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4 音楽棟

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 フランクはヘンリーを見下ろしてクスリと笑った。
「きみは何も判っちゃいないお子さまだけど、まぁ、いいよ。貴重なお仲間だものね」
 わけが判らない――。と、ますます険しさを募らせているヘンリーだ。だがフランクはそんな彼にはおかまいなしで、その柔らかな透き通る金髪を、くしゃりと撫でる。
「判らない? 僕はキングスリーだよ。きみやラザフォード家と同じ。まぁ、きみ達と違って、うちはとっくに落ちぶれちゃったけれどね」

 ヘンリーの緊張がすっと解けたようだった。今さらながらまじまじと目の前の少年を見つめる。なんの奢りもない、にこやかな笑みを湛えた、一見平凡でこれといった特徴のない一歳ひとつ上の先輩――。

「35家?」
「やっと解ってくれた? 僕たちはウイリアム征服王の時代からこの英国を守ってきた、由緒正しきイングランド貴族の末裔なんだ。あんな新興の成り上がり連中なんかに、やられっ放しなんてわけにはいかないだろ!」
「でもきみ、黒髪だ」
「仕方がないだろ。きみのところみたいに近親婚の繰り返しってわけにはいかなかったんだ。20世紀に入るころには、領地も財産もすっかりなくしちゃったしね」


 15世紀に勃発した30年に渡る薔薇戦争で、それ以前の英国貴族は死に絶えたと思われているがそれは事実ではない。現存する世襲貴族750家の内、連綿と千年近い時を繋ぎ続けているのが、現在35家。
 ヘンリーとアーネスト、そして彼の弟とは何百年に渡る姻戚関係のある家同士のつきあいで、個人的にも赤ん坊のころからの旧知の仲だ。ソールスベリー家とラザフォード家――。だがそれ以外の35家の人間に、ヘンリーはこれまで出会ったことがなかった。

「さぁ、早く行こうよ! 朝食を食べ損ねてしまうよ!」
 フランクは、ぼんやりと立ち尽くしていたヘンリーの背中をバン、と勢いよく叩くと、また、いつものようにくだらないお喋りを捲したてながら階段を下りていった。



 それからフランクは、ヘンリーにいろんな事を教えてくれた。
 校内の勢力図。家同士の格からくる上下関係。十二の一般寮と、ヘンリーのいる奨学生のためのカレッジ寮の力関係。対立する寮や友好関係にある寮のこと。学校の七不思議に、上級生が密談をするための秘密の場所――。

「きみ、どうしてそんなにいろんな事を知っているの?」
「そりゃ、調べたからさ」
 吸い込まれそうなセレストブルーの瞳をまん丸くして訊ねるヘンリーに、当然のようにフランクは答える。
「今の僕は社会的弱者だからね! ヒエラルキーの底辺にいる人間は、生きていくだけで必死なんだよ!」
 大袈裟に溜息をつき、大笑いながらそう言った。



「やぁ、トミー、遅かったじゃないか! 待ちくたびれちゃったよ!」
 ヘンリーと二人、音楽棟の壁にもたれて日向ぼっこをしていたフランクが、建物の角からいきなり現れた小柄な少年に大声で呼びかける。怯えた子鼠のようにおどおどとした青白い顔の少年の背後には、背の高い上級生が二人。逃がさないように――、とでもしているかのように両側から彼の細い腕を掴んでいる。

「先輩方、こんにちは! 僕たち日向ぼっこをしているんですけれどね、先輩方もご一緒にどうです? ここ、日当たりがいいでしょう? とても気持ちいいんですよ。僕たち、ラザフォード先輩と待ち合わせていてね、彼はこの上の階でピアノのレッスンを、」
 フランクはのんびり喋りながら、片腕を伸ばして頭上の窓を指さして見せる。
「お前たちみたいな暇な真似してられるかよ!」
 その二人の上級生はラザフォードの名が出たとたんに捉まえていた少年を放し、ちっと舌打ちをしてすぐさま行ってしまった。


 ほーと息をついて芝生にへたり込んだ彼にフランクは素早く寄っていくと、優しく背中をさすってやった。

「トニー、大丈夫?」
 彼はまだ小刻みに震えているようだった。
「きみがいてくれて助かったよ」と消え入りそうな声で呟く。
「うん。きみの仲良しのロビンがさ、お腹を壊して医療棟だろ? きみ、今日一人っきりだと思ってさ、心配していたんだ」
「ありがとう、フランク」
「何言ってるんだよ、お互いさまさ」
 涙ぐんでいる顔を自分に向けたトニーの瞼を指で拭ってやりながら、フランクはにっこりと微笑んでいる。

 トニーを教室まで送った後あと、フランクは居合わせた監督生としばらくの間話し込んでいた。ヘンリーは離れた場所で、そんな彼の様子をじっと興味深そうに見つめていた。


「彼、なんで上級生に捉まっていたの?」
 寮への帰り道、ヘンリーはさり気なさを装いつつ、フランクに質問した。
「カツアゲ。きみも、あいつらには注意するんだよ」
 フランクは不愉快そうに眉根をしかめていた。彼にしては簡潔な説明で、待っていてもそれ以上の言葉がなかったので、ヘンリーは続けて別の疑問をぶつけることにした。

「アー二―は、今日、音楽の日じゃないだろ?」
「アーネスト・ラザフォードの名前はね、この学校じゃスコットランド・ヤード並の効果があるんだよ。名門中の名門だからね。誰だって彼に睨まれたくないし、嫌われたくないだろ? そういう意味じゃ、きみ、もっと彼を頼るべきだよ。立派な親戚同士なのに、意外に知られてないんだよねぇ……」
「嫌だよ、そんなみっともない真似をするのは」
「プライドだけは一人前なんだね」
 フランクはクスクス笑いながら首を傾けている。

「きみがそうやって、ひとりで我慢しようとするから、あいつらがつけあがるんだよ」
「だからって、きみ、僕のいない間に部屋のドアに変な仕掛けをするのはやめてくれないか?」
「荒らされなくなっただろ?」
「荒らされていた時より酷いありさまだよ! ドアの周りが水浸しだったり、石灰だらけだったり――。あれの後始末をするのは僕なんだからね! それに、あの――」
「鼠?」
 悪戯っ子のように瞳を輝かせて笑うフランクを横目でちらと見て、ヘンリーは思いきり溜息をつく。
「三匹も! さすがにあれを素手で触るなんてできないから、ジャイルさんに引き取ってもらったよ。ついでにドア周りと床の消毒もしてもらって――」
 ヘンリーはもう一度大袈裟に溜息をつき、ポケットからチャラチャラと小銭を取りだして、フランクに握らせた。
「はい、きみの六十ペンス」
「ありがとう! いや、僕、あの時自分の部屋にいたんだけれどね、すごかったよ、あいつの叫び声! 一番端の僕の部屋まで聞こえてきたからねぇ! よほどあの鼠の死骸を引き取りにいこうかと――」

 えんえんと喋り始めたフランクの邪魔をするのはやめにして、ヘンリーは相槌を打ちながら彼の話に耳を傾けた。このしたたかで抜け目のない、そのくせ義侠心に溢れた少年にいつの間にか惹きつけられている。そんな自分に気づき密かに苦笑いが漏れていた。だが同時に、この学校に入学して以来初めて、ヘンリーはゆっくりと呼吸でき現実を眺める余裕ができたのだ。おそらくは、この賑やかでお喋りな彼のおかげで――。


「でも、きみ、ヴァイオリンの腕は壊滅的だね」
 ヘンリーは音楽棟で待っている間に聞こえてきた、彼のレッスンの様子をふと思いだしていた。とたんにフランクは大声で笑いだす。
「まったくもって酷いだろ! 僕もよくあれで試験に通ったなって、これはもう、僕の人生最大の謎と言ってもいいほどで――」

 勢いよく再開したフランクの流れるような言葉のシャワーを浴びながら、ヘンリーは当然のように彼と肩を並べて、夕闇の迫るフェロー・ガーデンをぬける帰路につくのだ。





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