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屋敷に戻った私は、商人街で手に入れたマルタン工房との契約書を握りしめ、まっすぐ父の書斎へ向かった。
父は、相変わらず山積みの書類とにらめっこをしていた。
その疲弊しきった横顔に、私は胸が締め付けられる思いだったが、今は感傷に浸っている場合ではない。
「お父様。ただいま戻りました」
「おお、エレノアか。無事だったか……。まったく、お前という娘は。護衛もつけずに一人で出かけるなど」
父は私を咎(とが)める口調だったが、その声には安堵(あんど)の色が滲んでいた。
「ご心配をおかけしました。ですが、収穫はございましたわ」
私は、アルベールの名を伏せたまま、マルタン工房との契約書を父のデスクに差し出した。
「これは……?」
父は、怪訝(けげん)な顔で羊皮紙を手に取った。
そして、その内容に目を通すうちに、目を見開いていく。
「……馬鹿な。マルタン工房だと?あそこは、王家の御用達でもある、あの頑固なマルタンか。彼が、我らの鉱石を、しかもこの価格で?」
「はい。王家の影響が及ばぬよう、別の商会を経由しての取引となります。手はずは、すべて整えてまいりました」
「お前が……?お前が、どうやってこれを」
父は、信じられないという顔で、契約書と私を交互に見た。
「私には、私の『駒』がおりますゆえ」
私は、アルベールのことをそう表現した。
「王都の商人たちも、一枚岩ではございません。王家の圧力を疎(うと)ましく思っている者もおります。私たちは、そこを突いただけですわ」
父は、しばらくの間、言葉を失っていた。
彼がヴァルガス侯爵として長年守ってきたものが、王家によって一方的に奪われていくのを、ただ耐えるしかなかったのだ。
だが、私が持ち帰ったこの一枚の契約書は、単なる資金源の確保以上の意味を持っていた。
それは、王家に頼らずとも、ヴァルガス家が自らの力で立つ道が、まだ残されているという証明だった。
「……そうか。そうだったな」
父は、ふっと息を吐くと、顔を上げた。
その目には、数日前の絶望的な疲労の色ではなく、かつての領主としての鋭い光が戻りつつあった。
「私は、王家との関係ばかりに目を奪われて、足元を見ていなかった。我らの領地には、まだ力がある。それを、お前に教えられるとはな」
父は、その契約書を、まるで宝物のように大切そうに握りしめた。
「エレノア。よく、やってくれた」
その言葉は、私の胸に温かく響いた。
この契約を皮切りに、流れは少しずつ変わり始めた。
父が、マルタン工房とのルートを足掛かりに、これまで王家の目を気にして取引を渋っていた他の商人たちへも、慎重に接触を再開したのだ。
もちろん、全ての商人が戻ってきたわけではない。
あからさまに私たちを避ける者もいた。
だが、王家からの圧力に屈しなかったマルタン工房という実績が、他の商人たちの心を揺さぶったのだ。
「旦那様、古くからお付き合いのある、あのガルニエ商会が、面会を求めてきております!」
数日後、父の執事が慌てた様子で書斎に飛び込んできた。
ガルニエ商会は、父の代から続く、最も信頼の厚い取引先の一つだった。
しかし、今回の騒動で真っ先に距離を置いてきた商会でもあった。
「……通せ」
父は、静かにそう命じた。
私は、隣の部屋で、父とガルニ"エ商会の会頭(かいとう)との会話に耳を澄ませていた。
「この度は……誠に、申し訳ないことを……」
会頭は、ひどく恐縮していた。
「王家からの圧力が、あまりにも強く……。我らのような小さな商会では、逆らえなかったのです」
「……頭を上げてください、ガルニ"エ殿」
父の、静かで威厳のある声が響く。
「貴殿の立場も理解できる。過ぎたことを、今更とやかく言うつもりはない。それよりも、今後の話がしたい」
「!……では、侯爵様」
「ヴァルガス家は、まだ終わってはいない。我らの領地が産出する資源の価値は、王家の一存で決まるものではないはずだ。我らは、正当な取引をしてくれる相手となら、これまで通り、誠意をもって付き合うつもりだ」
「……ありがたき、お言葉!」
ガルニ"エ会頭の声は、安堵と、新たな決意に震えていた。
父は、王家への恨み言を一切口にしなかった。
ただ、領主として、商人としての「正道」を示しただけだった。
その姿は、なんと力強いことか。
会談が終わり、会頭が深々と頭を下げて帰っていくのを、私は隠れて見送った。
書斎に戻ると、父が窓の外を眺めて立っていた。
「……お父様」
「エレノア」
父は、ゆっくりと振り返った。
その顔は、私がずっと見てきた、誇り高きヴァルガス侯爵の顔だった。
彼は、泣きそうな顔で、しかし、心の底から嬉しそうに、笑ったのだ。
「お前の言う通りだった。我らは、まだ戦える」
父のその笑顔を見た瞬間、私の心に固く詰まっていた氷が、ほんの一部、音を立てて溶けた気がした。
私が選んだこの道。
婚約者に裏切られ、友に裏切られ、社交界から「悪役令嬢」と罵(ののし)られるこの道は、間違いではなかった。
エドワード様、リリアン様。
あなた方が私から奪ったのは、確かに大きかった。
けれど、私は、あなた方が奪おうとしたもの――この家族の誇りと未来を、この手で取り戻してみせる。
私は、ポケットの中に残っていた、あの日の焼き栗の、小さな紙袋を強く握りしめた。
父の再起は、始まったばかりだ。
父は、相変わらず山積みの書類とにらめっこをしていた。
その疲弊しきった横顔に、私は胸が締め付けられる思いだったが、今は感傷に浸っている場合ではない。
「お父様。ただいま戻りました」
「おお、エレノアか。無事だったか……。まったく、お前という娘は。護衛もつけずに一人で出かけるなど」
父は私を咎(とが)める口調だったが、その声には安堵(あんど)の色が滲んでいた。
「ご心配をおかけしました。ですが、収穫はございましたわ」
私は、アルベールの名を伏せたまま、マルタン工房との契約書を父のデスクに差し出した。
「これは……?」
父は、怪訝(けげん)な顔で羊皮紙を手に取った。
そして、その内容に目を通すうちに、目を見開いていく。
「……馬鹿な。マルタン工房だと?あそこは、王家の御用達でもある、あの頑固なマルタンか。彼が、我らの鉱石を、しかもこの価格で?」
「はい。王家の影響が及ばぬよう、別の商会を経由しての取引となります。手はずは、すべて整えてまいりました」
「お前が……?お前が、どうやってこれを」
父は、信じられないという顔で、契約書と私を交互に見た。
「私には、私の『駒』がおりますゆえ」
私は、アルベールのことをそう表現した。
「王都の商人たちも、一枚岩ではございません。王家の圧力を疎(うと)ましく思っている者もおります。私たちは、そこを突いただけですわ」
父は、しばらくの間、言葉を失っていた。
彼がヴァルガス侯爵として長年守ってきたものが、王家によって一方的に奪われていくのを、ただ耐えるしかなかったのだ。
だが、私が持ち帰ったこの一枚の契約書は、単なる資金源の確保以上の意味を持っていた。
それは、王家に頼らずとも、ヴァルガス家が自らの力で立つ道が、まだ残されているという証明だった。
「……そうか。そうだったな」
父は、ふっと息を吐くと、顔を上げた。
その目には、数日前の絶望的な疲労の色ではなく、かつての領主としての鋭い光が戻りつつあった。
「私は、王家との関係ばかりに目を奪われて、足元を見ていなかった。我らの領地には、まだ力がある。それを、お前に教えられるとはな」
父は、その契約書を、まるで宝物のように大切そうに握りしめた。
「エレノア。よく、やってくれた」
その言葉は、私の胸に温かく響いた。
この契約を皮切りに、流れは少しずつ変わり始めた。
父が、マルタン工房とのルートを足掛かりに、これまで王家の目を気にして取引を渋っていた他の商人たちへも、慎重に接触を再開したのだ。
もちろん、全ての商人が戻ってきたわけではない。
あからさまに私たちを避ける者もいた。
だが、王家からの圧力に屈しなかったマルタン工房という実績が、他の商人たちの心を揺さぶったのだ。
「旦那様、古くからお付き合いのある、あのガルニエ商会が、面会を求めてきております!」
数日後、父の執事が慌てた様子で書斎に飛び込んできた。
ガルニエ商会は、父の代から続く、最も信頼の厚い取引先の一つだった。
しかし、今回の騒動で真っ先に距離を置いてきた商会でもあった。
「……通せ」
父は、静かにそう命じた。
私は、隣の部屋で、父とガルニ"エ商会の会頭(かいとう)との会話に耳を澄ませていた。
「この度は……誠に、申し訳ないことを……」
会頭は、ひどく恐縮していた。
「王家からの圧力が、あまりにも強く……。我らのような小さな商会では、逆らえなかったのです」
「……頭を上げてください、ガルニ"エ殿」
父の、静かで威厳のある声が響く。
「貴殿の立場も理解できる。過ぎたことを、今更とやかく言うつもりはない。それよりも、今後の話がしたい」
「!……では、侯爵様」
「ヴァルガス家は、まだ終わってはいない。我らの領地が産出する資源の価値は、王家の一存で決まるものではないはずだ。我らは、正当な取引をしてくれる相手となら、これまで通り、誠意をもって付き合うつもりだ」
「……ありがたき、お言葉!」
ガルニ"エ会頭の声は、安堵と、新たな決意に震えていた。
父は、王家への恨み言を一切口にしなかった。
ただ、領主として、商人としての「正道」を示しただけだった。
その姿は、なんと力強いことか。
会談が終わり、会頭が深々と頭を下げて帰っていくのを、私は隠れて見送った。
書斎に戻ると、父が窓の外を眺めて立っていた。
「……お父様」
「エレノア」
父は、ゆっくりと振り返った。
その顔は、私がずっと見てきた、誇り高きヴァルガス侯爵の顔だった。
彼は、泣きそうな顔で、しかし、心の底から嬉しそうに、笑ったのだ。
「お前の言う通りだった。我らは、まだ戦える」
父のその笑顔を見た瞬間、私の心に固く詰まっていた氷が、ほんの一部、音を立てて溶けた気がした。
私が選んだこの道。
婚約者に裏切られ、友に裏切られ、社交界から「悪役令嬢」と罵(ののし)られるこの道は、間違いではなかった。
エドワード様、リリアン様。
あなた方が私から奪ったのは、確かに大きかった。
けれど、私は、あなた方が奪おうとしたもの――この家族の誇りと未来を、この手で取り戻してみせる。
私は、ポケットの中に残っていた、あの日の焼き栗の、小さな紙袋を強く握りしめた。
父の再起は、始まったばかりだ。
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