夏の嵐

萩尾雅縁

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 散歩がてら、木漏れ日の舞う木立をぬけて川に向かった。鬱蒼と覆い被さる梢の向こうに、田舎造りのボート小屋のいくつもの梁を渡した白い土壁と、頂の赤茶と白を組み合わせた瓦屋根が覗き見える。

 鉄の扉を開けて足を踏みいれる。ひんやりと湿った空気に身ぶるいする。天窓から日の光がちらちらと差し込むなか、川の水が白壁に映り不安定な影を刻む。白いボートがゆらゆらと漕ぎ手を催促するようにその身を揺すっている。

 隣接する室内では、兄と友人たちが声高に喋り笑いながら、ドヤドヤと足音も高くボートを出す準備を始めていた。みんなニヤニヤ笑いあいながら意味深な表情で、誰がお嬢さん方を迎えにいくかを相談していた。あの美人のネル嬢と冴えないルーシー嬢は、マーカスが車で対岸まで送ることになっていたのだ。怪我をしているネル嬢は、まだ歩くのは辛そうだから。それに屋敷からの小径は、車で走る様にはできていないのだ。
 僕とロバートは兄の友人たちの様子に当惑し、もじもじしながら何をするでもなく互いにチラチラと顔を見合わせていた。
 そんなとき、兄が僕を呼んだ。急ぎの用事でもあるかのように僕の腕を取り、別のドアを開けて川に張りだしているデッキに誘った。


「今年の夏は暑いだろう? 薔薇が例年より夏バテ気味なんだよ。それに、ゴードンがコガネムシの幼虫を見つけたんだ。あれは薔薇の大敵だからね。僕は今日中に被害の具合を調べて対策を練りたいんだ。だから、お前、僕がさりげなく屋敷に帰れるように何か理由を考えてくれないかい?」
 兄は僕に顔を寄せ、しかめっ面をして囁いた。僕は呆れて、そんな兄を上目遣いに見あげる。
「正直に言えばいいんじゃないの?」
「そんな訳にはいかない。仮にも僕がホストなんだし」
 兄は唇を尖らせる。僕は、今度ははっきりと大きくため息をついて見せた。けれど、兄の悄然とした透き通るライムグリーンの瞳を見あげていると、急におかしさが込みあげてきて噴きだしてしまった。


「ディック!」
 兄の友人がドアの向こうで呼んでいる。僕は急いで兄の耳に口を寄せて囁いた。
「マーカスに、帰りたい、て言えばいいんだよ。そうすれば、後はマーカスが上手くやってくれるよ」
 兄は一瞬呆気に取られ、「さすが僕の弟!」と、僕の額の髪の生え際に軽くキスしてにっこりした。僕にお礼を言うときの兄のこの癖が、今ではちょっと気恥ずかしい。パブリックスクールに入学してからは、僕はもう小さな子どもじゃないんだよ、と何度も言っているのに、兄はいまだに止めてくれない。

 兄は僕の背中をパシッとはたき、「僕も行く!」とドアの向こうに消えた。



 ボートを漕ぐ兄とエリック卿が、川の中ほどからデッキで手を振る僕たちに手を振り返している。ボートはすぐに対岸の船着き場に着き、兄が軽やかな身のこなしでボートから飛びおりているのが見えた。
 川べりの草地に面した車道にはすでに車が到着している。その開かれたドアに身を屈めると、兄はネル嬢を軽々と抱えあげ、あっという間にボートに座らせていた。次いで、後ろに控えていたルーシー嬢の手を取ってボートに移るのを手伝っている。


 戻ってきたボートから彼女たちが下りるのを手伝い、エリック卿がデッキに戻ってきた。漕ぎ手は彼から別の友人に変わって、兄とマーカスを迎えるためにまた川へ漕ぎだしている。

 対岸に残った兄が大声で「すまないね!」と、みんなに大きく手を振った。こちら側では驚いた兄の友人たちが口々に兄を呼び、腕を振り回して「戻って来い!」と叫んでいる。兄はにこにこと手を振りながら停めてある車に乗りこむと、Uターンして行ってしまった。

 当然兄が戻ってくるもの、と思っていた兄の友人たちは、一人で渡って来たマーカスに不満そうな顔を向けた。
「ちょうど皆さまが出かけられました後に、ロンドンよりお電話がございまして、」
 マーカスが精一杯申し訳なさそうな顔をして説明しているのを、僕は素知らぬ顔をして聞いていた。こういう事はマーカスに任せておけば間違いないのだ。だって彼は、誰よりも兄のことを判っているもの。それよりも――。
 僕はそっと、エリック卿の腕を借りて覚束ない足取りでデッキを歩き、マーカスが椅子を用意するのを待っている彼女を眺めた。

 モノトーンのストライプのショートサロペットが、さっき会ったときとはまた違う彼女の繊細な魅力を引きだしている。広く開いた背中の軽く反ったラインが折れそうにか細くて、彼女の後姿はどこか頼りなげで淋しそうに見えた。

 マーカスの声に応じて、ネル嬢はつばの広い柔らかな麦わら帽子に白く細い指を添えて、デッキチェアに優雅に腰かけた。
 でも、その背中の印象とは裏腹に、対岸に向けられた彼女のおもてはどこか苛ついているようで――。可憐な唇はこころなしかへの字に結ばれて見え、何よりも彼女のセレストブルーの瞳が、夏の日の夕焼け空に似て、燃えているかのような強い輝きを放ちながら何かを睨めつけているようだった。





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