夏の嵐

萩尾雅縁

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 夢現ゆめうつつの狭間で、遠く、揶揄うような甲高い笑い声が耳をつく。

 パチリと瞼を開き、天井を覆う深緑色の天蓋を見つめた。もう部屋の中には柔らかい朝の光が差し込んでいる。鳥の囀りも聞こえる。
 ぼんやりとした寝不足の頭を持ちあげてベッドの上にあぐらをかくと、昨夜のことをもう一度反芻する。

 夢だったのだろうか――。

 彼女のことばかり考えすぎているから、その声を聞いたと錯覚してしまったのだ、きっと。

 チラリと時計を見遣り、もう一度寝直そうとゴロリと身体を横たえる。ゴロリ、ゴロリと、なんだか納得のいかないまま、何度も何度もベッドの上を転がってみる。もともとどんよりと頭が重かったのに、目まで廻ってきた。馬鹿馬鹿しくて、ため息がでる。

 夢の訳がないじゃないか――。

 身体は怠くて嫌がったけれど、かえって寝ていられなくて僕はベッドを下り、開け放しの窓から入る、わずかな風にそよそよと揺れるカーテンを勢いよく開けた。窓枠に手をついて、昨夜のようにテラスに目を遣る。

 驚きのあまり息が止まった。夢の続きを見ているみたいだ。
 まだみんな眠っているに違いないこんな時間だというのに、テラスに置かれたガーデンチェアーに彼女が腰かけ、欄干に腕を預けて、熱心に庭を眺めているではないか。彼女の視線の先はきっと薔薇園だ。兄があれだけ精魂込めて世話しているのだもの。今が盛りと、今日も見事に咲き誇っているのだから。

 兄さん、ありがとう!

 僕は心の中で兄に感謝を捧げながら、ドアに駆け寄り――、危うくそのまま駆けだしていくところを寸前でチラリと覗いた鏡のおかげで助かった。
 急いでパジャマを脱ぎ捨てて身支度をする。焦って変な恰好をしていないか、鏡の前で念入りにチェックを入れる。
 兄はいつでも僕の偉大な反面教師だ。ありがとう、兄さん。



「おはようございます」
 僕はできるだけ彼女を驚かさないように、朗らかに聞こえるように、気を遣いながら声をかけた。
 彼女はゆっくりと振り向いた。
「おはよう、早起きね」
 どこか気だるげな様子で、ちょっと微笑む。

 今朝の彼女は、灰色のシンプルなミニドレスに、丈の長い白のカーディガンを羽織っている。早朝の空気は彼女には冷たすぎるのか、彼女の剥きだしの白い脚には鳥肌が立っているようだった。少し震えるようでいて、それでいて脱力しきっていて、いつものピリピリとした感じの無い彼女は、なぜだかひどく艶めかしく見えて、僕は恥ずかしくなって目線を伏せる。

「お茶はいかがですか? 夏とはいえ、この時間はまだ少し冷えますから」
「コーヒーにして」

 彼女は庭に視線を固定したまま囁くように応えてくれた。
 僕は嬉々として室内に戻り、執事のボイドを呼んだ。


 要件を告げるとすぐさまテラスに戻り、いそいそと彼女の横に椅子を寄せる。
「薔薇がお好きなんですね」
 僕の上擦った声に、彼女がチラリと視線を向ける。
「庭を案内しましょうか? 薔薇以外にも、この季節ならいろいろ――、あ、兄がいれば花の名前とか、何が見頃とか訊けますよ」

 僕は花には興味がないし、もちろん、その名前なんて知るはずもない。慌てて誤魔化すように言葉を濁した僕に、「そうね、素敵ね」と彼女はまたちょっと微笑んで応えてくれた。

 やっぱりこれは夢なんだ――。

 僕はこの幸運がいまだに信じられなくて、どうやったって弛んでいく頬が恥ずかしくて、自分の指の、爪の先ばかり見ていた。ちょっとささくれができている。後でハンドクリームを塗らなきゃ。


 そうこうするうちに、ボイドではなくマーカスが、二人分の朝食とコーヒーを運んできた。
「おはよう、マーカス。ってことは、兄さんはもう庭にいるの?」
 僕は立ちあがると欄干に手をつき、くまなく庭の隅々まで兄の姿がないか見渡してみる。
「はい。お庭にいらっしゃいます」
 湯気のたつコーヒーをカップに注ぎながらボイドが答えた。
「兄さん、朝食は?」
「いいえ、先に水遣りを済ませてからとおっしゃられたので」

「兄さーん! 兄さーん!」
 僕は口元に手を当てて、大声で呼んでみた。

 案の定、薔薇の繁みの中から麦わら帽子が立ちあがる。
「おはよう、ジオ!」
 大きく腕を振る兄に、僕も手を振り返す。
「兄さん、一緒に朝食を食べよう!」
 兄はOKのサインを出し、こちらに向かって歩きだす。

「マーカス、兄さんの分、」
「私、朝食はいつもいただかないの」

 彼女が、セレストブルーの瞳をマーカスに向けて唐突に告げた。マーカスはにこやかな笑みを浮かべて、「存じております」と頷く。
 この二人分の朝食は、初めから僕と兄のためだったらしい。それに兄の紅茶も、ちゃんと用意されてある。


 テラスに上がってきた兄の恰好に、僕はやっぱりため息をついた。今朝の兄は、別段おかしな恰好をしていた訳ではない。赤チェックのシャツも、灰色のスラックスも、いつもの緑色の長靴も、たぶん普通だ。ただ農夫にしか見えないだけで――。そして兄が、どうやったって農夫には見えないだけで――。
 兄の服装と、兄の生来の気品がこうまでもミスマッチなのは、本当にどうにかならないものだろうか?
 それにしても、いったい兄はどこでこんな服を手に入れてくるのだろう? 兄のいきつけの『アンダーソン』で、こんな農作業服が売っているとは、到底思えない。そしてこの兄が、そこ以外に服を買える店を知っているとも思えないのだ……。


「兄さん、それ何?」
「これ? コガネムシの幼虫。害虫なんだけど殺してしまうのも可哀想でね。プランタの土の耕し役で働いてもらおうと思って集めたんだ。まったく参ったよ。こんなにいるなんて思ってもみなかった。酷い被害だ!」

 兄は、大きなため息をつき、テーブルの足元にバケツを置いた。
 何気なく、彼女の視線がそのバケツの中に向けられる。

 マズい!

 そう思った時には遅かった。
 一瞬にして真っ青になり、ふらりと立ちあがった彼女は、そのまま足下から崩れかかった。勢い兄の腕が彼女を支える。すぐさまマーカスが駆け寄り彼女を抱えあげて運んでいった。
 兄はまたストンと椅子に腰を下し、しばらく申し訳なさそうにマーカスの背中を見送っていたけれど、ひょいっと肩をすくめると気を取り直して食事を始めた。

 僕は身を乗りだして、兄越しに彼女の意識を奪った原因を怖々と確かめた。
 銀色に光るブリキのバケツの中で、乳白色の芋虫のような奴が重なり合って蠢いていた。

 彼女の気持ちがよく分かった。僕まで吐き気がしてきたもの。

 兄さん、朝食の席にこれはないだろ?




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