20 / 28
19
しおりを挟む
「ルーシーなら僕も応援するのに、って確かにそう仰ったわ」
決定的だ……。
波立つ心の中をルーシーやロバートに悟られないように、僕は努めて平静を装った。
「ディックに応援されてその気になるなよ、ジオ」
誰が!
「兄さんを呼び捨てにするなよ!」
僕の心の苛立ちはそのまま声音に反映された。ロバートはふん、と鼻を鳴らし、ルーシーはまんざらでもなさそうな顔をして、つんと余裕の笑みを浮かべる。おい、おい、勘違いしないでよ。
「心配しなくても、僕は親友の彼女にどうこうなんて、絶対にありえないからね」
ロバートはびっくりしたように目を見開き、ルーシーはがっかりしたように笑みを消した。
きみたち、やはりお似合いだよ――。気の多いロバートに、誰にでもいい顔をするルーシー。似た者同士だから気も合うんだろ!
そこのところが彼女は違う。僕だけを朝食に誘ってくれるし、僕と喋っているときはあの甲高い声音じゃなくて、もっとおっとりした口調だし、それに――、僕には優しいもの。
僕は身体を捻ってソファーの背もたれに腕をかけ、背後のフランス窓からテラスを眺めた。あの薔薇は、もうすっかり片づけられている。空は澄み渡り、なにごともなかったかのように太陽が照りつけている。僕らのいる図書室はもう昨日の残り香すらなく、古臭く、かび臭い、いつもの臭いが支配する。
兄さんもネルを好きだなんて――。
エリック卿の言っていた、『あんな子どもを相手にしたりしない』って、やっぱりネルのことなんだ。エリック卿は結婚してるし、そりゃ、ネルだって彼からしてみれば、まだまだ子どもみたいなものだよね。紳士で優しいエリック卿にネルが甘えているから、兄さん、焼きもちを焼いていたなんて……。
僕がネルと二度目の朝食を食べていたころ、兄は変わらずテラスにいて、エリック卿と話をしていたらしい。
一面の薔薇に驚いたロバートとルーシーがテラスに顔をだしたとき、兄は二人を見て微笑んで、『仲良しカップルで羨ましい。ジオはどうだろうね? ルーシーみたいに可愛い彼女ができたら、僕も喜んで応援するのにね』と言ったのだそうだ。
ルーシーは、可愛いと言われて舞いあがり、ロバートは誇らしげに胸を張り、ついでに僕に牽制をかけてきた。
馬鹿だな、べつに僕にルーシーを勧めているんじゃないだろ? これは、僕が好きなのがネルじゃなかったら良かったのに、て意味だよ。だって、兄弟でライバルになるなんて辛いじゃないか……。どうして、解んないのかなぁ?
僕は、二人のあまりの頭の悪さに軽蔑を込めて息を吐いた。
ああ、兄さん。もし兄さんが本気でネルのことが好きなのなら、僕は男らしく譲るべきなんだろうか――。
でも、テラスに散らされた紅い薔薇。あれがネルの答えなのだとしたら……。ネルは僕の贈った薔薇だけが特別だ、って言ってくれたんだもの。
無残に捨てられた兄の薔薇。僕は、踏み散らされた花弁を思い、心が痛む。
「ジオ?」
黙りこんでしまっていた僕を、ルーシーが呼んだ。
「なにかゲームでもしようよ。退屈だよ。こんなことなら、ディックたちと一緒に釣りに行けば良かったな。それか、ネルに頼めば良かったよ、ご一緒してもいいですかって」
ロバートは、つまらなそうに息を吐く。
ネルは兄の友人と一緒にロンドンに行っている。車で片道三時間はかかるから、帰ってくるのは遅くなりそうだ。買い物しなきゃいけないって。日用品なら村で買えるけれど、ネルにはこんな田舎で済ませる気なんて、さらさらない。お洒落なネルは、ハンカチ一枚にだってこだわるのだ。女の子って大変なのだ。
ゲームなんてする気分にはなれなかった。だから二人に断って、僕は図書室を後にした。
テラスに出て庭に下りた。生垣をまわって薔薇園に向かう。兄の薔薇はほとんどが花を摘み取られ、もうわずかにしか残っていない。雨のあとの土の匂いが立ちのぼる。懐かしい薔薇の香りはわずかもない。
僕は残っている薔薇のひとつに手を伸ばした。
「つっ!」
引っ込めた人差し指の先に、ぷっくりと赤い玉が載っている。口に含んで軽く吸った。舌に滲んだ血の味は、かすかに生臭くて甘かった。
今度は刺に引っ掛けないように、慎重に花弁だけに指を当て、鼻を近づけた。僕の知っている、あの薔薇の香りはしなかった。どの薔薇でも強く香るのではないのだと、初めて気がついた。
首を落とされた罪人たちの墓場のような薔薇園を後にした。ガーデンルームをいくつか抜けて林に向かった。暗い胸の内を暴き立てる陽光を、遮る影が欲しかったのだ。
重なり合う梢が濃い影を落としてくれる。逆光に輝く木の葉は金色だ。差し込む光は天からの矢のようで――。僕の欲張りで身勝手な欲望を突き刺すように降り注ぐ。
小鳥のさえずり、葉擦れの向こうに、せせらぎが近づいてくる。
ボート小屋の前まで来て、ふと首を傾げた。鍵がかかっていなかったのだ。鉄の重たい扉を押して中に入った。足下で揺れる水面にちらりと目を遣り、隣室のドアを開ける。ウォールナットの板張りの床に敷かれたカーペットに、毛布が丸めて置かれている。テーブルの上には、飲みさしのワイングラスが残されていた。誰かがここを使ったのかな? ボートで釣りにでも出たのだろうか。
僕はだらしなく放置されたままの室内に眉を潜め、腰をおろした。
兄さん、ごめん。僕はやっぱり、彼女のことを諦めるのは嫌だ――。
グラスにべっとりと残る口紅の跡を見つめ、やるせない想いで息をついた。
決定的だ……。
波立つ心の中をルーシーやロバートに悟られないように、僕は努めて平静を装った。
「ディックに応援されてその気になるなよ、ジオ」
誰が!
「兄さんを呼び捨てにするなよ!」
僕の心の苛立ちはそのまま声音に反映された。ロバートはふん、と鼻を鳴らし、ルーシーはまんざらでもなさそうな顔をして、つんと余裕の笑みを浮かべる。おい、おい、勘違いしないでよ。
「心配しなくても、僕は親友の彼女にどうこうなんて、絶対にありえないからね」
ロバートはびっくりしたように目を見開き、ルーシーはがっかりしたように笑みを消した。
きみたち、やはりお似合いだよ――。気の多いロバートに、誰にでもいい顔をするルーシー。似た者同士だから気も合うんだろ!
そこのところが彼女は違う。僕だけを朝食に誘ってくれるし、僕と喋っているときはあの甲高い声音じゃなくて、もっとおっとりした口調だし、それに――、僕には優しいもの。
僕は身体を捻ってソファーの背もたれに腕をかけ、背後のフランス窓からテラスを眺めた。あの薔薇は、もうすっかり片づけられている。空は澄み渡り、なにごともなかったかのように太陽が照りつけている。僕らのいる図書室はもう昨日の残り香すらなく、古臭く、かび臭い、いつもの臭いが支配する。
兄さんもネルを好きだなんて――。
エリック卿の言っていた、『あんな子どもを相手にしたりしない』って、やっぱりネルのことなんだ。エリック卿は結婚してるし、そりゃ、ネルだって彼からしてみれば、まだまだ子どもみたいなものだよね。紳士で優しいエリック卿にネルが甘えているから、兄さん、焼きもちを焼いていたなんて……。
僕がネルと二度目の朝食を食べていたころ、兄は変わらずテラスにいて、エリック卿と話をしていたらしい。
一面の薔薇に驚いたロバートとルーシーがテラスに顔をだしたとき、兄は二人を見て微笑んで、『仲良しカップルで羨ましい。ジオはどうだろうね? ルーシーみたいに可愛い彼女ができたら、僕も喜んで応援するのにね』と言ったのだそうだ。
ルーシーは、可愛いと言われて舞いあがり、ロバートは誇らしげに胸を張り、ついでに僕に牽制をかけてきた。
馬鹿だな、べつに僕にルーシーを勧めているんじゃないだろ? これは、僕が好きなのがネルじゃなかったら良かったのに、て意味だよ。だって、兄弟でライバルになるなんて辛いじゃないか……。どうして、解んないのかなぁ?
僕は、二人のあまりの頭の悪さに軽蔑を込めて息を吐いた。
ああ、兄さん。もし兄さんが本気でネルのことが好きなのなら、僕は男らしく譲るべきなんだろうか――。
でも、テラスに散らされた紅い薔薇。あれがネルの答えなのだとしたら……。ネルは僕の贈った薔薇だけが特別だ、って言ってくれたんだもの。
無残に捨てられた兄の薔薇。僕は、踏み散らされた花弁を思い、心が痛む。
「ジオ?」
黙りこんでしまっていた僕を、ルーシーが呼んだ。
「なにかゲームでもしようよ。退屈だよ。こんなことなら、ディックたちと一緒に釣りに行けば良かったな。それか、ネルに頼めば良かったよ、ご一緒してもいいですかって」
ロバートは、つまらなそうに息を吐く。
ネルは兄の友人と一緒にロンドンに行っている。車で片道三時間はかかるから、帰ってくるのは遅くなりそうだ。買い物しなきゃいけないって。日用品なら村で買えるけれど、ネルにはこんな田舎で済ませる気なんて、さらさらない。お洒落なネルは、ハンカチ一枚にだってこだわるのだ。女の子って大変なのだ。
ゲームなんてする気分にはなれなかった。だから二人に断って、僕は図書室を後にした。
テラスに出て庭に下りた。生垣をまわって薔薇園に向かう。兄の薔薇はほとんどが花を摘み取られ、もうわずかにしか残っていない。雨のあとの土の匂いが立ちのぼる。懐かしい薔薇の香りはわずかもない。
僕は残っている薔薇のひとつに手を伸ばした。
「つっ!」
引っ込めた人差し指の先に、ぷっくりと赤い玉が載っている。口に含んで軽く吸った。舌に滲んだ血の味は、かすかに生臭くて甘かった。
今度は刺に引っ掛けないように、慎重に花弁だけに指を当て、鼻を近づけた。僕の知っている、あの薔薇の香りはしなかった。どの薔薇でも強く香るのではないのだと、初めて気がついた。
首を落とされた罪人たちの墓場のような薔薇園を後にした。ガーデンルームをいくつか抜けて林に向かった。暗い胸の内を暴き立てる陽光を、遮る影が欲しかったのだ。
重なり合う梢が濃い影を落としてくれる。逆光に輝く木の葉は金色だ。差し込む光は天からの矢のようで――。僕の欲張りで身勝手な欲望を突き刺すように降り注ぐ。
小鳥のさえずり、葉擦れの向こうに、せせらぎが近づいてくる。
ボート小屋の前まで来て、ふと首を傾げた。鍵がかかっていなかったのだ。鉄の重たい扉を押して中に入った。足下で揺れる水面にちらりと目を遣り、隣室のドアを開ける。ウォールナットの板張りの床に敷かれたカーペットに、毛布が丸めて置かれている。テーブルの上には、飲みさしのワイングラスが残されていた。誰かがここを使ったのかな? ボートで釣りにでも出たのだろうか。
僕はだらしなく放置されたままの室内に眉を潜め、腰をおろした。
兄さん、ごめん。僕はやっぱり、彼女のことを諦めるのは嫌だ――。
グラスにべっとりと残る口紅の跡を見つめ、やるせない想いで息をついた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ちゃぶ台の向こう側
仙道 神明
キャラ文芸
昭和のまま時が止まったような家に暮らす高校生・昭一。
悩みを抱えながらも周囲に心を閉ざす少女・澪が、ある日彼の家を訪れる。
ちゃぶ台を囲む家族の笑い声、昭和スタイルの温もり――
その何気ない時間が、澪の心に少しずつ光を灯していく。
ちゃぶ台を囲むたびに、誰かの心が前を向く。
忘れかけた“ぬくもり”と“再生”を描く、静かな人情物語。
※本作品は「小説家になろう」「エブリスタ」にも重複掲載しています。
睿国怪奇伝〜オカルトマニアの皇妃様は怪異がお好き〜
猫とろ
キャラ文芸
大国。睿(えい)国。 先帝が急逝したため、二十五歳の若さで皇帝の玉座に座ることになった俊朗(ジュンラン)。
その妻も政略結婚で選ばれた幽麗(ユウリー)十八歳。 そんな二人は皇帝はリアリスト。皇妃はオカルトマニアだった。
まるで正反対の二人だが、お互いに政略結婚と割り切っている。
そんなとき、街にキョンシーが出たと言う噂が広がる。
「陛下キョンシーを捕まえたいです」
「幽麗。キョンシーの存在は俺は認めはしない」
幽麗の言葉を真っ向否定する俊朗帝。
だが、キョンシーだけではなく、街全体に何か怪しい怪異の噂が──。 俊朗帝と幽麗妃。二人は怪異を払う為に協力するが果たして……。
皇帝夫婦×中華ミステリーです!
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる