6 / 28
5
しおりを挟む
散歩がてら、木漏れ日の舞う木立をぬけて川に向かった。鬱蒼と覆い被さる梢の向こうに、田舎造りのボート小屋のいくつもの梁を渡した白い土壁と、頂の赤茶と白を組み合わせた瓦屋根が覗き見える。
鉄の扉を開けて足を踏みいれる。ひんやりと湿った空気に身ぶるいする。天窓から日の光がちらちらと差し込むなか、川の水が白壁に映り不安定な影を刻む。白いボートがゆらゆらと漕ぎ手を催促するようにその身を揺すっている。
隣接する室内では、兄と友人たちが声高に喋り笑いながら、ドヤドヤと足音も高くボートを出す準備を始めていた。みんなニヤニヤ笑いあいながら意味深な表情で、誰がお嬢さん方を迎えにいくかを相談していた。あの美人のネル嬢と冴えないルーシー嬢は、マーカスが車で対岸まで送ることになっていたのだ。怪我をしているネル嬢は、まだ歩くのは辛そうだから。それに屋敷からの小径は、車で走る様にはできていないのだ。
僕とロバートは兄の友人たちの様子に当惑し、もじもじしながら何をするでもなく互いにチラチラと顔を見合わせていた。
そんなとき、兄が僕を呼んだ。急ぎの用事でもあるかのように僕の腕を取り、別のドアを開けて川に張りだしているデッキに誘った。
「今年の夏は暑いだろう? 薔薇が例年より夏バテ気味なんだよ。それに、ゴードンがコガネムシの幼虫を見つけたんだ。あれは薔薇の大敵だからね。僕は今日中に被害の具合を調べて対策を練りたいんだ。だから、お前、僕がさりげなく屋敷に帰れるように何か理由を考えてくれないかい?」
兄は僕に顔を寄せ、しかめっ面をして囁いた。僕は呆れて、そんな兄を上目遣いに見あげる。
「正直に言えばいいんじゃないの?」
「そんな訳にはいかない。仮にも僕がホストなんだし」
兄は唇を尖らせる。僕は、今度ははっきりと大きくため息をついて見せた。けれど、兄の悄然とした透き通るライムグリーンの瞳を見あげていると、急におかしさが込みあげてきて噴きだしてしまった。
「ディック!」
兄の友人がドアの向こうで呼んでいる。僕は急いで兄の耳に口を寄せて囁いた。
「マーカスに、帰りたい、て言えばいいんだよ。そうすれば、後はマーカスが上手くやってくれるよ」
兄は一瞬呆気に取られ、「さすが僕の弟!」と、僕の額の髪の生え際に軽くキスしてにっこりした。僕にお礼を言うときの兄のこの癖が、今ではちょっと気恥ずかしい。パブリックスクールに入学してからは、僕はもう小さな子どもじゃないんだよ、と何度も言っているのに、兄はいまだに止めてくれない。
兄は僕の背中をパシッとはたき、「僕も行く!」とドアの向こうに消えた。
ボートを漕ぐ兄とエリック卿が、川の中ほどからデッキで手を振る僕たちに手を振り返している。ボートはすぐに対岸の船着き場に着き、兄が軽やかな身のこなしでボートから飛びおりているのが見えた。
川べりの草地に面した車道にはすでに車が到着している。その開かれたドアに身を屈めると、兄はネル嬢を軽々と抱えあげ、あっという間にボートに座らせていた。次いで、後ろに控えていたルーシー嬢の手を取ってボートに移るのを手伝っている。
戻ってきたボートから彼女たちが下りるのを手伝い、エリック卿がデッキに戻ってきた。漕ぎ手は彼から別の友人に変わって、兄とマーカスを迎えるためにまた川へ漕ぎだしている。
対岸に残った兄が大声で「すまないね!」と、みんなに大きく手を振った。こちら側では驚いた兄の友人たちが口々に兄を呼び、腕を振り回して「戻って来い!」と叫んでいる。兄はにこにこと手を振りながら停めてある車に乗りこむと、Uターンして行ってしまった。
当然兄が戻ってくるもの、と思っていた兄の友人たちは、一人で渡って来たマーカスに不満そうな顔を向けた。
「ちょうど皆さまが出かけられました後に、ロンドンよりお電話がございまして、」
マーカスが精一杯申し訳なさそうな顔をして説明しているのを、僕は素知らぬ顔をして聞いていた。こういう事はマーカスに任せておけば間違いないのだ。だって彼は、誰よりも兄のことを判っているもの。それよりも――。
僕はそっと、エリック卿の腕を借りて覚束ない足取りでデッキを歩き、マーカスが椅子を用意するのを待っている彼女を眺めた。
モノトーンのストライプのショートサロペットが、さっき会ったときとはまた違う彼女の繊細な魅力を引きだしている。広く開いた背中の軽く反ったラインが折れそうにか細くて、彼女の後姿はどこか頼りなげで淋しそうに見えた。
マーカスの声に応じて、ネル嬢はつばの広い柔らかな麦わら帽子に白く細い指を添えて、デッキチェアに優雅に腰かけた。
でも、その背中の印象とは裏腹に、対岸に向けられた彼女の面はどこか苛ついているようで――。可憐な唇はこころなしかへの字に結ばれて見え、何よりも彼女のセレストブルーの瞳が、夏の日の夕焼け空に似て、燃えているかのような強い輝きを放ちながら何かを睨めつけているようだった。
鉄の扉を開けて足を踏みいれる。ひんやりと湿った空気に身ぶるいする。天窓から日の光がちらちらと差し込むなか、川の水が白壁に映り不安定な影を刻む。白いボートがゆらゆらと漕ぎ手を催促するようにその身を揺すっている。
隣接する室内では、兄と友人たちが声高に喋り笑いながら、ドヤドヤと足音も高くボートを出す準備を始めていた。みんなニヤニヤ笑いあいながら意味深な表情で、誰がお嬢さん方を迎えにいくかを相談していた。あの美人のネル嬢と冴えないルーシー嬢は、マーカスが車で対岸まで送ることになっていたのだ。怪我をしているネル嬢は、まだ歩くのは辛そうだから。それに屋敷からの小径は、車で走る様にはできていないのだ。
僕とロバートは兄の友人たちの様子に当惑し、もじもじしながら何をするでもなく互いにチラチラと顔を見合わせていた。
そんなとき、兄が僕を呼んだ。急ぎの用事でもあるかのように僕の腕を取り、別のドアを開けて川に張りだしているデッキに誘った。
「今年の夏は暑いだろう? 薔薇が例年より夏バテ気味なんだよ。それに、ゴードンがコガネムシの幼虫を見つけたんだ。あれは薔薇の大敵だからね。僕は今日中に被害の具合を調べて対策を練りたいんだ。だから、お前、僕がさりげなく屋敷に帰れるように何か理由を考えてくれないかい?」
兄は僕に顔を寄せ、しかめっ面をして囁いた。僕は呆れて、そんな兄を上目遣いに見あげる。
「正直に言えばいいんじゃないの?」
「そんな訳にはいかない。仮にも僕がホストなんだし」
兄は唇を尖らせる。僕は、今度ははっきりと大きくため息をついて見せた。けれど、兄の悄然とした透き通るライムグリーンの瞳を見あげていると、急におかしさが込みあげてきて噴きだしてしまった。
「ディック!」
兄の友人がドアの向こうで呼んでいる。僕は急いで兄の耳に口を寄せて囁いた。
「マーカスに、帰りたい、て言えばいいんだよ。そうすれば、後はマーカスが上手くやってくれるよ」
兄は一瞬呆気に取られ、「さすが僕の弟!」と、僕の額の髪の生え際に軽くキスしてにっこりした。僕にお礼を言うときの兄のこの癖が、今ではちょっと気恥ずかしい。パブリックスクールに入学してからは、僕はもう小さな子どもじゃないんだよ、と何度も言っているのに、兄はいまだに止めてくれない。
兄は僕の背中をパシッとはたき、「僕も行く!」とドアの向こうに消えた。
ボートを漕ぐ兄とエリック卿が、川の中ほどからデッキで手を振る僕たちに手を振り返している。ボートはすぐに対岸の船着き場に着き、兄が軽やかな身のこなしでボートから飛びおりているのが見えた。
川べりの草地に面した車道にはすでに車が到着している。その開かれたドアに身を屈めると、兄はネル嬢を軽々と抱えあげ、あっという間にボートに座らせていた。次いで、後ろに控えていたルーシー嬢の手を取ってボートに移るのを手伝っている。
戻ってきたボートから彼女たちが下りるのを手伝い、エリック卿がデッキに戻ってきた。漕ぎ手は彼から別の友人に変わって、兄とマーカスを迎えるためにまた川へ漕ぎだしている。
対岸に残った兄が大声で「すまないね!」と、みんなに大きく手を振った。こちら側では驚いた兄の友人たちが口々に兄を呼び、腕を振り回して「戻って来い!」と叫んでいる。兄はにこにこと手を振りながら停めてある車に乗りこむと、Uターンして行ってしまった。
当然兄が戻ってくるもの、と思っていた兄の友人たちは、一人で渡って来たマーカスに不満そうな顔を向けた。
「ちょうど皆さまが出かけられました後に、ロンドンよりお電話がございまして、」
マーカスが精一杯申し訳なさそうな顔をして説明しているのを、僕は素知らぬ顔をして聞いていた。こういう事はマーカスに任せておけば間違いないのだ。だって彼は、誰よりも兄のことを判っているもの。それよりも――。
僕はそっと、エリック卿の腕を借りて覚束ない足取りでデッキを歩き、マーカスが椅子を用意するのを待っている彼女を眺めた。
モノトーンのストライプのショートサロペットが、さっき会ったときとはまた違う彼女の繊細な魅力を引きだしている。広く開いた背中の軽く反ったラインが折れそうにか細くて、彼女の後姿はどこか頼りなげで淋しそうに見えた。
マーカスの声に応じて、ネル嬢はつばの広い柔らかな麦わら帽子に白く細い指を添えて、デッキチェアに優雅に腰かけた。
でも、その背中の印象とは裏腹に、対岸に向けられた彼女の面はどこか苛ついているようで――。可憐な唇はこころなしかへの字に結ばれて見え、何よりも彼女のセレストブルーの瞳が、夏の日の夕焼け空に似て、燃えているかのような強い輝きを放ちながら何かを睨めつけているようだった。
0
あなたにおすすめの小説
私の守護霊さん
Masa&G
キャラ文芸
大学生活を送る彩音には、誰にも言えない秘密がある。
彼女のそばには、他人には姿の見えない“守護霊さん”がずっと寄り添っていた。
これは——二人で過ごした最後の一年を描く、かけがえのない物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
鷹鷲高校執事科
三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。
東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。
物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。
各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。
表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)
眠らせ森の恋
菱沼あゆ
キャラ文芸
新米秘書の秋名つぐみは、あまり顔と名前を知られていないという、しょうもない理由により、社長、半田奏汰のニセの婚約者に仕立て上げられてしまう。
なんだかんだで奏汰と同居することになったつぐみは、襲われないよう、毎晩なんとかして、奏汰をさっさと眠らせようとするのだが――。
おうちBarと眠りと、恋の物語。
あやかし警察おとり捜査課
紫音みけ🐾新刊2月中旬発売!
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。
しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。
反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる