夏の嵐

萩尾雅縁

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「素敵。ガレね、その花瓶。趣味がいいのね」
 彼女の薔薇の花弁のような唇から、真珠の歯が覗く。

 この花瓶にして良かった! やっぱり兄さんの審美眼はすごいよ!

「これ、兄がパリの蚤の市で見つけてきたんです。ほんとに安くで買ってきて、みんな、偽物だろ? て笑っていたんですけどね。兄は気に入っているからいいんだよ、てどこ吹く風で……。それがね、出入りの美術商の目に留まって、本物だって太鼓判を押してくれたんですよ! その時は、もう、僕も驚いてしまって!」
 ネルを前にして、声を上擦らせながら一生懸命に喋っていた。それでも、おずおずと遠慮がちに部屋を見廻し、暖炉の上に花瓶を置いた。

 赤錆色の暖炉に乳白色の花瓶。霧の中に浮かび上がるような、大きな黄緑の葉模様が全面に施されている。その上に被さる大輪の真紅。美しい彼女に相応しい紅。

「そう。私もガレが好きよ。その薔薇にその花瓶、とても合っているわ」

 僕は少し俯き加減で、上目遣いに彼女を見あげた。
 彼女は窓辺のティーテーブルに着き、大きな目を見開いて、うっとりと僕を見ていた。いや、違う。僕の横の薔薇を見ていた。

 そうか――。彼女は、そんなに薔薇の花が好きだったのか! 

 そりゃそうだよな。女の子だもんな。それに彼女ほどの美人には、そんじょそこらの花じゃ似合わない。兄が丹精込めて育てた花だからこそ、彼女の傍に相応しいのだ。
 僕は、彼女の眼差しを一身に受け止める兄の薔薇が誇らしかった。

「お座りなさいな」
 柔らかな鈴を振るような声に、全身がすくんだ。
 僕はもったいぶってゆっくりと、一歩一歩足を運んだ。
 窓から差しこむ光に、彼女の睫毛が透けて輝く。薄く開かれた唇にオレンジジュースが注ぎこまれる。



 ぎくしゃくと、テーブルの傍まできた僕に、彼女は銀のフォークに突き刺した、ベイクドビーンズを向けていた。
 緊張で震える手でフォークを受け取ろうとすると、彼女はフォークの柄で僕の右手を打ち払い、僕の口元までぐいと手元を伸ばしてきた。
 身を屈め、小さく口を開けて、彼女のフォークからベイクドビーンズをこそぎ取る。僕がその一粒の豆を咀嚼している間に、彼女はフォークをソーセージに突き刺して、もう、僕の方に向けている。

 長いソーセージを、齧りとる。一口、二口。
 彼女の瞳の朝焼けの空が、どこか意地悪く僕を見守っている。僕が一つ食べ終わる度に、彼女の口角が満足そうに上がる。にこやかに。艶やかに。

 僕は腰を屈めたまま、栗鼠のように頬を膨らませて懸命に咀嚼する。

 もう、目玉焼きが待っている。一口大に切り取られた半熟の黄身がつやつやとした白身を伝って滴り落ち、白いクロスに染みを作る。

 彼女は顎をつき出すようにして頭を仰け反らせ、遠くから見おろすように目を細めて僕を眺めていた。楽しげに唇を半開きにして、一挙一動を。観察するように。からかうように。

 目玉焼きを食べ終えたときには、口の周りがベトベトだった。僕は仕方なく自分の舌で唇の周りを舐めとった。だって、彼女はテーブルナプキンを貸してくれる気なんて、さらさらなさそうだったから。僕はこのとき無意識に、眉をしかめていたかもしれない。行儀の悪いことなのに。彼女の前だっていうのに。

 彼女の口元が、また、クスリと笑みを形作る。

 カラン、と彼女はフォークを皿に転がした。そして、今度は飲みかけのオレンジジュースを突きつけてきた。
 グラスにべっとりとついた口紅の上に、僕は僕の唇を重ねた。勢い良く流しこまれるオレンジジュースが、唇の端から溢れ滴る。


 僕がオレンジジュースを全部飲みきってむせ返っていると、彼女はあの、甲高い、金属的な笑い声をたてた。

「美味しかった?」
 彼女の長い睫毛が瞬く。紅い唇が柔らかく持ちあがる。
 僕は口元を抑えたまま、頷いた。汚れた口をこすった白いドレスシャツの袖口がソーセージのケチャップで汚れていた。胸元にオレンジ色の染みもできている。

 これじゃ、兄さんと同じじゃないか――。

 ああ、兄さん。
 僕はこれから兄さんが食べ零しても、今までみたいに、ぐちぐち言うのはよすからね。



「ねぇ、座らないの?」

 僕は食べ終わってからやっと、彼女の向かいに腰を下ろした。
 彼女が僕に食べさせた朝食は、どれもすっかり冷め切っていた。
 彼女はこの朝食を前にして、じっと一人でここに座っていたのだろうか?
 そう思うと、悲しかった。
 僕の前に座る彼女が、とても寂しげに見えた。

「ねぇ、あなた、また私の部屋に遊びにきてくださる? あなたがいると、楽しいわ。私、いつもとっても退屈していたの。だって、こんな田舎、なにもないじゃない。あなたもそう思うでしょ? ああ、私、どうして今まであなたとお話しなかったのかしら? そうしていれば、こんな退屈な思いをしなくてすんでいたのに!」

 彼女は大袈裟にため息をついた。
 テーブルの上に頬杖をついて、彼女はにっこりと花のように微笑む。頬を支える細いしなやかな指先に施されたコーラルピンクを、彼女の舌先がぺろりと舐めた。

 僕は顔を上げることができずに、ずっと下を向いていた。
 そんなの、間近で見る彼女の、白く透き通る手を見つめるだけで精一杯だ。

 だって僕は、彼女が手ずから飲ませてくれたオレンジジュースで、ひどく酔っ払ってしまっていたんだもの――。





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