19 / 28
18
しおりを挟む
慌てて着替えを済ませ、僕は階下のテラスに向かって走った。
幾百と折り重なって散らばる花は、まるで戦場に倒れた兵士のようで。雨に晒され、風に煽られ、打ち捨てられて――。
僕は、悔しくて、涙が滲んでいた。
「おはよう、ジオ」
朗らかな兄の声に振り返る。兄は、ことのほか上機嫌だ。
なぜ? 兄さんの大事に育ててきた薔薇が、こんなひどい扱いを受けているのに!
「兄さん、薔薇が――」
悔し涙を拳で拭い、兄の奇妙な笑みを睨めつけた。
僕の不審に応えるように、兄はテラスをぐるりと見廻す。
「見事に役目を果たしてくれたね。ありがとう。ご苦労様」
累々と横たわる華やかな屍たちに、愛おしそうに声をかける兄。
マーカスがガーデンセットを用意している。赤く広がる花弁の上に。
兄は僕を朝食に誘った。雨上がりの匂いに切れ切れの薔薇の香りが混ざり合う中、僕は兄と食事をともにした。
「ディック!」
振り仰ぐと、二階の窓からエリック卿が手を振っている。
「ずいぶん見事な絨毯が敷かれているじゃないか!」
エリック卿のふざけた口調に僕はいささかムッとする。なのに兄は笑って、「僕の勝ちだ! 見かけほどの馬鹿じゃなくて良かったよ!」なんて、訳の判らないことを口にしている。
まったく兄たちときたら、今日の天気から、ゴードンの飼っているスプリンガー・スパニエルの産まれてくる子犬は、オス、メスどっちが多いかまで、なにからなにまで賭け事にする!
大事な薔薇をこんな目に遭わせてまで、いったい、なにを賭けたのさ?
僕はだんだん腹が立ってきた。
兄とエリック卿は、昨日あれだけ降ったのだから今日はよく釣れるぞ、なんて呑気に釣りの話をしている。もう薔薇のことなんてどうでもいいみたいに。
僕の頭の中はぐちゃぐちゃだ。この兄の言動が信じられない。大切なものをこんなふうに踏みにじられて、どうして平気な顔をしていられるの?
薔薇の香りが消えている。昨日はあんなに香っていたのに。あんなにたくさん、重苦しくて陰気な廊下を彩ってくれていたのに。
僕は色あせた臙脂色の絨毯を踏みしめる。残された飾られる花のない寂しげな花瓶から目を逸らして。
深緑のブロケード張りの壁から、歴代当主の肖像画たちが素知らぬ顔で僕を見おろす。
見ていたのなら教えてよ。いったい誰があんなことをしたの?
俯いたまま、陰鬱な、長い廊下をとぼとぼと歩いた。憮然として。解せないままに――。
「ねぇ、」
険のある声に面を上げた。ネルが、眉尻をあげ顎を突きだして僕を睨めつけているではないか。
「どうして来なかったの? 私、待っていたのに」
僕ははっとして顔色を変えた。そうだった。昨日、明日も一緒に朝食を取ろうと約束したのだった。
「ごめんなさい。窓から薔薇が見えて、それで――」
僕はしどろもどろで言い訳する。薄暗いひんやりとした廊下にいるのに、恥ずかしさで顔が火照っている。瞬く間にじっとり汗までかいていた。
「それで、今からあなたのお部屋に行こうかと……」
「そう。じゃあ、おいでなさいよ」
ネルは、にっこりと艶やかな笑みを浮かべた。僕の心臓がどくんと跳ねあがる。良かった。怒っているのではないのだ。気づかれないように、密かに安堵の吐息を漏らした。
ネルの部屋は昨日と同じ。手のつけられていない朝食と、漂う甘い薔薇の香り。
僕は驚いて壁際の暖炉の上に目を向けた。鮮やかな真紅の薔薇が、昨日以上に華やかに、その豪奢な姿を誇っている。僕が目を見開いてネルを見ると、彼女は誇らしげに口角をあげた。
「昨日、みんなでゲームをしたの。負けた人には、なんでも命令できるのよ。私、もちろん勝って命令したの。この部屋以外の紅い薔薇を全部窓から投げ捨てて、って」
ネルは顎先に白くほっそりとした指を当てた。今日の爪色はこの薔薇と同じ。しっとりと濡れたように光る唇の下で、艶やかさを競う。
「私、十把一絡げの花なんていらないの。これは、私だけの特別な薔薇。ねぇ、そうでしょう? あなただって、そう思うでしょう?」
セレストブルーの神秘的な瞳を怪しく輝かせ、彼女は、そう言ってくすりと笑った。
幾百と折り重なって散らばる花は、まるで戦場に倒れた兵士のようで。雨に晒され、風に煽られ、打ち捨てられて――。
僕は、悔しくて、涙が滲んでいた。
「おはよう、ジオ」
朗らかな兄の声に振り返る。兄は、ことのほか上機嫌だ。
なぜ? 兄さんの大事に育ててきた薔薇が、こんなひどい扱いを受けているのに!
「兄さん、薔薇が――」
悔し涙を拳で拭い、兄の奇妙な笑みを睨めつけた。
僕の不審に応えるように、兄はテラスをぐるりと見廻す。
「見事に役目を果たしてくれたね。ありがとう。ご苦労様」
累々と横たわる華やかな屍たちに、愛おしそうに声をかける兄。
マーカスがガーデンセットを用意している。赤く広がる花弁の上に。
兄は僕を朝食に誘った。雨上がりの匂いに切れ切れの薔薇の香りが混ざり合う中、僕は兄と食事をともにした。
「ディック!」
振り仰ぐと、二階の窓からエリック卿が手を振っている。
「ずいぶん見事な絨毯が敷かれているじゃないか!」
エリック卿のふざけた口調に僕はいささかムッとする。なのに兄は笑って、「僕の勝ちだ! 見かけほどの馬鹿じゃなくて良かったよ!」なんて、訳の判らないことを口にしている。
まったく兄たちときたら、今日の天気から、ゴードンの飼っているスプリンガー・スパニエルの産まれてくる子犬は、オス、メスどっちが多いかまで、なにからなにまで賭け事にする!
大事な薔薇をこんな目に遭わせてまで、いったい、なにを賭けたのさ?
僕はだんだん腹が立ってきた。
兄とエリック卿は、昨日あれだけ降ったのだから今日はよく釣れるぞ、なんて呑気に釣りの話をしている。もう薔薇のことなんてどうでもいいみたいに。
僕の頭の中はぐちゃぐちゃだ。この兄の言動が信じられない。大切なものをこんなふうに踏みにじられて、どうして平気な顔をしていられるの?
薔薇の香りが消えている。昨日はあんなに香っていたのに。あんなにたくさん、重苦しくて陰気な廊下を彩ってくれていたのに。
僕は色あせた臙脂色の絨毯を踏みしめる。残された飾られる花のない寂しげな花瓶から目を逸らして。
深緑のブロケード張りの壁から、歴代当主の肖像画たちが素知らぬ顔で僕を見おろす。
見ていたのなら教えてよ。いったい誰があんなことをしたの?
俯いたまま、陰鬱な、長い廊下をとぼとぼと歩いた。憮然として。解せないままに――。
「ねぇ、」
険のある声に面を上げた。ネルが、眉尻をあげ顎を突きだして僕を睨めつけているではないか。
「どうして来なかったの? 私、待っていたのに」
僕ははっとして顔色を変えた。そうだった。昨日、明日も一緒に朝食を取ろうと約束したのだった。
「ごめんなさい。窓から薔薇が見えて、それで――」
僕はしどろもどろで言い訳する。薄暗いひんやりとした廊下にいるのに、恥ずかしさで顔が火照っている。瞬く間にじっとり汗までかいていた。
「それで、今からあなたのお部屋に行こうかと……」
「そう。じゃあ、おいでなさいよ」
ネルは、にっこりと艶やかな笑みを浮かべた。僕の心臓がどくんと跳ねあがる。良かった。怒っているのではないのだ。気づかれないように、密かに安堵の吐息を漏らした。
ネルの部屋は昨日と同じ。手のつけられていない朝食と、漂う甘い薔薇の香り。
僕は驚いて壁際の暖炉の上に目を向けた。鮮やかな真紅の薔薇が、昨日以上に華やかに、その豪奢な姿を誇っている。僕が目を見開いてネルを見ると、彼女は誇らしげに口角をあげた。
「昨日、みんなでゲームをしたの。負けた人には、なんでも命令できるのよ。私、もちろん勝って命令したの。この部屋以外の紅い薔薇を全部窓から投げ捨てて、って」
ネルは顎先に白くほっそりとした指を当てた。今日の爪色はこの薔薇と同じ。しっとりと濡れたように光る唇の下で、艶やかさを競う。
「私、十把一絡げの花なんていらないの。これは、私だけの特別な薔薇。ねぇ、そうでしょう? あなただって、そう思うでしょう?」
セレストブルーの神秘的な瞳を怪しく輝かせ、彼女は、そう言ってくすりと笑った。
0
あなたにおすすめの小説
私の守護霊さん
Masa&G
キャラ文芸
大学生活を送る彩音には、誰にも言えない秘密がある。
彼女のそばには、他人には姿の見えない“守護霊さん”がずっと寄り添っていた。
これは——二人で過ごした最後の一年を描く、かけがえのない物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
鷹鷲高校執事科
三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。
東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。
物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。
各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。
表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)
眠らせ森の恋
菱沼あゆ
キャラ文芸
新米秘書の秋名つぐみは、あまり顔と名前を知られていないという、しょうもない理由により、社長、半田奏汰のニセの婚約者に仕立て上げられてしまう。
なんだかんだで奏汰と同居することになったつぐみは、襲われないよう、毎晩なんとかして、奏汰をさっさと眠らせようとするのだが――。
おうちBarと眠りと、恋の物語。
あやかし警察おとり捜査課
紫音みけ🐾新刊2月中旬発売!
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。
しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。
反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる