夏の嵐

萩尾雅縁

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「害虫で害虫を追い払ったんだって?」

 開け放たれたガラス戸から爽やかな風と一緒に、そんな言葉が飛び込んできた。
 図書室のソファーでうつらうつらとうたた寝していた僕は、害虫って、あのコガネムシの幼虫のことかな? 兄さん、殺さずに働いてもらうって言っていたものな――、と寝ぼけた頭で今朝のあの事件を思いだしていた。

「虫も殺さぬ優し気な顔をしておいて、きみは、ときに小気味良いほど底意地が悪いね!」

 だから、兄さんは、コガネムシだって殺さないって!

 頭の中で声の主に反論する。

「もうそろそろお引き取り願わないと、僕の忍耐にも限度があるからね」

 ああ、この声は兄さんだ。そうそう、早く駆除しないと、コガネムシに薔薇の根っこを食い荒らされてしまうんだよね。

「だいたい、いつから僕の家は売春宿になったんだい? 他人の家で好き勝手するにもほどがあるだろ?」
「いやいや、それは言いすぎだよ。いくらなんでもそこまで酷くはないさ。あいつらだって節度を持って遊んでいるって」

 エリック卿の忍び笑いが聞こえる。

 いったい何の話をしているんだろう?

 僕はもうすっかり眼が覚めて、二人の会話に耳をそばだてていた。滅多にない兄の腹だたしげな口調と、エリック卿の、いつもの兄を揶揄うような声。
 彼は、ちょっと頼りないところのある僕の兄を皮肉交じりに揶揄うのが大好きだ。でも、兄は自分の失敗を面白おかしく笑われたところで、どこ吹く風と受け流し一緒になって笑い飛ばす。

 深く息をつく音が、すぐ近くで聞こえた。
 そっと片目を開ける。
 いつの間にかソファーの背もたれに腕をかけて、兄がにこにこと僕を覗きこんでいた。

「よく眠っていたね、ジオ」
 僕は盗み聞きしていたのを誤魔化そうと、にんまりと微笑んだ。
「兄さん、今日の庭仕事は終わり?」
「コガネムシの駆除が追いつかなくてね。これ以上広がる前に薬を使うことにしたんだ。仕方がない。あんなにいるなんて思ってもみなかったんだ!」
 兄は渋い顔をして吐息を漏らす。

 なんだ、やっぱりコガネムシの話だったんだ。

 起きあがって大きく伸びをした。今、何時だろう? なんだか、お腹が空いた。
 そんな僕の気持ちを見透かしたように、兄は僕をテラスに誘った。

「ちょうどお茶にするところだったんだ。お前、よく眠っていたからね。お腹が空いたんじゃないかい?」



 もう、アフタヌーンティーの時間だ。テーブルでは、マーカスがすっかり準備を終えて待っていた。どうやら僕は、お昼も食べずに寝ていたらしい。いつものお茶のふんわりとした湯気に、兄の薔薇の放つ芳醇な香りが混じりあう。僕はお茶をまず一口飲み、酸味の効いた胡瓜のサンドイッチを頬ばった。久しぶりの兄と二人だけの静かなお茶の時間に、なぜだかとてもほっとした。

 あれ、何か忘れている……。そうだ! エリック卿は?

「兄さん、さっきエリック卿と話していたよね?」
「ああ、彼は音楽室に行ったよ。今日はみんなそこにいるはずだ。お前も行くかい?」
 兄はぼんやりと庭先を眺めていて、心ここにあらず、といった風情だ。
「兄さんは?」
「僕の薔薇たちが気になって、そんな気分じゃないんだ。ゴードンには、きつい薬を撒くから庭に下りないように言われているんだけどね」

 僕の方に向き直り、首をすくめて苦笑する兄。そういえば、今日の兄は至極まともな服装をしている。ごく普通の白リネンのシャツにスラックス。無造作な着こなしなのに、仕立ての良さがひと目で判る。農夫の仮装をしていない兄を見るのも久しぶり。今日は庭の手入れは諦めたって、本当なんだ。ちゃんと磨かれた革靴を履いている。以前、おろしたての革靴で土を掘り返して擦り傷だらけにして、マーカスにこってり叱られたもの。それから横着せずにちゃんと緑の長靴を履くようになったんだ。マーカスは、服はともかく靴にはうるさいのだ。

「兄さん、一緒に音楽室に行こうよ。次のクリスマス発表会、僕はヴァイオリンのソロを狙っているんだ。だから選抜試験にはちょっと高度な曲に挑戦したいんだよ。何がいいかなぁ」

 毎年開かれる学校主催のクリスマスコンサートは、街のコンサートホールを借りて催される、年間を通じて一番大きな音楽発表会だ。入場料を全額寄付にまわすチャリティーコンサートなので世間の注目も高く、僕みたいな音楽コースを取っている生徒にとってこの晴れ舞台に立つことは、一番の目標でもある。ちなみに兄は在学中、フルートで何度もソリストを務めているんだ! 超、超、倍率の高い演奏メンバーに選ばれるだけでも狭き門の選抜試験があるのに!

「へぇ、それは楽しみだね」
 兄はちょっと眉をあげ、嬉しそうに微笑んでくれた。
「兄さんいつも庭にかかりっきりで、最近ちっともかまってくれないじゃないか! 今日くらい、優秀な庭師のゴードンに任せておけばいいんだよ。彼は緑の指を持っているって、兄さん、いつも言っているじゃないか」

 兄は小さく息をつき、憮然としながらも、メアリー特製の薔薇ジャムと蜂蜜をスコーンにたっぷりと塗りつけて、大きく口を開けて齧りつく。いくら薔薇が心配でも、ちゃんとお腹は空くらしい。でもちょっと、ジャムも蜂蜜も、のせ過ぎじゃない?

「いくつか候補があるんだ。どの曲がいいか選んでよ、兄さん」

 口の周りと長い指先を透き通る紅色のジャムでべとべとにしている兄に、僕は笑いを噛み殺しながらテーブルナプキンを差しだした。




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