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一章
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土曜日の午後、ヘンリー・ソールスベリーは寮の自室でヘッドフォンを装着してヴァイオリンの練習をしていた。だが弓を構える度、すぐにおろしてしまう。眉をしかめてはため息をつき、とうとうヘッドフォンを外してしまった。杜月飛鳥はそんな彼を、机に向かうかたわらチラチラと気にしていた。
「アスカ、音を出してもかまわない?」
ヘンリーは、再びヴァイオリンをかまえている。今まで彼がこの部屋で音を出すことはなかったので、飛鳥は少し驚き、もちろん、とこくこく頷く。
だが当の本人の方が、ヴァイオリンをおろしてしまった。
「いや、やっぱり防音室に行くよ」
憂鬱そうな顔で、締め切った窓に軽くもたれかかっている。
「僕も一緒にいって、聴いていてもいいかな?」
飛鳥がおずおずと尋ねると、「かまわないけど、下手だよ。耐えられるかな――」ヘンリーは情けなさそうな笑みを刷いている。だがくいっと頭を傾げて飛鳥を誘い、戸口に歩きだした。
寮の一階にある自習用の防音室で、ヘンリーは録音されたディスクをかけ、それに合わせて弾き始めた。
どこが下手なんだろう、といつもと変わらない滑らかな演奏に聴きほれながら、飛鳥は不思議に思う。普段のヘンリーなら、自分を卑下するようなことは決して言わない。だが、ヘンリーはまたもや途中で止めてしまった。
「やっぱり無理だ」
ヘンリーは飛鳥を見て、言い訳するように苦笑する。
「次のクリスマス・コンサートにね、ソリストに選ばれたんだよ。だけど僕はこれまで、オーケストラと合わせたことがないんだ」
ヘンリーは喋りながらディスクを止めた。
「楽譜通りに弾くと、どうしても合わないんだ。オケのテンポはいつも速過ぎるか遅れているかだし、皆、指示通りに弾かないからバラバラでどうしようもなくてね」
諦めたようなため息が、彼の口からついて出る。
「もう拷問だよ。うちの学校のオケは……。エリオットでは断っていたんだけれど、さすがにここでは僕も音楽スカラーだし、断れなくてね」
投げ遣りな笑みを唇に浮かべ、ヘンリーは無伴奏で弾き始めた。
下手って、オーケストラの方か!
確かに、一人だとなんて気持ち良さそうに弾くのだろう。楽器を演奏しているというよりも、陸に上がった魚が水中に戻って、自由に泳ぎ回っているみたいだ。あるいは鳥籠から放たれた鳥。そんな感じ。
だから、天使って言われるのかな。ヴァイオリンを持っている時だけ、翼を取り戻して空に羽ばたき、束の間の自由を得る――。
彼のこんな一面は、吉野に似ている。飛鳥は日本にいる弟を思いだして、頬を嬉しそうに緩めていた。
一楽章弾き終わったヘンリーに、飛鳥は夢中で拍手する。
「気持ち良かった?」と勢い込んで尋ねると、ヘンリーはにっこりと満足そうに頷いた。
「きみが音楽は言葉だっていう意味、少し解るような気がしたよ。発音や文法が間違えだらけだと、きみは会話するのが嫌になるんだね」
「会話?」
ヘンリーはオウム返しに繰り返した。そういえばヴィオッティ先生にも言われた、と最初の授業を脳裏に浮かべる。
「きみは、僕が日本語から英語に翻訳するために必死に単語を探している間も待ってくれるし、文法や発音の間違いもさりげなく直してくれる。僕の拙い英語でもなんとか会話が成り立つのは、きみが辛抱強く、解ろうとしてくれていたからなんだね。僕がきみと同じレベルで会話できる相手だったら、我慢しないで一人の演奏の時みたいにもっと自由に話せるのに」
「僕は我慢なんてしていないよ。発音や、文法と会話している訳じゃないもの。きみの意見を聞きたいんだもの」
「ありがとう、ヘンリー」
飛鳥は少し恥ずかしそうに笑った。
「もう一回、合わせてみるよ」
ヘンリーはディスクのスタートボタンを押し、ヴァイオリンを奏で始めた。
楽譜通りでなくてもいいのか。聴いているのはサラじゃない。ちゃんと相手の音を聴いて、テンポが遅いならゆっくりと、弱すぎる時は引き上げて、走り過ぎる時は引き締めて――、会話するのだ。でも音を間違えるのだけは勘弁してほしい。弾きながら、ヘンリーはクスリと笑っていた。
今まで一度だって、他人の音を聴こうとしたことがなかったなんて!
ヴィオッティ先生と演奏した時でさえ、先生の音を聴いていなかった。合わせてくれている事に気づいてすらいなかった。飛鳥の指摘で、ヘンリーはその事実に初めて気づいたのだ。
「サラはすごく耳が良くてね」
ヴァイオリンを置いたヘンリーは、愉快そうに飛鳥に話しかけていた。
「少しでも間違えると、ピッと眉を寄せるんだ。こんな風に」
言いながらしかめっ面を崩して、一人、笑いだす。
「僕はそれが怖くて怖くて、必死で練習したよ。間違えないように。今回は彼女が聴いている訳じゃないんだから、もっと気楽にやれば良かったのにね」
椅子に身を投げだし、脱力して深く深呼吸する。
「サラのためのヴァイオリンしか知らなかったから。こんなめちゃくちゃな演奏を楽しんでいる自分が信じられないよ」
ヘンリーは飛鳥に、柔らかな、優しい視線を向けて笑っていた。
“シューニヤ”が、サラという人。ヘンリーの左腕の彼女――。
すべてを捧げて愛している人。
今まで自分とは無縁の理解できない感情でしかなかったヘンリーの想いが、飛鳥にも少し判った気がした。
相手が、“シューニヤ”なら。あんな人は、この世に二人といない。
飛鳥は、ヘンリーから顔を逸らし、ぎゅっと目を瞑っていた。自分でも説明できない感情の渦に巻き込まれて……。
「アスカ、音を出してもかまわない?」
ヘンリーは、再びヴァイオリンをかまえている。今まで彼がこの部屋で音を出すことはなかったので、飛鳥は少し驚き、もちろん、とこくこく頷く。
だが当の本人の方が、ヴァイオリンをおろしてしまった。
「いや、やっぱり防音室に行くよ」
憂鬱そうな顔で、締め切った窓に軽くもたれかかっている。
「僕も一緒にいって、聴いていてもいいかな?」
飛鳥がおずおずと尋ねると、「かまわないけど、下手だよ。耐えられるかな――」ヘンリーは情けなさそうな笑みを刷いている。だがくいっと頭を傾げて飛鳥を誘い、戸口に歩きだした。
寮の一階にある自習用の防音室で、ヘンリーは録音されたディスクをかけ、それに合わせて弾き始めた。
どこが下手なんだろう、といつもと変わらない滑らかな演奏に聴きほれながら、飛鳥は不思議に思う。普段のヘンリーなら、自分を卑下するようなことは決して言わない。だが、ヘンリーはまたもや途中で止めてしまった。
「やっぱり無理だ」
ヘンリーは飛鳥を見て、言い訳するように苦笑する。
「次のクリスマス・コンサートにね、ソリストに選ばれたんだよ。だけど僕はこれまで、オーケストラと合わせたことがないんだ」
ヘンリーは喋りながらディスクを止めた。
「楽譜通りに弾くと、どうしても合わないんだ。オケのテンポはいつも速過ぎるか遅れているかだし、皆、指示通りに弾かないからバラバラでどうしようもなくてね」
諦めたようなため息が、彼の口からついて出る。
「もう拷問だよ。うちの学校のオケは……。エリオットでは断っていたんだけれど、さすがにここでは僕も音楽スカラーだし、断れなくてね」
投げ遣りな笑みを唇に浮かべ、ヘンリーは無伴奏で弾き始めた。
下手って、オーケストラの方か!
確かに、一人だとなんて気持ち良さそうに弾くのだろう。楽器を演奏しているというよりも、陸に上がった魚が水中に戻って、自由に泳ぎ回っているみたいだ。あるいは鳥籠から放たれた鳥。そんな感じ。
だから、天使って言われるのかな。ヴァイオリンを持っている時だけ、翼を取り戻して空に羽ばたき、束の間の自由を得る――。
彼のこんな一面は、吉野に似ている。飛鳥は日本にいる弟を思いだして、頬を嬉しそうに緩めていた。
一楽章弾き終わったヘンリーに、飛鳥は夢中で拍手する。
「気持ち良かった?」と勢い込んで尋ねると、ヘンリーはにっこりと満足そうに頷いた。
「きみが音楽は言葉だっていう意味、少し解るような気がしたよ。発音や文法が間違えだらけだと、きみは会話するのが嫌になるんだね」
「会話?」
ヘンリーはオウム返しに繰り返した。そういえばヴィオッティ先生にも言われた、と最初の授業を脳裏に浮かべる。
「きみは、僕が日本語から英語に翻訳するために必死に単語を探している間も待ってくれるし、文法や発音の間違いもさりげなく直してくれる。僕の拙い英語でもなんとか会話が成り立つのは、きみが辛抱強く、解ろうとしてくれていたからなんだね。僕がきみと同じレベルで会話できる相手だったら、我慢しないで一人の演奏の時みたいにもっと自由に話せるのに」
「僕は我慢なんてしていないよ。発音や、文法と会話している訳じゃないもの。きみの意見を聞きたいんだもの」
「ありがとう、ヘンリー」
飛鳥は少し恥ずかしそうに笑った。
「もう一回、合わせてみるよ」
ヘンリーはディスクのスタートボタンを押し、ヴァイオリンを奏で始めた。
楽譜通りでなくてもいいのか。聴いているのはサラじゃない。ちゃんと相手の音を聴いて、テンポが遅いならゆっくりと、弱すぎる時は引き上げて、走り過ぎる時は引き締めて――、会話するのだ。でも音を間違えるのだけは勘弁してほしい。弾きながら、ヘンリーはクスリと笑っていた。
今まで一度だって、他人の音を聴こうとしたことがなかったなんて!
ヴィオッティ先生と演奏した時でさえ、先生の音を聴いていなかった。合わせてくれている事に気づいてすらいなかった。飛鳥の指摘で、ヘンリーはその事実に初めて気づいたのだ。
「サラはすごく耳が良くてね」
ヴァイオリンを置いたヘンリーは、愉快そうに飛鳥に話しかけていた。
「少しでも間違えると、ピッと眉を寄せるんだ。こんな風に」
言いながらしかめっ面を崩して、一人、笑いだす。
「僕はそれが怖くて怖くて、必死で練習したよ。間違えないように。今回は彼女が聴いている訳じゃないんだから、もっと気楽にやれば良かったのにね」
椅子に身を投げだし、脱力して深く深呼吸する。
「サラのためのヴァイオリンしか知らなかったから。こんなめちゃくちゃな演奏を楽しんでいる自分が信じられないよ」
ヘンリーは飛鳥に、柔らかな、優しい視線を向けて笑っていた。
“シューニヤ”が、サラという人。ヘンリーの左腕の彼女――。
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