もう何も奪わせない。私が悪役令嬢になったとしても。

パリパリかぷちーの

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俺の、第一王子エドワード・フォン・ロートリンゲンの内側で、何かが決定的に崩れ始めていた。

あの王妃主催の茶会以来、俺の頭の中は、エレノアに支配されている。

いや、正確には、俺が今まで「エレノア」だと思い込んでいた虚像と、現実の彼女との、あまりにも激しい乖離(かいり)に混乱しているのだ。

「エドワード様、わたくし、もう耐えられません……」

リリアンが、今日も俺の執務室にやってきて、美しい顔を涙で濡らしている。

以前ならば、その涙を見るたびに、俺の心は庇護欲で満たされた。

この可憐な花を、俺が守らねば、と。

だが、今はどうだ。

その涙が、俺の苛立ちを煽るだけだった。

「リリアン、泣くのはやめろ。君は、いつもそうだ。具体的に何があった」

「……!」

俺の冷たい声に、リリアンは怯えたように顔を上げた。

「エドワード、様……?どうして、そんな、冷たいことを……」

「冷たいのは、どちらだ」

俺は、思わず口走っていた。

「君は、エレノアが怖い、エレノアが変わってしまったと泣くばかりで、俺が知りたいことに何一つ答えてくれていない」

「わたくしが、知りたいこと……?」

「そうだ。俺は、君の『純粋さ』を信じて、エレノアとの婚約を破棄した。だが、本当にそうだったのか?エレノアは、本当に『妃教育が窮屈だ』と、君に愚痴をこぼしたのか?」

俺が低い声で問い詰めると、リリアンの顔が、さっと青ざめた。

「そ、それは……。エレノア様は、確かに……『少し疲れた』と……」

「『少し疲れた』だと?」

俺は、机を叩きたい衝動を、かろうじて抑え込んだ。

「君が俺に伝えたのは、そんな生易しい言葉ではなかったはずだ。『王子妃の座は望んだものではない』と、そう嘆いていたと、君は確かに言った!」

「あ……。あ……」

リリアンは、可哀想なほど狼狽(うろた)え、言葉を探している。

その姿は、もはや俺の目には、追い詰められた嘘つきにしか映らなかった。

「もういい。下がれ。一人で考えたい」

「エドワード様!お待ちください、わたくしは!」

「下がれと言った!」

俺が声を荒らげると、リリアンはびくりと肩を震わせ、今度こそ本物の絶望のような表情を浮かべて、部屋から逃げるように出ていった。

一人きりになった執務室で、俺は頭を抱えた。

馬鹿だ。

俺は、なんて愚かな男だ。

俺は、リリアンの涙と、計算された「弱さ」に、まんまと踊らされていたのだ。

では、俺が「冷たい女」と断罪したエレノアは、どうだった?

彼女は、俺に「疲れた」と愚痴をこぼしたことがあっただろうか。

いや、一度もない。

彼女は、俺がどれだけ公務に追われ、彼女との約束を反故(ほご)にしても、文句一つ言わなかった。

ただ、静かに微笑んで、「お勤め、ご苦労様です」と、俺の体を気遣うだけだった。

俺は、その完璧さを「感情がない」のだと、傲慢(ごうまん)にも決めつけていた。

だが、違ったのではないか?

彼女のあの完璧な振る舞いは、全て、俺という未来の王を支えるため、自らの感情を殺し、必死に耐えてきた「努力」の証(あかし)だったのではないか?

俺は、その努力を踏みにじった。

あろうことか、公衆の面前で、彼女の尊厳をズタズタに引き裂いたのだ。

「……っ」

胸が、罪悪感で焼け付くようだ。

俺は、自分の側近である、信頼できる騎士団長を密かに呼び寄せた。

「……調べてくれ」

「は。何を、でございましょうか」

「エレノア……ヴァルガス侯爵令嬢の、婚約破棄後の、全ての行動だ。公の場で何を言い、誰と会い、そして、ヴァルガス家がどうやって再起したのか。……金の流れも含めて、全てだ」

「……殿下。それは、既に王妃様の息がかかった者たちが調べているはずですが」

「母上の報告は、信用ならん。リリアンに都合の良いように脚色されている可能性がある。俺自身の目で、真実が知りたい。……頼む」

俺が頭を下げる勢いでそう言うと、騎士団長は、何かを察したように、ただ静かに頷いた。

「御意」

報告は、三日後に俺の手元に届いた。

それは、俺の想像を、遥かに超えるものだった。

「……馬鹿な」

俺は、報告書を読んで、愕然(がくぜん)とした。

「……エレノアが、自ら平民の格好で、商人街に……?」

「は。それも、王家の監視を巧みにかわし、新規の取引先であるマルタン工房と、高額の契約を直接取りまとめた、と」

「マルタンだと?あの、王家にも牙をむく、頑固者のマルタンか」

「はい。それだけではございません。彼女は、王家からの助成が途絶え、絶望していたヴァルガス侯爵を『まだ戦える』と叱咤(しった)し、ガルニエ商会をはじめとする、離れかけていた古参の商人たちを、呼び戻すきっかけを作った、とも」

報告書には、エレノアが父である侯爵と交わしたという会話まで、詳細に記されていた。

俺が知るエレノアは、常に父の後ろに隠れているような、控えめな娘だったはずだ。

それが、今や、あの百戦錬磨の侯爵を、娘である彼女が導いているというのか。

「……そして、殿下」

騎士団長が、言いにくそうに口を開いた。

「例の茶会での一件ですが……。あれ以来、社交界でのエレノEア嬢の評価は、二分しております」

「二分?」

「『恐ろしい悪女になった』と表立って非難する声がある一方で……」

「一方で?」

「『あれこそ、真の貴族の姿だ』と、彼女の堂々とした態度を密かに称賛する声が、増え始めているのです」

「……!」

「王家の圧力と、リリアン王女の涙に屈せず、たった一人で家を守ろうと戦う姿に、心を打たれた者も少なくない、と。特に、王家のやり方に不満を持つ、古参の貴族たちの一部が……」

俺は、報告書を握りしめ、立ち上がった。

俺は、全てを間違えていた。

俺が「冷たい人形」だと思い、捨てた女は、国母(こくも)となるにふさわしい、誰よりも強く、気高く、そして賢明な「指導者」だった。

リリアンの可憐さに目が眩(くら)み、俺は、この国にとって最も価値のある宝を、自らの手で放り出してしまったのだ。

胸の奥から、後悔という名の、熱いマグマが噴き上がってくる。

リリアン?

あんな偽物の涙を流す女など、どうでもいい。

俺の隣に立つべき女は、エレノアだけだ。

俺が、この手で、彼女を傷つけた。

ならば、俺が、この手で、彼女を取り戻さなければならない。

たとえ、彼女が今、俺をどれほど憎んでいたとしても。

たとえ、彼女が「悪役令嬢」と呼ばれるようになっていたとしても。

「……エレノア」

俺は、決意を固めた。

彼女を取り戻す。

それが、俺の犯した最大の過ちを償う、唯一の道だ。

俺は、自分のその決意が、どれほど独善的で、エレノアの心をさらに踏みにじることになる可能性に、まだ気づいていなかった。
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