13 / 28
12
しおりを挟む
夕食の席に、彼女は姿を見せなかった。
誰も、彼女のことを話題にしなかった。
祖母は、ロバートの祖母といつものたわいない世間話に興じ、僕とロバート、そしてルーシーは話しかけられた時だけ、「はい」、「はい」と答え、いらないことは言わないように気をつけながら、俯いてただもくもくと食事を進めた。
兄と兄の友人は、ビリヤードルームで遊んでいるからここにはいない。
それに例年とは違う日毎に増えてゆく兄の友人たちに、コック兼家政婦のメアリーが悲鳴をあげたのだ。兄たちの夕食は、しばらく前から近隣の村のパブにデリバリーを頼んでいる。それをビュッフェ式で、ここではなく談話室でいただくのだ。毎日毎日、冷めたフィッシュ&チップスとコテージパイばかりで嫌だ、メアリーの料理の方がいい、と兄は時おり愚痴をこぼしているけれど、そこは身から出た錆ってやつじゃないかな、兄さん? それに紳士が食事に文句をつけてはいけないよ。
そんな訳で、朗らか兄のいない食卓はまるで懲罰でも食らっているかのように味気ない。だから食事が済むと、僕たちは「おやすみなさい」と祖母たちに挨拶し、お行儀よく先に退室する。静かにドアを閉めた後、三人で顔を見合わせて、肩をすくめてほっとため息をつくのが日課になった。
最近、ルーシーとロバートはまた仲良くなってきたみたいで、よく一緒に楽しそうに喋っている。それにロバートがネルに見とれていると、ルーシーがこっそり彼の手の甲を抓っているのを、僕は見てしまった。女の子って、本当、見かけじゃ分からないね。ちょっと前まで、あんなにおどおどしていたのに!
僕は少し、ロバートに裏切られたような気分になったよ。だけど、ルーシーがいないとき、「それとこれとは別」と、ロバートはあっけらかんと言ってのけた。「ネル嬢は憧れの女神みたいな存在で、崇拝するべき対象だよ。ルーシーとは同列に置けないよ」と。
同列って、どういうことか、あんまり意味は分からなかったけれど、ロバートのいう「女神」という表現が、僕はとても気に入った。神秘的な彼女にぴったりだ。
僕たちは、長い廊下をゆっくり時間をかけて部屋まで戻った。音楽室で倒れたネルの事をもっと色々知りたかったのだ。
だけど僕たちのうち誰一人、あれからどうなったのか知らなかった!
それも仕方ないことなんだ。僕たちは、あの後すぐにやってきたマーカスに音楽室から追いたてられ、子ども部屋に閉じ込められてしまったからね。「ルーシーなら知っていると思ったのに! なんたって、親戚なんだから」と僕が唇を尖らせると、彼女も同じように唇をつんと尖らせて言い返してきた。
「あら、あなたなら知っていると思ったわ。なんたって、ここのお坊ちゃんなんですもの!」
可愛くない! 冴えないルーシーの方が良かった!
内心むっとしたけれど、ぐっと我慢した。女の子相手に怒るのはみっともないからね。
僕たちは、何か分かったら互いに教え合うことを固く約束して、それぞれの部屋へ戻って行った。
ドアを開け、まず目に入ったのは、開け放した窓から吹き込む風で大きく揺れている白いカーテンだった。そのカーテンに煽られて、机に置きっ放しのレポートが床の上に散乱し、カサカサ舞っている。
ペーパーウェイトを置いておけば良かった――。
後悔先に立たずだ。レポートを拾い集め、窓を閉めようと視線を外に向けた。
霧雨が降っている。
まだ完全に暮れきらない群青の空の下、兄の白薔薇が煙るように浮かびあがっている。そのあまりの美しさに息を呑んだ。
窓枠にかけた手のしっとりとした冷たさに、ふと意識を呼び戻されて。湿った空気を大きく吸って吐きだして、静かに窓を閉めた。
「ねぇ、メアリー。ホットココアを作ってくれる」
僕は何度も髪をかき上げながら、厨房で一休みしていたメアリーにねだった。まといつく髪がしっとりと濡れていることを彼女に気づかれないように、わずかな水気すらも拭いとってしまいたかったのだ。
「あらあら坊ちゃん、こんなところにまでいらっしゃらなくてもお部屋にお持ちしますのに!」
メアリーはにこにこと笑いながら、すぐにココアの準備にかかってくれた。ああ言いながら、彼女は僕がこうしておやつや飲み物をここにねだりにくることが内心嬉しくて仕方ないのだ。彼女は昔から僕に甘いもの。
「デザートのプディング残っていない? いつも美味しいけれど、今日のはまた格別だったよ!」
メアリーのご機嫌具合を伺いながら、そんなに食べたくもないプディングもねだってみる。こう言うと、彼女が喜ぶと思ったから。
「まぁ、坊ちゃん、お腹が空いてらっしゃるの? ああ、どうしましょう! 今日の残りはお兄様が全部平らげてしまったんですよ!」
兄さん……。こっそりメアリーに頼みこんでいたなんて!
内心呆れ返りながら、吐息混じりに首を振った。
「いや、いいんだよ。美味しかったからさ、そう言いたかっただけ」
メアリーの背中をちらちらと盗み見ながら、素早く厨房内を見廻した。くぐもった空気に混じり、ふわりと甘い匂いが鼻腔を刺激する。軽口を閉じると、メアリーがココアを練るカシャカシャとした金属音が、やけに大きく耳につく。
「ねぇ、そこのトレイのポリッジ、ネル嬢のかな?」
「そうですよ。まだ食欲がないって手もつけずでね」
「そんなに酷いの? 大丈夫かなぁ」
「心配いりません! 酔っ払っているだけですからね! まったくあの連中も困ったものだわ。あんなへべれけになるまで飲ませるなんて! でも頂く方も頂く方ですよ。上手くお断わりするのも淑女の嗜みってもんですからね!」
呆れたようにきつい口調で喋りながら、メアリーは僕のカップにできたてのココアを注ぐ。
「シャンパンのせい?」
メアリーは、ぐっと顔をしかめ下唇を突きだした。
「可哀想だよ。あれは彼女のせいじゃないもの」
僕は彼女を庇ってあげたかったのだ。
「次々とみんなが勧めたからだよ」
「まぁ、なんてお優しい坊ちゃん!」
メアリーが目を細めてニコニコしている。
今だ!
「メアリー、これ、彼女のお見舞いに渡してくれる? ほら、メアリー、ナイトキャップティーの用意をしていたんだろ? お詫びのしるしにさ、不快な思いをさせてすみませんって」
左手に隠し持っていた庭で摘んできたばかりの兄の白薔薇を一輪、広い作業用テーブルに用意されたティーセットの載ったトレイの片隅に、おずおずと置いた。
誰も、彼女のことを話題にしなかった。
祖母は、ロバートの祖母といつものたわいない世間話に興じ、僕とロバート、そしてルーシーは話しかけられた時だけ、「はい」、「はい」と答え、いらないことは言わないように気をつけながら、俯いてただもくもくと食事を進めた。
兄と兄の友人は、ビリヤードルームで遊んでいるからここにはいない。
それに例年とは違う日毎に増えてゆく兄の友人たちに、コック兼家政婦のメアリーが悲鳴をあげたのだ。兄たちの夕食は、しばらく前から近隣の村のパブにデリバリーを頼んでいる。それをビュッフェ式で、ここではなく談話室でいただくのだ。毎日毎日、冷めたフィッシュ&チップスとコテージパイばかりで嫌だ、メアリーの料理の方がいい、と兄は時おり愚痴をこぼしているけれど、そこは身から出た錆ってやつじゃないかな、兄さん? それに紳士が食事に文句をつけてはいけないよ。
そんな訳で、朗らか兄のいない食卓はまるで懲罰でも食らっているかのように味気ない。だから食事が済むと、僕たちは「おやすみなさい」と祖母たちに挨拶し、お行儀よく先に退室する。静かにドアを閉めた後、三人で顔を見合わせて、肩をすくめてほっとため息をつくのが日課になった。
最近、ルーシーとロバートはまた仲良くなってきたみたいで、よく一緒に楽しそうに喋っている。それにロバートがネルに見とれていると、ルーシーがこっそり彼の手の甲を抓っているのを、僕は見てしまった。女の子って、本当、見かけじゃ分からないね。ちょっと前まで、あんなにおどおどしていたのに!
僕は少し、ロバートに裏切られたような気分になったよ。だけど、ルーシーがいないとき、「それとこれとは別」と、ロバートはあっけらかんと言ってのけた。「ネル嬢は憧れの女神みたいな存在で、崇拝するべき対象だよ。ルーシーとは同列に置けないよ」と。
同列って、どういうことか、あんまり意味は分からなかったけれど、ロバートのいう「女神」という表現が、僕はとても気に入った。神秘的な彼女にぴったりだ。
僕たちは、長い廊下をゆっくり時間をかけて部屋まで戻った。音楽室で倒れたネルの事をもっと色々知りたかったのだ。
だけど僕たちのうち誰一人、あれからどうなったのか知らなかった!
それも仕方ないことなんだ。僕たちは、あの後すぐにやってきたマーカスに音楽室から追いたてられ、子ども部屋に閉じ込められてしまったからね。「ルーシーなら知っていると思ったのに! なんたって、親戚なんだから」と僕が唇を尖らせると、彼女も同じように唇をつんと尖らせて言い返してきた。
「あら、あなたなら知っていると思ったわ。なんたって、ここのお坊ちゃんなんですもの!」
可愛くない! 冴えないルーシーの方が良かった!
内心むっとしたけれど、ぐっと我慢した。女の子相手に怒るのはみっともないからね。
僕たちは、何か分かったら互いに教え合うことを固く約束して、それぞれの部屋へ戻って行った。
ドアを開け、まず目に入ったのは、開け放した窓から吹き込む風で大きく揺れている白いカーテンだった。そのカーテンに煽られて、机に置きっ放しのレポートが床の上に散乱し、カサカサ舞っている。
ペーパーウェイトを置いておけば良かった――。
後悔先に立たずだ。レポートを拾い集め、窓を閉めようと視線を外に向けた。
霧雨が降っている。
まだ完全に暮れきらない群青の空の下、兄の白薔薇が煙るように浮かびあがっている。そのあまりの美しさに息を呑んだ。
窓枠にかけた手のしっとりとした冷たさに、ふと意識を呼び戻されて。湿った空気を大きく吸って吐きだして、静かに窓を閉めた。
「ねぇ、メアリー。ホットココアを作ってくれる」
僕は何度も髪をかき上げながら、厨房で一休みしていたメアリーにねだった。まといつく髪がしっとりと濡れていることを彼女に気づかれないように、わずかな水気すらも拭いとってしまいたかったのだ。
「あらあら坊ちゃん、こんなところにまでいらっしゃらなくてもお部屋にお持ちしますのに!」
メアリーはにこにこと笑いながら、すぐにココアの準備にかかってくれた。ああ言いながら、彼女は僕がこうしておやつや飲み物をここにねだりにくることが内心嬉しくて仕方ないのだ。彼女は昔から僕に甘いもの。
「デザートのプディング残っていない? いつも美味しいけれど、今日のはまた格別だったよ!」
メアリーのご機嫌具合を伺いながら、そんなに食べたくもないプディングもねだってみる。こう言うと、彼女が喜ぶと思ったから。
「まぁ、坊ちゃん、お腹が空いてらっしゃるの? ああ、どうしましょう! 今日の残りはお兄様が全部平らげてしまったんですよ!」
兄さん……。こっそりメアリーに頼みこんでいたなんて!
内心呆れ返りながら、吐息混じりに首を振った。
「いや、いいんだよ。美味しかったからさ、そう言いたかっただけ」
メアリーの背中をちらちらと盗み見ながら、素早く厨房内を見廻した。くぐもった空気に混じり、ふわりと甘い匂いが鼻腔を刺激する。軽口を閉じると、メアリーがココアを練るカシャカシャとした金属音が、やけに大きく耳につく。
「ねぇ、そこのトレイのポリッジ、ネル嬢のかな?」
「そうですよ。まだ食欲がないって手もつけずでね」
「そんなに酷いの? 大丈夫かなぁ」
「心配いりません! 酔っ払っているだけですからね! まったくあの連中も困ったものだわ。あんなへべれけになるまで飲ませるなんて! でも頂く方も頂く方ですよ。上手くお断わりするのも淑女の嗜みってもんですからね!」
呆れたようにきつい口調で喋りながら、メアリーは僕のカップにできたてのココアを注ぐ。
「シャンパンのせい?」
メアリーは、ぐっと顔をしかめ下唇を突きだした。
「可哀想だよ。あれは彼女のせいじゃないもの」
僕は彼女を庇ってあげたかったのだ。
「次々とみんなが勧めたからだよ」
「まぁ、なんてお優しい坊ちゃん!」
メアリーが目を細めてニコニコしている。
今だ!
「メアリー、これ、彼女のお見舞いに渡してくれる? ほら、メアリー、ナイトキャップティーの用意をしていたんだろ? お詫びのしるしにさ、不快な思いをさせてすみませんって」
左手に隠し持っていた庭で摘んできたばかりの兄の白薔薇を一輪、広い作業用テーブルに用意されたティーセットの載ったトレイの片隅に、おずおずと置いた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
呪われた少女の秘された寵愛婚―盈月―
くろのあずさ
キャラ文芸
異常存在(マレビト)と呼ばれる人にあらざる者たちが境界が曖昧な世界。甚大な被害を被る人々の平和と安寧を守るため、軍は組織されたのだと噂されていた。
「無駄とはなんだ。お前があまりにも妻としての自覚が足らないから、思い出させてやっているのだろう」
「それは……しょうがありません」
だって私は――
「どんな姿でも関係ない。私の妻はお前だけだ」
相応しくない。私は彼のそばにいるべきではないのに――。
「私も……あなた様の、旦那様のそばにいたいです」
この身で願ってもかまわないの?
呪われた少女の孤独は秘された寵愛婚の中で溶かされる
2025.12.6
盈月(えいげつ)……新月から満月に向かって次第に円くなっていく間の月
睿国怪奇伝〜オカルトマニアの皇妃様は怪異がお好き〜
猫とろ
キャラ文芸
大国。睿(えい)国。 先帝が急逝したため、二十五歳の若さで皇帝の玉座に座ることになった俊朗(ジュンラン)。
その妻も政略結婚で選ばれた幽麗(ユウリー)十八歳。 そんな二人は皇帝はリアリスト。皇妃はオカルトマニアだった。
まるで正反対の二人だが、お互いに政略結婚と割り切っている。
そんなとき、街にキョンシーが出たと言う噂が広がる。
「陛下キョンシーを捕まえたいです」
「幽麗。キョンシーの存在は俺は認めはしない」
幽麗の言葉を真っ向否定する俊朗帝。
だが、キョンシーだけではなく、街全体に何か怪しい怪異の噂が──。 俊朗帝と幽麗妃。二人は怪異を払う為に協力するが果たして……。
皇帝夫婦×中華ミステリーです!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる