夏の嵐

萩尾雅縁

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「ルーシーなら僕も応援するのに、って確かにそう仰ったわ」

 決定的だ……。

 波立つ心の中をルーシーやロバートに悟られないように、僕は努めて平静を装った。

「ディックに応援されてその気になるなよ、ジオ」

 誰が!

「兄さんを呼び捨てにするなよ!」
 僕の心の苛立ちはそのまま声音に反映された。ロバートはふん、と鼻を鳴らし、ルーシーはまんざらでもなさそうな顔をして、つんと余裕の笑みを浮かべる。おい、おい、勘違いしないでよ。

「心配しなくても、僕は親友の彼女にどうこうなんて、絶対にありえないからね」

 ロバートはびっくりしたように目を見開き、ルーシーはがっかりしたように笑みを消した。

 きみたち、やはりお似合いだよ――。気の多いロバートに、誰にでもいい顔をするルーシー。似た者同士だから気も合うんだろ!

 そこのところが彼女は違う。僕だけを朝食に誘ってくれるし、僕と喋っているときはあの甲高い声音じゃなくて、もっとおっとりした口調だし、それに――、僕には優しいもの。

 僕は身体を捻ってソファーの背もたれに腕をかけ、背後のフランス窓からテラスを眺めた。あの薔薇は、もうすっかり片づけられている。空は澄み渡り、なにごともなかったかのように太陽が照りつけている。僕らのいる図書室はもう昨日の残り香すらなく、古臭く、かび臭い、いつもの臭いが支配する。


 兄さんもネルを好きだなんて――。

 エリック卿の言っていた、『あんな子どもを相手にしたりしない』って、やっぱりネルのことなんだ。エリック卿は結婚してるし、そりゃ、ネルだって彼からしてみれば、まだまだ子どもみたいなものだよね。紳士で優しいエリック卿にネルが甘えているから、兄さん、焼きもちを焼いていたなんて……。


 僕がネルと二度目の朝食を食べていたころ、兄は変わらずテラスにいて、エリック卿と話をしていたらしい。
 一面の薔薇に驚いたロバートとルーシーがテラスに顔をだしたとき、兄は二人を見て微笑んで、『仲良しカップルで羨ましい。ジオはどうだろうね? ルーシーみたいに可愛い彼女ができたら、僕も喜んで応援するのにね』と言ったのだそうだ。

 ルーシーは、可愛いと言われて舞いあがり、ロバートは誇らしげに胸を張り、ついでに僕に牽制をかけてきた。

 馬鹿だな、べつに僕にルーシーを勧めているんじゃないだろ? これは、僕が好きなのがネルじゃなかったら良かったのに、て意味だよ。だって、兄弟でライバルになるなんて辛いじゃないか……。どうして、解んないのかなぁ? 

 僕は、二人のあまりの頭の悪さに軽蔑を込めて息を吐いた。 

 ああ、兄さん。もし兄さんが本気でネルのことが好きなのなら、僕は男らしく譲るべきなんだろうか――。


 でも、テラスに散らされた紅い薔薇。あれがネルの答えなのだとしたら……。ネルは僕の贈った薔薇だけが特別だ、って言ってくれたんだもの。
 無残に捨てられた兄の薔薇。僕は、踏み散らされた花弁を思い、心が痛む。



「ジオ?」
 黙りこんでしまっていた僕を、ルーシーが呼んだ。
「なにかゲームでもしようよ。退屈だよ。こんなことなら、ディックたちと一緒に釣りに行けば良かったな。それか、ネルに頼めば良かったよ、ご一緒してもいいですかって」
 ロバートは、つまらなそうに息を吐く。

 ネルは兄の友人と一緒にロンドンに行っている。車で片道三時間はかかるから、帰ってくるのは遅くなりそうだ。買い物しなきゃいけないって。日用品なら村で買えるけれど、ネルにはこんな田舎で済ませる気なんて、さらさらない。お洒落なネルは、ハンカチ一枚にだってこだわるのだ。女の子って大変なのだ。

 ゲームなんてする気分にはなれなかった。だから二人に断って、僕は図書室を後にした。



 テラスに出て庭に下りた。生垣をまわって薔薇園に向かう。兄の薔薇はほとんどが花を摘み取られ、もうわずかにしか残っていない。雨のあとの土の匂いが立ちのぼる。懐かしい薔薇の香りはわずかもない。
 僕は残っている薔薇のひとつに手を伸ばした。
「つっ!」
 引っ込めた人差し指の先に、ぷっくりと赤い玉が載っている。口に含んで軽く吸った。舌に滲んだ血の味は、かすかに生臭くて甘かった。

 今度は刺に引っ掛けないように、慎重に花弁だけに指を当て、鼻を近づけた。僕の知っている、あの薔薇の香りはしなかった。どの薔薇でも強く香るのではないのだと、初めて気がついた。

 首を落とされた罪人たちの墓場のような薔薇園を後にした。ガーデンルームをいくつか抜けて林に向かった。暗い胸の内を暴き立てる陽光を、遮る影が欲しかったのだ。



 重なり合う梢が濃い影を落としてくれる。逆光に輝く木の葉は金色だ。差し込む光は天からの矢のようで――。僕の欲張りで身勝手な欲望を突き刺すように降り注ぐ。
 小鳥のさえずり、葉擦れの向こうに、せせらぎが近づいてくる。

 ボート小屋の前まで来て、ふと首を傾げた。鍵がかかっていなかったのだ。鉄の重たい扉を押して中に入った。足下で揺れる水面にちらりと目を遣り、隣室のドアを開ける。ウォールナットの板張りの床に敷かれたカーペットに、毛布が丸めて置かれている。テーブルの上には、飲みさしのワイングラスが残されていた。誰かがここを使ったのかな? ボートで釣りにでも出たのだろうか。
 僕はだらしなく放置されたままの室内に眉を潜め、腰をおろした。

 兄さん、ごめん。僕はやっぱり、彼女のことを諦めるのは嫌だ――。

 グラスにべっとりと残る口紅の跡を見つめ、やるせない想いで息をついた。





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