夏の嵐

萩尾雅縁

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 慌てて着替えを済ませ、僕は階下のテラスに向かって走った。

 幾百と折り重なって散らばる花は、まるで戦場に倒れた兵士のようで。雨に晒され、風に煽られ、打ち捨てられて――。
 僕は、悔しくて、涙が滲んでいた。

「おはよう、ジオ」
 朗らかな兄の声に振り返る。兄は、ことのほか上機嫌だ。

 なぜ? 兄さんの大事に育ててきた薔薇が、こんなひどい扱いを受けているのに!

「兄さん、薔薇が――」
 悔し涙を拳で拭い、兄の奇妙な笑みを睨めつけた。

 僕の不審に応えるように、兄はテラスをぐるりと見廻す。

「見事に役目を果たしてくれたね。ありがとう。ご苦労様」

 累々と横たわる華やかな屍たちに、愛おしそうに声をかける兄。

 マーカスがガーデンセットを用意している。赤く広がる花弁の上に。
 兄は僕を朝食に誘った。雨上がりの匂いに切れ切れの薔薇の香りが混ざり合う中、僕は兄と食事をともにした。



「ディック!」
 振り仰ぐと、二階の窓からエリック卿が手を振っている。
「ずいぶん見事な絨毯が敷かれているじゃないか!」
 エリック卿のふざけた口調に僕はいささかムッとする。なのに兄は笑って、「僕の勝ちだ! 見かけほどの馬鹿じゃなくて良かったよ!」なんて、訳の判らないことを口にしている。

 まったく兄たちときたら、今日の天気から、ゴードンの飼っているスプリンガー・スパニエルの産まれてくる子犬は、オス、メスどっちが多いかまで、なにからなにまで賭け事にする! 
 大事な薔薇をこんな目に遭わせてまで、いったい、なにを賭けたのさ?

 僕はだんだん腹が立ってきた。

 兄とエリック卿は、昨日あれだけ降ったのだから今日はよく釣れるぞ、なんて呑気に釣りの話をしている。もう薔薇のことなんてどうでもいいみたいに。

 僕の頭の中はぐちゃぐちゃだ。この兄の言動が信じられない。大切なものをこんなふうに踏みにじられて、どうして平気な顔をしていられるの?




 薔薇の香りが消えている。昨日はあんなに香っていたのに。あんなにたくさん、重苦しくて陰気な廊下を彩ってくれていたのに。
 僕は色あせた臙脂色の絨毯を踏みしめる。残された飾られる花のない寂しげな花瓶から目を逸らして。
 深緑のブロケード張りの壁から、歴代当主の肖像画たちが素知らぬ顔で僕を見おろす。

 見ていたのなら教えてよ。いったい誰があんなことをしたの?

 俯いたまま、陰鬱な、長い廊下をとぼとぼと歩いた。憮然として。解せないままに――。



「ねぇ、」
 険のある声に面を上げた。ネルが、眉尻をあげ顎を突きだして僕を睨めつけているではないか。
「どうして来なかったの? 私、待っていたのに」
 僕ははっとして顔色を変えた。そうだった。昨日、明日も一緒に朝食を取ろうと約束したのだった。

「ごめんなさい。窓から薔薇が見えて、それで――」
 僕はしどろもどろで言い訳する。薄暗いひんやりとした廊下にいるのに、恥ずかしさで顔が火照っている。瞬く間にじっとり汗までかいていた。
「それで、今からあなたのお部屋に行こうかと……」
「そう。じゃあ、おいでなさいよ」

 ネルは、にっこりとつややかな笑みを浮かべた。僕の心臓がどくんと跳ねあがる。良かった。怒っているのではないのだ。気づかれないように、密かに安堵の吐息を漏らした。



 ネルの部屋は昨日と同じ。手のつけられていない朝食と、漂う甘い薔薇の香り。

 僕は驚いて壁際の暖炉の上に目を向けた。鮮やかな真紅の薔薇が、昨日以上に華やかに、その豪奢な姿を誇っている。僕が目を見開いてネルを見ると、彼女は誇らしげに口角をあげた。

「昨日、みんなでゲームをしたの。負けた人には、なんでも命令できるのよ。私、もちろん勝って命令したの。この部屋以外の紅い薔薇を全部窓から投げ捨てて、って」

 ネルは顎先に白くほっそりとした指を当てた。今日の爪色はこの薔薇と同じ。しっとりと濡れたように光る唇の下で、あでやかさを競う。

「私、十把一絡げの花なんていらないの。これは、私だけの特別な薔薇。ねぇ、そうでしょう? あなただって、そう思うでしょう?」

 セレストブルーの神秘的な瞳を怪しく輝かせ、彼女は、そう言ってくすりと笑った。





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