夏の嵐

萩尾雅縁

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 兄に言われた通り腕いっぱい薔薇を抱えて、まずはメアリーのもとへ行った。彼女は何も言わなくてもすべて了承しているようで、にこにこと笑ってその薔薇たちを花瓶にふり分けて生けてくれた。
「全部、僕が届けるからね」
 念を押してから、花瓶を抱えて家事室を出た。まずはお祖母さまの部屋からだ。

 お祖母さま、ロバートのお祖母さま、次はルーシー、と。
 ルーシーの部屋のドアをノックする。――返事がない。まだ寝ているのかな?

「ルーシー! 僕だけど、寝てるの?」
 寝ているのなら返事がある訳がない。寝ぼすけめ! 
 諦めて踵を返そうとしたとき、ガチャリ、と僕の背後でドアが開いた。
 なんだ、起きていたんだ。
 くるりと振り向くと、そこに立っていたのはロバートだ。くしゃくしゃのシャツにボサボサの髪で、やつは僕の顔を見て自慢げににやっと笑った。

「何か用?」
「きみにじゃなくて、ルーシーにだよ」
 ちょっと花瓶を持ちあげてみせる。
「渡しておくよ」
 ロバートは高慢な素振りで僕から花瓶を奪った。
「お祖母さまが、一緒に朝食を食べましょうって。じきに呼びにいらっしゃるんじゃないのかな」
「え!」

 ロバートの顔が蒼白に変わる。慌てて部屋に引っ込んで、バタン、とドアを乱暴に閉める。

 慌てろ、慌てろ、嘘だけどね――。
 でも、慌てすぎてその花瓶、落とすなよ! 先祖伝来の伊万里なんだぞ。お前なんかには判らないだろうけどさ!

 あまりに腹立たしくて、腹の中でロバートに思いっきり悪態をついていた。

 ルーシーも、ルーシーだ!

 お祖母さま方はとっくに朝食を済まされて、居間でお茶を飲んでいらっしゃる。僕が花を持っていってさしあげたとき、「きっとルーシーも喜ぶわ。昨夜から体調が優れないらしくて、明日はゆっくりしたい、って言っていたのよ。可哀想に」なんて、すごく彼女のことを心配されていたのに……。
 そりゃ、身体も辛くなる訳さ!



 家事室に戻ると、兄がメアリーと談笑しながら優雅にお茶を飲んでいた。薔薇がさらに増えて、作業台が埋め尽くされている。

「部屋という部屋を薔薇で埋めるつもりなの、兄さん?」
 僕は呆れ顔で訊いた。
「コガネムシの被害が酷かったからね。元気な子たちもいったん花を落として休ませて、他の場所に植え替えしようかと思っているんだ。薬の届かない地中深くに、まだまだいるんじゃないかと心配なんだよ」
 兄は整った眉をくいっとあげて、小さく吐息を漏らしている。
「でも、夏場の植え替えは株に負担がかかるからね、迷っているんだ。ゴードンは心配しすぎだって言うけれど……。だけど、解るかな、ジオ。僕はあの害虫が、嫌で、嫌で、堪らないんだよ」

 兄の真剣な目に、僕も大きく頷いた。

「腹がたつよね。兄さんは、こんなに大事に育ててきたのだもの!」
 僕がそう言うと、兄は嬉しそうに微笑んでくれた。
「あ、それじゃあ僕、ネル嬢にこの薔薇を届けてくるよ。お祖母さま方にも、ルーシーにも、もうお届けしてきたんだ。とても喜んで下さっていたよ」

 ルーシーは、知らないけどね。

 兄はちょっと片眉をあげて僕を見あげた。そして、黙ったまま紅茶のカップを口に運んだ。兄が何か言いたげに思えたので、少しだけ待ってみた。でも兄は何も言わなかった。

 家事室を出ようとする僕の背後で、兄の声が告げていた。

「メアリー、使っている部屋全部に、この薔薇を飾ってくれるかい? 足りないようなら、もっと切ってくるから――」



 ネルの部屋のドアを、小さくノックする。あまり乱暴に聞こえないように、慎ましく。
 ドアはすぐに開いた。早朝と同じ白い清楚なミニドレスだ。さっきは髪を下ろしていたけれど、今はきっちりと綺麗に結い上げている。いつも少し怒っているような強い輝きを持つ瞳が、僕の手の中の真紅の薔薇を見て、驚いたように見開かれた。

「ご気分は回復されましたか? これ、兄と一緒に摘んできたんです」

 薔薇よりも美しく、彼女はにっこりと微笑んだ。

「綺麗ね。嬉しいわ。ねぇ、あなた、朝食に付き合ってくれる? 一人で食べるのつまらなくって。こっちの人って、みんな朝は自室で済ますのかしら? どうぞ、入って」

 僕は朝食をもう済ませていたけれど、彼女が誘ってくれるなら日に何度だって食べられる。
 危うく落としかけたエミール・ガレの乳白色の筒状の花瓶を、じんわりと汗ばんだ手で持ち直した。

 そっと足を踏み入れた彼女の部屋は、柔らかな甘い香りが漂っている――。



 

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