夏の嵐

萩尾雅縁

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 透きとおるビーズの雨粒がばら撒かれた窓ガラスの向こうに、爽やかな青空が広がる。目が覚めたときから、いや、眠っていたときでさえずっと感じているこのうきうきと昂った神経を少し落ち着かせようと、勢いよく窓を開ける。

 肌を刺す早朝の冷気とともに飛び込んできたのは、鳥の囀りと、「星の王子さまル・プティ・プランス!」と呼びかける、ネルの明るい、弾んだ声だった。
 まだ雨の匂いの残る、しっとりとしたテラスの欄干に手をついて、彼女は身をのり出して庭を覗きこんでいる。しなやかに伸びた彼女の脚が、柔らかな日差しに白く輝いている。

「それは僕のことですか?」

 薔薇の茂みの中から兄が立ちあがる。また帽子を被っていない。
 あんなに言ってあげたのに!

「あなたの命よりも大切な薔薇の花をどうもありがとう」
 その言葉に、兄は怪訝そうな顔をした。
「昨夜、お見舞いに下さった薔薇の花。あなたの薔薇でしょう?」

 思わず窓の下にしゃがみこんでいた。兄に叱られる! 今まで考えもしなかったこの事実が突然脳裏をよぎったのだ。でも、それ以上に、彼女の嬉しそうなあの声が、なぜ兄に向けられているのかが分からない。確かに、あれは兄の薔薇だけど――。兄の命よりも大切な薔薇に違いないけれど――。

 僕です! あなたに、薔薇を贈ったのは!

 兄にはこんなにたくさんの薔薇たちがいるけれど、僕の想いの丈を込めたのはたった一輪の薔薇の花。だけど、その薔薇を星の王子さまのように大切に、大切に育ててきたのは兄で――。僕はただの花盗人。だから僕の想いは彼女に届かなかったんだ……。

 泣きだしたい想いで、もう一度そっとテラスに目を向けた。

 彼女の華奢な背中にかかる波打つ金髪が、朝日に透けてきらきらしい。

 きっと今、彼女は微笑んでいるに違いない。微笑んで、ありがとう、と言ったに違いない。僕が受け取るはずだったその言葉は、艶やかに、跳ねるように、兄のもとへ――。

「おそらくそうでしょうね。でも贈ったのは僕ではありませんよ、酔っ払い姫プランセス・イーブル

 兄は大きな声で朗らかに言い放つと、またすぐに身を屈め、薔薇の茂みの中に戻っていった。

 胸に広がる安堵感に、僕は大きく吐息を漏らした。
 兄のいる庭から僕の姿が見えないように、細心の注意を払ってそっと静かに壁の方に身を寄せて、テラスの彼女を伺った。

 彼女の贈った感謝の言葉は、受け取られずに宙を彷徨う。朝の冷気に交じる薔薇の放つ密やかな芳香。けれど彼女の言葉だけは、その香りに混じり合うことも、空気に溶けることもなく、この場所に氷漬けにされている。
 兄の姿が見えなくなっても、じっと佇んでいる彼女の背中は、怒りに震えているのか、憮然としてしまっているのか、判断がつかない。ただ、ひどく頼りなく、寂しそうに、僕には見えた。

 彼女はくるりと踵を返すと、大きく空気を打ち払うように濡れた手のひらの雫を切った。コツコツと彼女のヒールの音が響く。僕の位置からは、その表情はついぞ見えなかった。


 彼女が立ち去ってから、僕は急いで着替えてテラスへ走った。

「兄さん!」
 さっきまで彼女がいた同じ場所に立ち、兄を呼んだ。
「ああ、おはよう、ジオ!」
 兄の機嫌の良い声がどこからか響く。
「兄さん、ごめんなさい!」
 僕は大声で兄に謝った。
「かまわないよ」
 やっと兄は立ちあがって、僕に顔を見せてくれた。

「花盗人は罪にはならないって、言うだろ?」

 そんな言葉、聞いたことがないよ。いったい、誰がそんなことを言ったの?

 意味が分からず、僕はきょとんとしていたのだと思う。そんな僕の顔を見て、兄は楽しげな笑い声をあげた。

「もっと切ってあげるよ。お嬢さん方に、花束にして差しあげるといい。それからお祖母さまにも。届けてくれるかい、ジオ?」

 剪定鋏を高く掲げ、大きく手を振っている。

「そっちに行くよ」
 僕は嬉しくなって、テラス階段に向かって走りだした。
「ジオ!」
 兄の慌てた声が僕を止める。
「駄目だ! 来ない方がいい!」

 どうして?

 小首を傾げて振り返り、ほんの束の間、兄を見つめた。でも、階段を一気に駆け下りて、雨上がりの柔らかな土の上に足を下ろした。そのまま高い生垣を間仕切りにした、兄のいるガーデンルームにひた走る。

「兄さん!」
 庭の中央に位置する兄の自慢の薔薇園は、華やかな花弁に細かな雫をいっぱいに湛えて、宝石のように輝いている。
 息を弾ませて飛びついた僕を、兄はちょっと困ったように見おろして苦笑した。その笑顔に、僕の背中に戦慄が走った。

 ああ、僕は、早まってしまったのか――。

 広い薔薇園の、兄の立つこの一角。花のない緑の葉群。
 僕は怖々と足下を見おろし、すぐに顔を上げて天を仰いだ。

 薔薇の根元にコロコロと転がりでて死んでいる例の奴……。大好きな兄を苦しめる元凶。

 昨夜、日が落ちてからここに来て、本当に良かった。ちっとも気がつかなかったもの。

 兄は小さく吐息を漏らし、僕の頭をさらりと撫でた。そして、少し場所を移動して、兄の愛しい花たちに、パチン、パチンと鋏を入れた。

 



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