微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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四章

116 月下美人

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 見出したのは
 一筋の銀の光明
 



「よけいなお世話だよ」

 僕は肩を震わせて、笑いだしてしまったよ。

「それで先輩方はどこにいるの? きみのコネを使って逮捕でもしたの?」
 くすくす笑いが止まらなかった。

 救うだって? 冗談じゃないよ。また、あそこに僕をブチ込むつもり?

「パブだよ。ずっとパブで話しこんでいる」
「今日、あれからずっと僕をつけていたの?」

 暖房は入っているけれど裸ではさすがに寒かったので、床の上からシャツを拾いあげ袖を通しながら訊ねた。

「もっと前からだよ」

 銀狐は、いつもの謎めいた薄笑いを浮かべて僕を見つめる。意味が解らず、ボタンを留める手を止めた。

「クリスマス・マーケットの頃からずっと、きみがここに通っていたことは知っていたよ」
 銀狐の金の瞳が僕を睨めつける。
「僕を非難しているの?」
 立ちあがり、散らばっている衣服を拾い集めた。

「不誠実だ」

 ちらりと、銀狐の顔を盗み見た。怒っているのか、失望しているのか――。いつもの取り澄ました彼の表情とは違う、まっすぐな感情が嬉しかった。でも僕は、そんな彼をさらに失望させる言葉を吐くだけだ――。
 彼の横に腰かけ、ふざけた、揶揄うような口調で応えた。

「誰に対して? 僕は自分に忠実なだけだよ。総監とはきみが思っているような仲じゃないよ。僕は先輩のことが好きなんだもの。僕が誰と付き合おうと、きみに口出しされることじゃない」

 銀狐、きみの誠意はこんな僕には見合わない。

「判らないの? きみは利用されているだけだってこと、」
 露骨に顔がしかめられる。それが自分自身の苦痛ででもあるかのように、彼の顔が悔しそうに歪む。

「きみはね、下級生の頃から有名だった。先輩方の間で、月下美人って呼ばれていた。でも、誰もきみの本当の名を知らなかったし、知っていても喋ろうとはしなかった。セディも――。きみがその月下美人だとは言わなかった。きみは、自分がいくらで売り買いされていたか、知っているの?」

 僕は黙って頷いた。本当は知らなかったけれど。子爵さまのときとはまた違うのだろうか? 僕の値段は僕が吸っていたジョイントの値段だ。決して安くはないことだけは解るけど――。

「どうして、そんな非道なことに従っていたんだ? お金だって受け取っていた訳ではないんだろう?」

 報酬はジョイント――。

 ここにきてやっと僕は、彼が今まで一切ジョイントには触れていないことに気がついた。銀狐は、僕が梟や蛇に強制されて身体を売っていたと思っているみたいだ。

 銀狐はジョイントのことは知らないんだ!

 夏に、銀狐と梟がカフェで会ったときのことを突然思いだした。あのときもジョイントの話は出なかった。
 
 子爵さまだって、僕の話はしても、ジョイントを日常的に吸っていたなんて、警察官の子息である銀狐に言えるはずがなかったのだ。

 ほっと安堵して、彼に向かってにっこりと微笑んだ。

「僕はね、一人が相手じゃ満足できないんだよ。きみと違って根っから不誠実だからね」

 衣服を抱えて立ちあがった。
「お風呂に入ってくる。もう帰りなよ。彼らが戻ってきたら面倒だろ? いくらきみだって、無事ではすまないかも知れないよ?」
「この僕を脅迫するの?」
 銀狐は目を細めてくすくす笑う。
「権威なんて、きみが思っているほど大したものでもなんでもないよ。だって、――赤のウエストコートは、僕を守ってはくれなかったもの」

 僕の皮肉な口調に、銀狐はほんの少し驚いたように目を瞠る。だけどすぐにいつもの薄笑いを浮かべると、「お風呂に入っておいで。ここで待っているから。それから、きみは僕と一緒にここを出るんだよ」と、当然のことのように僕に指示した。

 僕は小さくため息を漏らし、浴室に消えた。



 キャンドルに火をともし、ゆっくりと湯船に浸かって、念入りに髪を洗ってでると、部屋の電気がついていた。それなのに、人の気配すら感じられないほど静まりかえっている。カチャリと浴室のドアを開けたその音が、ひどく大きく響いて聞こえた。
 嫌な予感に眉根を寄せ、沈黙の支配する室内を見渡した。キッチンと壁一枚隔てたベッドマットレスには相変わらず銀狐が座り、壁際のソファーでは梟が煙草をふかしている。他に、OBの先輩方が三人ほど、窓際の壁に張りつくようにして外を見おろしていた。
 

「マシュー、用意はいいかい?」

 銀狐がにこやかな声を僕に向ける。僕はそっと梟に視線を向けた。梟は黙って顎で僕の荷物を指し示した。

 黙ったまま、のろのろと旅行鞄を持ちあげた。

「悪いけど、きみ、肩を貸してくれるかな。上手く立ちあがれなくてね」

 僕のせい? 僕が酷いことをしたから――。

 凍りついたように動けなくなった僕の代わりに、梟が銀狐を支え起こした。そのまま彼の肩に腕を回し、身体をしっかりと支えて歩きだす。僕はちらりと、窓際でその様子を見守る先輩方に軽く会釈し、二人の後に続いた。


 階段を下り、玄関のドアを開けると、乗用車が一台停まっていた。梟は後部座席に銀狐を乗せると僕を見て苦笑して、くしゃりと髪を撫でてくれた。そしてフラットに戻っていった。何も言わずに――。


 銀狐はここまで歩くだけでも相当苦痛だったのか、シートにもたれかかると深い吐息を漏らしていた。

「紹介するよ、僕の兄」
「よろしく、マシュー」

 運転席から、銀狐と同じ綺麗なシルバー・ブロンドを短く刈り上げた男が振り返り、右手を差しだしてきた。その手を握り挨拶を返す。

「マシュー、兄は僕と違って本物の警察官ボビーだからね。権威もコネも使いようだよ」

 銀狐は辛そうにシートに頭をもたせたまま、薄目を開けて僕を見ると、にっと唇の端で笑っていた。



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