(…なるほど)
ルーナは、混乱を、すうっと、心の奥底に押し込めた。
そして、顔を上げた。
その顔には、もはや、動揺はない。
獲物を見つけた、肉食獣のような、妖艶な「悪役令嬢」の、完璧な笑みが、浮かんでいた。
「…副団長様」
「…なんだ」
アレクシスは、この女が、また、何かを企んでいることを、察知し、わずかに、身構えた。
「わたくし、大変なことを、思い出してしまいましたわ」
「…」
「あなた様は、今、この王宮の、公衆の面前(エリオット王子)で」
ルーナは、アレクシスの胸に、人差し指を、つん、と当てた。
「この、罪深き『悪役令嬢』ルーナ・フォン・アッシュフィールドに、『好ましい』と、公言なさいましたわね?」
「…ああ。そうだ」
「しかも、わたくしと、腕まで組んで。傍から見れば、わたくしたち、完全に、恋仲ですわ」
(アンナが、壁際で、必死に、肩を震わせているのが、視界の端に入る)
「王都の噂は、光よりも早いですわよ? 今頃、『氷の騎士、悪役令嬢に陥落す!』『断罪された令嬢、監視役と駆け落ちか!?』などと、尾ひれがついて、広まっている頃でしょうね」
「…そう、だろうな」
アレクシスは、まるで、他人事のように、頷いた。
「わたくし、困ってしまいましたわ」
ルーナは、わざとらしく、ため息をついた。
「王子の手は、切れた。ですが、今度は、あなた様という『色男』との、あらぬ噂が、立ってしまった。これでは、わたくしが、別荘で、心安らかに『昼寝』もできませんわ」
「…」
「わたくしの、平穏な『謹慎』生活を、あなた様が、台無しに、してくださいましたのよ?」
ルーナは、アレクシスの、その青い瞳を、まっすぐに、射抜いた。
そして、この物語で、最も、悪質で、最も、甘い「脅迫」を、口にした。
「副団長様」
「…」
「責任、取ってくださいますわよね?」
その笑みは、小悪魔的で、挑発的で、そして、どこまでも、楽しそうだった。
アレクシスは、ルーナの、その「挑戦状」を、正面から、受け止めた。
彼は、数秒間、黙って、彼女を見つめ返した。
(…ああ。やはり)
彼は、悟った。
(俺は、この女の、こういうところに、惹かれたのだ)
アレクシスは、ゆっくりと、深く、息を吐き出した。
それは、諦めでも、屈辱でもない。
覚悟を、決めた、男の、静かなため息だった。
「…喜んで」
「え…」
アレクシスは、ルーナの、その人差し指が触れていた、胸元の、硬い騎士服を掴んだのではない。
彼は、ルーナの「手」そのものを、そっと、優しく、しかし、力強く、掴んだ。
それは、別荘で「検分」の皿を受け取る手とは、全く違う、熱を持った、男の手だった。
そして、アレクシス・ラインフォルトは。
「氷の騎士」は。
掴んだ、ルーナの手の甲に、唇を寄せる、その寸前で、動きを止め。
彼女の目の前で、深く、深く、片膝をついた。
王に捧げるよりも、丁寧な、完璧な、騎士の礼を。
「…っ!」
(う、嘘!? この堅物が! こんな、芝居がかったことを!?)
ルーナの方が、今度こそ、本気で、顔を赤らめた。
アレクシスは、片膝をついたまま、ルーナの手を、両手で包み込み、顔を上げた。
その瞳には、もう、一片の「氷」も残っていなかった。
あるのはただ、一人の女性に全てを捧げることを決意した男の熱だけだった。
「ルーナ・フォン・アッシュフィールド嬢」
「は、はい…」
「このアレクシス・ラインフォルト、生涯をかけて、貴女(あなた)の…そして、貴女の作る菓子の『責任』を取らせていただく」
それは世界で一番堅物で不器用で、そして最高に甘いプロポーズだった。
アレクシスの、低く、どこか楽しむような響きさえ含んだ声が、静まり返った王宮の廊下に、妙な余韻を残して響いた。
「…」
ルーナは、その答えに、一瞬、思考が停止した。
(さあな、ですって!?)
彼女は、自分が、まだ、目の前の男の、鋼鉄のように硬い腕を、両手でぎゅっと掴んだままであることに、今さら気づいた。
まるで、熱い鉄にでも触れたかのように、慌てて、その手を、ぱっと離す。
「…!」
アレクシスの腕から、ルーナの体温が、すうっと引いていく。
彼は、そのわずかな「喪失感」を、無表情の下で、確かに感じ取っていた。
廊下には、気まずい沈黙が流れた。
走り去った王子の、惨めな足音は、もう聞こえない。
残されたのは、悪役令嬢(のフリをした女)と、氷の騎士(のフリをしていた男)。
そして、壁際で、必死に「わたくしは空気です」という顔をして、この歴史的(?)瞬間を見守っている、侍女のアンナだけだった。
「…と、ともかく」
ルーナは、この男の真意を測りかねて、咳払いを一つした。
頬が、なぜだか、少し熱い。
(いけませんわ、ルーナ。この男のペースに巻き込まれては)
彼女は、いつもの、ふてぶてしい「悪役令嬢」の仮面を、慌てて被り直した。
「これで、あのしつこい殿下も、ようやく、諦めてくださるでしょう」
ルーナは、アレクシスに向き直り、わざと、挑戦的な笑みを浮かべてみせた。
「助演、感謝いたしますわ、副団長様。まさか、あなた様が、あんな『好ましい』などという、歯の浮くようなセリフで、わたくしの芝居に、乗ってくださるとは。意外と、役者の才能がおありなのね?」
これは、ルーナなりの「牽制」だった。
(さあ、ここはお互い『芝居だった』ということで、手打ちにしましょう)
そう、言外に、告げているのだ。
しかし、アレクシスは、その「手打ち」に乗らなかった。
彼は、ルーナの、からかうような視線を、まっすぐに、その凍てつく青い瞳で、受け止めた。
「…芝居ではない」
「え?」
「俺は、貴様が、好ましい」
「…!」
アレクシスは、繰り返した。
はっきりと。
それは、エリオットに聞かせた時のような、芝居がかったものではない。
ただ、淡々と、事実だけを告げる、彼特有の、低い声だった。
「…あ、あの」
ルーナは、本気で、狼狽(うろた)えた。
スチームコンベクションオーブンを前にした時とは、全く質の違う、心臓の跳ね方だった。
「副団長様、あなた、お疲れなのですわ。王都の面倒ごとに、頭が、やられて…」
「俺は、至って、正気だ」
アレクシスは、ルーナの、しどろもどろの言い訳を、容赦なく遮った。
「貴様の、あの茶番(断罪劇)を、『面倒くさい』の一言で、受け入れた図太さも」
「う…」
「別荘の厨房で、心の底から、楽しそうに、小麦粉にまみれている姿も」
「あ…」
「マルシェで、村の子供に、あの笑顔(・・)を引き出された、貴様の『お菓子』も」
「…」
「そして、今、王子の、あの情けない懇願を、『面倒くさい』と、王妃の座ごと、蹴り飛ばした、その在り方も」
アレクシスは、そこで、一歩、ルーナに、近づいた。
ルーナは、その気迫に、思わず、一歩、後ずさる。
「その全てが、俺の知る、どの『淑女』とも、違っていた」
「……」
「そして、俺は、それを、好ましいと、思った」
それは、恋だの、愛だのという、甘ったるい言葉ではなかった。
だが、この「氷の騎士」アレクシス・ラインフォルトが、これ以上ないほど、誠実に、己の「本心」を、差し出した瞬間だった。
(…うそでしょう)
ルーナは、絶句した。
(この、堅物! 朴念仁! 氷の塊のような男が!)
(わたくしの、お菓子だけでは、なかったと!?)
ルーナの頭は、混乱の極みにあった。
だが、彼女は、アッシュフィールド公爵令嬢だ。
混乱しながらも、彼女の頭脳(主に、悪知恵の働く部分)は、この状況が、自分にとって、どれほど「有利」か、そして、どれほど「面白い」かを、瞬時に計算し始めていた。
(…なるほど)
ルーナは、混乱を、すうっと、心の奥底に押し込めた。
そして、顔を上げた。
その顔には、もはや、動揺はない。
獲物を見つけた、肉食獣のような、妖艶な「悪役令嬢」の、完璧な笑みが、浮かんでいた。
「…副団長様」
「…なんだ」
アレクシスは、この女が、また、何かを企んでいることを、察知し、わずかに、身構えた。
「わたくし、大変なことを、思い出してしまいましたわ」
「…」
「あなた様は、今、この王宮の、公衆の面前(エリオット王子)で」
ルーナは、アレクシスの胸に、人差し指を、つん、と当てた。
「この、罪深き『悪役令嬢』ルーナ・フォン・アッシュフィールドに、『好ましい』と、公言なさいましたわね?」
「…ああ。そうだ」
「しかも、わたくしと、腕まで組んで。傍から見れば、わたくしたち、完全に、恋仲ですわ」
(アンナが、壁際で、必死に、肩を震わせているのが、視界の端に入る)
「王都の噂は、光よりも早いですわよ? 今頃、『氷の騎士、悪役令嬢に陥落す!』『断罪された令嬢、監視役と駆け落ちか!?』などと、尾ひれがついて、広まっている頃でしょうね」
「…そう、だろうな」
アレクシスは、まるで、他人事のように、頷いた。
「わたくし、困ってしまいましたわ」
ルーナは、わざとらしく、ため息をついた。
「王子の手は、切れた。ですが、今度は、あなた様という『色男』との、あらぬ噂が、立ってしまった。これでは、わたくしが、別荘で、心安らかに『昼寝』もできませんわ」
「…」
「わたくしの、平穏な『謹慎』生活を、あなた様が、台無しに、してくださいましたのよ?」
ルーナは、アレクシスの、その青い瞳を、まっすぐに、射抜いた。
そして、この物語で、最も、悪質で、最も、甘い「脅迫」を、口にした。
「副団長様」
「…」
「責任、取ってくださいますわよね?」
その笑みは、小悪魔的で、挑発的で、そして、どこまでも、楽しそうだった。
アレクシスは、ルーナの、その「挑戦状」を、正面から、受け止めた。
彼は、数秒間、黙って、彼女を見つめ返した。
(…ああ。やはり)
彼は、悟った。
(俺は、この女の、こういうところに、惹かれたのだ)
アレクシスは、ゆっくりと、深く、息を吐き出した。
それは、諦めでも、屈辱でもない。
覚悟を、決めた、男の、静かなため息だった。
「…喜んで」
「え…」
アレクシスは、ルーナの、その人差し指が触れていた、胸元の、硬い騎士服を掴んだのではない。
彼は、ルーナの「手」そのものを、そっと、優しく、しかし、力強く、掴んだ。
それは、別荘で「検分」の皿を受け取る手とは、全く違う、熱を持った、男の手だった。
そして、アレクシス・ラインフォルトは。
「氷の騎士」は。
掴んだ、ルーナの手の甲に、唇を寄せる、その寸前で、動きを止め。
彼女の目の前で、深く、深く、片膝をついた。
王に捧げるよりも、丁寧な、完璧な、騎士の礼を。
「…っ!」
(う、嘘!? この堅物が! こんな、芝居がかったことを!?)
ルーナの方が、今度こそ、本気で、顔を赤らめた。
アレクシスは、片膝をついたまま、ルーナの手を、両手で包み込み、顔を上げた。
その瞳には、もう、一片の「氷」も残っていなかった。
あるのはただ、一人の女性に全てを捧げることを決意した男の熱だけだった。
「ルーナ・フォン・アッシュフィールド嬢」
「は、はい…」
「このアレクシス・ラインフォルト、生涯をかけて、貴女(あなた)の…そして、貴女の作る菓子の『責任』を取らせていただく」
それは世界で一番堅物で不器用で、そして最高に甘いプロポーズだった。
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